第八話:残火と宿命
その夜の空気は重苦しく、血の生臭さと焼け焦げた松の匂いが濃密に混ざり合っていた。
俺は息を強く殺し、逞しい片腕でルナ姫の小さな体をしっかりと抱きかかえていた。もう一方の手は、ミラから渡された短剣の柄を握りしめたままだ。限界まで酷使された筋肉の余韻で、冷ややかな鋼の刃が微かに震えている。木造小屋の外からは、建物を焼き尽くさんとする火焔の爆ぜる音が聞こえ始めていた。最初はささやかだったその音は、長き眠りから目覚めた巨大な怪物の咆哮のように、次第に凄まじい轟音へと変わっていく。
濃厚な橙色の光が、亀裂の入った木壁の隙間から差し込んでくる。
床板の上で狂おしく踊る炎の影が、室内の禍々しさをさらに際立たせていた。俺が素早く振り返ると、先ほど通り抜けた裏口の隙間は、既に息の詰まるような濃密な黒煙で満たされていた。
突如、屋外から短く悲痛な叫び声が響いた。煙に咽び、パニックに陥った掠れ声。俺はその独特のアクセントと口調にすぐさま聞き覚えがあった。誘拐犯のものではない――残された黒装束の刺客の一人だ。
「小屋ごと焼き払え! 奴らを生きてここから出すなッ!」
俺は低く唸り、双眸を鋭く細めた。そのヤケクソな指示は、敵が状況の主導権を完全に失い、絶望している証拠だった。
「もう少しの辛抱ですよ、姫様」
腕の中で蒼白な唇をかみ締め、ぐったりと目を閉じているルナ姫の耳元で、俺はごく小さく囁いた。そして、火に包まれ半ば崩落しかけた正面の扉へ向かって、力強く踏み出した。
足蹴りでドアの残骸を破り捨てると、夜風とともに濃煙と無数の粉じん、そして飛び交う火の粉が容赦なく襲いかかってきた。ぬかるんだ前庭の地面は、鮮血の溜まりと落ち始めた微かな雨粒によって汚されていた――燃え盛る火の怒りを鎮めるには、あまりにも遅すぎる雨だ。
敷居のすぐ近くに、顔を灰と泥に汚した男が無残な屍となって転がっていた。誘拐犯の一人だ。そしてその数歩先、胸に深く裂けた傷を負った頭目が、驚くべき執念でまだ息を永らえさせていた。大柄な男は半ば焦げた庇の柱に力なく寄りかかり、うつろな瞳で俺の登場を見つめていた。
「ボス……」
男の声は途切れ途切れで、風の音にかき消されそうだった。俺は何も答えず、一定の足取りを崩さずに、今や紅蓮の火の海と化した庭を横切っていった。
小屋の西側に広がる暗い樹海から、ミラの影が素早く現れた。彼女の顔は汗と黒い煤で汚れていたが、その鋭い双眸は瞬時に俺と、俺の腕の中にいる幼い少女の姿を捉えた。
「あの野郎、外から火をつけやがったわ!」
ミラが険しい声で叫び、指差した西の暗がりでは、黒装束の刺客が夜霧の奥へ向かって一心不乱に逃走していた。
「生きてるのはあいつ一人よ。追う時間はなさそうだけど」
俺は静かに首を振った。「放っておけ。あの炎の勢いなら、奴の足よりも早く死を届けるはずだ」
ミラは視線を巡らせ、小屋の茅葺き屋根を貪り食う猛火を苦々しく見つめた。「じゃあ……中に残った奴らは?」
俺は振り返り、庇の柱へ視線を向けた。頭目は今もそこに座り込み、血と煤に塗れた顔を上げていた。逃げようとする素振りすら見せない。その瞳は光を失いかけていたが、敗北を受け入れた武人としての最後の誇りを、静かに宿していた。
俺は大きな木の下の濡れていない地面を選び、ルナ姫の小さな背中を幹に預けるようにして、静かに降ろした。そして、死に瀕した男のもとへ歩み寄った。
ミラが警戒を怠らず、いつでも銀の短剣を突き出せる構えで俺の背後についてくる。
「くく……これが、俺の旅路の終わりか」
頭目が擦り切れた声で呟いた。割れた唇から血が伝い落ちるが、その無骨な顔にはどこか自虐的な笑みが浮かんでいた。
「俺はいつか……王城の重臣どもが放った名ある剣士の刃にかかって死ぬと思ってたんだがな……まさか、こんな元下等な奴隷の手にかかるとは」
俺は男の二歩手前で足を止めた。「……俺の正体を知っているのか」
「この国に……血の繋がりもないガキ一人を救うためだけに、単身で地獄に飛び込むバカが他にいるかよ」
男は短く失笑したが、直後に激しく血を吐き出し、口端から赤い泡を溢れさせた。
「皮肉な宿命だな。根本的なところで……俺とお前は同類だ、アブディ。俺たちは呪われた命令に従って踊るだけの道化……ただ、飼い主が違うだけだ」
俺は口を開かず、ただ静かに男を見つめ続けた。背後で激しさを増す炎が屋根の頂点を包み込み、俺たちの顔を血のような赤さで照らし出している。
男はかすむ目をゆっくりと持ち上げ、黒煙が渦巻く夜空を見上げた。
「今夜のマネで……そのガキを苦しみから救えたとでも思っているのか? 外の世界はな……この惨めな小屋の何百倍も獰猛で残酷だぞ、アブディ」
男は残された力を振り絞り、掠れた声で告げた。
「そのガキは……遅かれ早かれ、奴らの政治の道具として利用される運命にある。この世の誰も、その呪われた宿命を止めることなどできん。お前になど……な」
俺は少しだけ視線を落とし、足元のぬかるんだ泥を見つめた。
「そんなことは、百も承知だ」
小さく、だが揺るぎない意志を込めて俺は言った。「だが少なくとも今夜……俺はこの壊れた世界の一部であることをやめると決めた」
頭目はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて乾いた失笑を漏らした。
「まるで……この崩壊した世界をまだやり直せると信じているような言い草だな」
「いいや」俺はきっぱりと否定した。「ただ、二度と壊す側に回りたくないだけだ」
ミラが一歩前に踏み出し、冷徹な声で尋ねた。「トドメを刺す? アブディ」
俺は瀕死の男を見つめた。お互いに異なる陣営に属しながらも、同じような過去の罪を背負った二人の男。視線が最後に交錯する。
俺は静かに首を横に振った。「必要ない、ミラ。この世界の裁きに任せよう」
頭目は勝ち誇ったような小さな笑い声を漏らしたが、それは血に満ちた喉の奥で潰れた。
「少なくとも……命乞いをするような腰抜けではなかったな……」
掠れた呟きを最後に、男の巨躯は右側にゆっくりと倒れ込んだ。意識はすでに途絶え、残された命の灯火は冷たい夜の静寂へと溶けていった。
俺は動かなくなったその体を一瞬だけ見つめた後、踵を返した。そして再び、ルナ姫の体をその腕の中に優しく抱き上げた。
「ここを離れるぞ」俺は short にミラへ告げた。
「どこへ行くの?」
「国境からできるだけ遠くへ。この大火事が城の奴らを呼び寄せる前に」
ミラは無言で頷いた。俺たちは焼け落ちる庭を後にし、夜霧と空から降る火の粉を切り裂いて歩き出した。背後では、古びた木造小屋が激しい音を立てて完全に崩落していった――行き場を失った人間の怒りが生み出した、灰の記念碑のように。
炎の橙色の光と微かな雨のしずくの中、俺たちの足跡は深い森の闇を切り裂く二つの長い影となって伸びていた。
雨は次第に強まり、木々が焼け落ちる轟音を掻き消していく。濃い霧と焦げた木の匂いの中で、俺たちの五感が捉えていた確かなものはただ一つ――重く、疲弊しながらも、自分たちがまだ生きていることを証明する自分自身の息遣いだけだった。
その夜、世界が良くなったわけではない。だが少なくとも――たった一人、幼い少女の命が、猛火の地獄から無事に救い出されたのだった。




