2.踏み込まざる領域
議論もとい言い争いに熱中していたミチル・ジョゼ・サウヴァージュは、シンシャとグレアが抜け出したことを、しっかりと見ていた。
舌を打ち、席を立つ。
「気の置けない男友達の戯れ合いではありませんか。干渉も程度を過ぎれば、煙たがれますよ」
その横を通り過ぎようとした間際、着座したままのシールが言った。
冷ややかにそれを見下ろし、ミチルは言った。
「貴女はどうなの? ずいぶん取り澄ましていらっしゃるけど、あの日陰者に随分ご執心なのでしょう?」
「……同族を気にするのは、当主たる者として当然のことです。あなたは、『小鳥さん』を使っての情報収集に熱心な御様子ですけども、だからこそあらゆる些事が、さも大事のように見えるのではなくて? その割には、ずいぶんと近くのことには目がいかないみたいですね」
平坦な声で言ってから、カップをソーサーごとに取り、紅茶に口付ける。
「どのみち、この学生の時期のみの親交ではありませんか。いずれ、彼らは各々の家を背負い、自身の本分に立ち返ることとなる。そう目くじらを立てることでもないでしょう。むしろ、度量の無さが浮き彫りになるだけのこと」
「だと良いのだけれど」
未だ続く喧騒の中、整った眉根を寄せて、ミチルは呟くように言った。
「知ってる? シンシャさん……彼、今まで他人から食べ物なんて受けつけたことなんてないのよ? じゃあなんで食堂なんかに来たの? 何故あの男のクッキーなら食べようとしたの?」
「……」
「グレア・アンティキラの方はどうなのかしらね。あの不愛想で陰気そうな男が、あそこまで人に執着したことなんて、あったのかしら」
「……ありましたよ、昔ですが」
「私はシンシャさんの、侵すべからざる領域に土足で踏み込み、その在りようを揺るがすような存在を、許しはしない――今の、貴女たちがどうかは知らないけれど、いつまでその上辺だけの余裕が続くものかしらね。あなたがタカをくくるように、一過性のお友達ごっこで済めば良いけど」
紅い水面に立つ波紋を見遣りながら、ミチルは少年たちの抜け出た方角へと、鋭く踵を返したのだった。
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グレアとシンシャは、そのまま外壁の上にやってきていた。
二人だけの居場所。示し合わせてはいないものの、何かしらを語らう時、自然足が向く場所――何か現の煩わしさからの、逃げ場所。
「悪い。飯、食い損ねさせた」
「どーしたのさ、こんなところまで来て。もしや……抜け駆けっ?」
きゃー、と黄色い声をあげて空とぼけてみせるシンシャを、半ば無視するようにして、グレアは言った。
「余計なお世話だったかもしれんが――嫌なんだろ、お前。あぁいうの」
その言葉が、シンシャの虚飾を取り払う。
取り繕うような笑みは、剥がれ、憂えを帯びたものへと転じる。
あぁいうの。すなわち、政治の話。益体もない、家や団体同士の派閥争い。
「気を、遣わせちゃった」
ほろ苦く笑みを繕い直す少年に、
「別に良い。もともと、気晴らしに外出るつもりだった」
とグレアは言った。
「エプロン、着けたまま?」
空色の目が細められ、グレアの身に着けたままの前掛けに向けられる。
「……~~ッ!」
瞬間的に顔を真っ赤にしながら、慌ててそれを脱ぎ去った。
「これはほら、アレだ! あ、そうだポケット! ポッケの中に小腹足すためのパン入ってんの!」
そう言って、大きめにとられた腹前のポケットから、包まれたパンを取り出す。
紙の包みを解きそれを二等分し、「ん」と、グレアはそのうちの一方をシンシャに差し出す。
目を丸くしたシンシャに、
「なんだよ、別に毒とか入っちゃいねーって」
胡乱げに言う。
「入ってても、良いけどね――グレアから渡されたものなら」
シンシャは、曇りなく笑った。
そして二人して、壁の縁に寄り掛かって並び、パンをかじる。
決して大きくはないが、硬く焼き上げられたそれを、時間をかけて。
「……そりゃ、俺らみたいなのには必要なことだとは分かってるよ」
おもむろに、シンシャが切り出した。
それが、先の議論の場のことだと一拍子遅れて、グレアは汲んだ。
「でも、なーんか……もっとスカッとできないもんかなって思うわけ。グレアだって、うんざりしない?」
政の論。謀の議。それら一切の、暗く澱んだ、剣吞なる場。
それは、シンシャの纏う爽やかなる気風には、あまりにそぐわないものであるとは、グレアも思う。
だが――それはあくまでこのシンシャだけのことだ。自分は、彼とは違う。
「俺は、割り切ってる。各企業、派閥間の勢力図、相関性ぐらいは、頭に入ってるしな。ましてや、陛下のお加減も年々ひどくなっていく一方だと聞く。己と、己の家を守るため、情勢の見極めは大事だろう」
「答えになってなってないなぁー」
好むか、好まざるか。
シンシャの問いとは、すなわちそこにある。
「嫌だったらさ、いっそのこと、一緒に逃げちゃう?」
中空を見つめたまま、シンシャは言った。それからすぐに、笑い声を転がせた。
「なーんてね。冗談冗談。駆け落ちなんてしたら、二人してクロノ家に殺されちゃうよ」
と。
「シンシャ」
グレアは、飴を噛み含めるように、その名を呼んだ。
「お前には、感謝してる。色々無茶には付き合わされたが、おかげで自分を見つめ直すことが出来た。だがそれでも、俺にとっての第一義は、クロノ家なんだ。こうやってお前と付き合っているのも、そのためだ。俺はお前と向き合うことで、クロノ家にとって己が何者なのか、再定義する」
「えと……つまり、自分探しってこと?」
「……俗っぽくまとめられたが、まぁそうだよ」
でなければ、揺らぐ。
そこが揺らげば、己が己で無くなる。
何者か分からなくなるのが、恐ろしい。
歯車のままで、良い。
「でもグレア、今のとこクロノ家のためになんも出来てなくない?」
「ハゥグゥッ!?」
さすが天才『竜使い』。言葉のキレも超一流である。
ごめんて、とそれほど申し訳なさそうに感じられない調子で謝った後、軽く頷く。
「――うん、でも好きにすれば良い。君がそれで本当の自分を見つけられるなら。それで俺が、君の役に立てるなら」
グレアはシンシャの前に身を移し、あらためて向かい合う。目線を、合わせる。
それでも、やはり身の丈の差は簡単には埋まらない。自然、シンシャがグレアを仰ぎ見るかたちになる。
澄み渡った天青の双眸。その瞳の中にいる自分の像は、幾らか救われた存在のように想える……そのようなはずが、ないのに。
揺れてはならない。自惚れてはいけない。夢想することは、許されない。
真っ直ぐに見つめ返されるたび、そう言い聞かせてきた。
それでも、こんな矮小で曖昧な存在が、この大きな輝きを翳らせる雲の一端を、払うことが出来るなら。
「だからお前も、俺を使えば良い」
そう、切り出す。
「何か悩みがあるなら、今日みたくパン食いながらでも愚痴ぐらい聞いてやる。流石に出奔はあり得ないにしても、無茶にも付き合う」
「……良いの?」
「……良くは、ねぇんだろうな。多分」
また、シールの期待を裏切ることになるかもしれない。リジェクに、折檻されるかもしれない。
「でも……俺が好きでやってることだ」
「…………」
その髪色ほどに顔と耳を赤くして、シンシャはくすぐったげに俯いた。
「照れんなッ! お前が先に持ち出した概念だろうが!」
「いや、そこまでストレートに言われるとは思ってないよ!? てか、グレアだって今顔真っ赤じゃん!!」
「別に……これはッ! 西日でそう見えてるだけだろ!」
「今昼だよ!? 無理あるでしょその言い訳!」
照れ隠しに、グレアのパンが凄まじい勢いで咀嚼されていく。
「そこまでよ!」
癇の強い語気が、響いてきたのは、まさにその間際だった。
そしてその声のした方角から、無数の青い鳥が、翼を打ち、群れを成して飛び回り、渦を巻くようにして、空を埋め尽くしたのだった。
その中心に、ミチル・ジョゼ・サウヴァージュが、きりりと眉を吊り上げて立っていた。




