89、ハロー戦友
マリアが何も言わないうちに、がらりと体育倉庫の扉が開かれて、二人は飛び上がった。天使たちも一瞬身体を揺らしたが、カイナは冷静にマリアの脱いだ下着を回収して消え、ロウもそれに続いた。
扉を開けた数人の生徒たちも、まさか中にひとがいると思ってなかったようで、怯んだようだ。
「あれ? ナナ? ……なにしてんの?」
先頭にいたのは上級生のようだが、その後ろから顔をのぞかせたのはクラスメイトの岸村である。コーンと得点板、ボールの入ったカゴなどを持っているから、屋外競技の片付けだろう。
「……こんなとこで片付けもせず何してんの、お前ら」
「あっ、えと、すいません。ちょっと、ええと、」
さらに上級生に突っ込まれて、七緒は言い訳をしようとしたが、何も思いつかなかった。「ちょっと話をしていて」なんて言ったら、片付けをさぼりましたと言ってるようなものだし、何より体育館倉庫で男女が何を、ということになる。二人はさっきまで至近距離でしゃがみこんでいたのだから。
そんな七緒を見かねたのか、マリアが一歩前にでる。
「すいません、今、彼がコンタクトを落としてしまって。探してたんですけど……」
「……そいつ、メガネ、してるけど?」
先頭の男子生徒が、訝しげに七緒をにらんでくる。やけに攻撃的な視線だ。もしかすると彼の目には、七緒は可憐な女生徒を体育倉庫に連れ込んだふしだらな奴だと映っているのかもしれない。
そんな噂でも流れたらお終いだ、と七緒は頭をフル回転させる。
「あ、えと、普段はメガネだからいつも持ってて。体育のときはコンタクトなんです。まだ慣れてなくて、彼女と今片付けに来たら、うっかり……」
これが嘘だとわかるのは、同じクラスの岸村だけだ。縋る思いで岸村を見ると、心得た、というふうに目配せされた。彼はごたごたが大嫌いだ。
「ほんじゃ、もう無理だよナナ。こんな汚いトコで落としたら、洗ったってつけられないって。メガネあるなら、もう諦めたら? 閉会式始まるし」
「うん……そうする。木吉さん、付き合わせてごめんね」
「いいって。じゃあ先輩、お先失礼します」
どうやら突っかかってきた上級生は、マリアの知り合いらしい。そりゃ心配もするだろうなと会釈したら、また睨まれた。
閉会式へ向かいながら、マリアは明日のバイトは休むと約束してくれたので、七緒は安心した。
「ナナがそんなに言うならしょうがないじゃん。明日は大人しくしとく」
「良かった。二日目って初日よりきついこと多いからね。あとで岸村くんにお礼言わなきゃなあ」
「あ、そうだ。ごめん、さっきのひとさ、オレに告ってきたひとなんだ」
「へぇー……えっ」
思考回路が、ばちばちショートした。なんだか聞きなれない、単語が。
「こ、コクハクって、なん、だっけ?」
「好きです付き合って下さいの告白だよ。なに、お前こういう話免疫ない……よな、見りゃわかるわ」
よくある恋バナで、しかも端的に伝えただけなのに、七緒の頬はぽっぽと蒸気している。
しかし、怯むばかりではないようで、嬉しそうな、きらきらした瞳で、マリアに問いかけた。
「え、そんで? なんて答えたのっ?」
―――こいつ、オレが男だったって、この一瞬で頭から飛んじゃったんだろうな
全く悪気もからかう気もなく、純粋にそんなことを聞いてくるので、マリアは力が抜けた。
「ゴメンナサイだよ! 最初は男バスのマネジやんないかって勧誘されててさ、それは未だにそうなんだけど。何かと話しかけてきて気持ち悪ぃんだよ」
嫌悪感を露わにマリアが吐き捨てたので、七緒は困惑した。マリアの方も言い過ぎたと思ったのか、すぐに訂正する。
「いや、いいひとなんだよ。男バスの副部長で、人望もあるっぽいんだけど。ただ、さ……」
きっと、男同士であれば気にならなかったかもしれない。けれど、女になって、わかったことがある。
「あのさ、女子ってさ。ほんとに、男がどこ見てるかってのはわかるもんなんだな」
七緒はワンテンポ置いて、言葉の意味を理解した。
「そうだね、割とわかるよね。……でもマリオくんスタイル良い割に小さいよね?」
ぺとり、なんのためらいも無く胸に手をやられ、マリアは飛び上がった。
「うおっ、おまっ、な、何してんだよっ!!?」
「あ、ごめん」
咄嗟に謝罪の言葉がこぼれただけで、七緒は全く悪びれない。
「いや、言い訳するとね、女子校って友達のおっぱい揉むのとか普通なんだよねえ」
「…………!!??」
「わたしも最初はびっくりしたけど、スカートめくりあったりおっぱい揉み合うの当り前だし、今日生理二日目で重いわー嫌だわー、みたいなのもおおっぴらに会話するんだよね」
全ての女子校がそうではないと、一応明記しておこう。しかし、同性しかいない場所では、開放的になるのは確かだ。
マリアが「女子って……」と顔を引きつらせている。思春期の男子だった身としては、知りたくなかった現実だ。
「でも、今わたし男だし、こういうの出ちゃうとマズイよね。気をつけるわ」
「マズイどころじゃねーよ、ものすごい誤解されっからな。クラスでやるなよ!?」
「わかってるよ」
七緒の声音からは、何も読みとれなかった。
「女の子同士ですることだもの。私と、クラスの女子は、女の子同士の友達じゃない」
それを言ったらお前とオレも女同士ではない、なんてツッコミが出来るほど、マリアは鈍感ではなかった。
マリアが、友人として接する男子から告白されてしまうように、七緒も、女子と仲が良くみえても、女同士の友達として見られることは、ないのだ。
マリアは立ち止まって、七緒に向き合った。
「あのさ」
「……ん?」
気づかず歩き続けていた七緒が、彼女を振り返る。
「お前さ、オレのこと、前の名前で呼ぶだろ」
周りに人がいるときならともかく、七緒はマリアを「マリオくん」と呼ぶ。どうしてなのか気になっていたけれど、なんとなくわかった気がする。
七緒はきっと、マリオと呼ぶことで、菜々子だった自分をも肯定しているのだ。
―――だったら、
「菜々子」
七緒は息をのんだ。
「……駄目? オレ、そう呼んだら駄目か?」
「だめ、とか、そういうことでなくて」
ああ、もしかしたら、名前で呼んでいいかと聞いた時の優子ちゃんも、こんな気持ちだったのか。ふとそんなことに思い当った。だったら悪いことをした。
七緒は俯いて、我慢できずに顔を覆ってしゃがみこむ。
「えっ、おい、」
マリアは声をかけてから、友人の耳が赤いことに気がついた。
「……マリオくん? わたしその……あまり耐性がないというか……弟くらいにしかそうやって呼ばれなかったから……あの……照れるので……」
―――こいつ、大胆なのか繊細なのかよくわからねえ
平気で人の胸とか揉むくせに、名前呼ばれて赤面、だなんて。
マリオだった頃の女友達は、男子とでも仲良く話すのが普通の子が多く、教室の隅にいるタイプは、派手でノリの良い自分たちの方には関わってこなかった。
七緒のことは、元・女だと知っていても、目の前にいるのが男の姿なわけだから、どうしても男友達として接してきた。運動音痴で、見るからに弱そうな、けれど真面目で優しい男友達。
「(知ってたはずなのに。こいつ、男だけど、男じゃねえんだよなあ)」
なんとも微妙な立ち位置だなあオレたち、なんて考えて、それもとっくに分かっていたことだと思いなおす。
優しく七緒の肩を叩いて、立ち上がらせて言った。
「照れんなよ! オレまで照れるだろ?」
「照れてないじゃん! さてはマリオくん、プレイボーイだね……!? わたしのこと弄ぼうとしてるでしょ!?」
「してねえわ! くねくねすんな!」
「やめてよぉ、男の子に名前呼ばれるとか、普通に、その、照れるから。ナナでお願いします」
言ってる顔が本当に真っ赤っかだったので、マリアはおかしくなってきた。
七緒は、こう見えてきちんと、自分を男だと思ってくれているのだ。
なんだかそれが嬉しくて、自分に起こったことも、今の状況も忘れて、目の前の友人を笑い飛ばした。
「もう、お前、いや、オレ女子にお前って言わねえな! ナナ、ほんと面白い奴だな。
あのさ、こうしよう。お互い、女だ男だって考えるのやめとこうぜ。だって見た目男だし、こっちも完全女だから、無理だと思うんだ。頭でわかってても」
突然笑って言い出したマリアに、七緒は瞬きして首を傾げていたが、なんとか話についていって、うんうんと頷く。
「だからこうしようぜ、戦友!!」
「せ、せんゆう?」
戦う相手は? と問うと、自慢げに「今の身体!」と答えた。戦隊ごっこをする、小さな男の子みたいだ。
「な、そうしよ。菜々子!」
「名前呼びは続行なんだ!? ……でも、そうだね……うん、そうしよう。なんてったってわたし達、運命共同体みたいなものだもんね」
「それは大袈裟だろ」
「あれ? そこで裏切るってアリ?」
顔を見合わせて、くふふと笑い合う。
「あーでもマジ腹いてぇ」
「帰りにでも薬買ったら?あ、一緒に行こうか?」
「じゃあお言葉に甘える。制服デートだな?」
悪戯っぽく笑うマリアに、ああもうだからそういうのやめてぇ、と七緒は赤面して情けない声をあげた。