40.エレノア・ローヴェル
「その名はもう捨てた」
クリスはそれだけ言うと、目を閉じて「ハー」っと長く息をはいた。
(ついに来たか……)
「おかあたまが、女の子の服を着ていて可愛いでちゅ」
サミアンは、女性の方の人相書を眺めながら呟いた。
クリスがサミアンを見ると、言葉とは裏腹に心配そうな表情を浮かべる。
「エレノア・ローヴェル、貴族か?」
「元だ。両親が事故で他界し、家は父の弟が継いでいるはずだ」
「『はず』とは?」
「おれは命を狙われて家を出た。その時に、すべての権利を放棄する旨を書面に残してきた」
レオルドに尋問のように質問され、クリスは少し苛立ちを隠せないでいた。
ふとガインを見ると、特に驚く様子もなく、ただ黙って話に耳を傾けている。
「ガインは知っていたのか?」
レオルドもガインの落ち着き様が気になったのか話を振った。
「ああ、クリスが女であることはな。貴族ということに関しては、王宮での振る舞いが自然だったのでな。予想はしていた」
(そうか…… ガインは気づいていたのか……)
クリスは周りを見渡した。
ここにいるのは、クリスが旅を始めて3年間、得ることがなかった信頼のおける人達だ。
だが、全てを伝える勇気がない。
これまで、1人でなんとかしてきた。誰かを巻き込むことにどうしても抵抗がある。
「一人で抱え込むつもりか?」
沈黙の中、ガインが口を開く。
クリスは、その言葉にすがりたい自分に気づいた。
だが……
「おれはおまえ達を巻き込みたくない」
手の甲に熱を感じる。
また自分は無理をしているのだろう。
それでも簡単にガインの言葉に首を縦に振るわけにはいかない。
相手は貴族だ。
もし追っ手が現れたら、ガインもサミアンも黙ってクリスを差し出すような真似はしないだろう。たとえ相手が貴族の命を受けた者でも、二人は戦ってしまうかもしれない。
そうなれば、ただでは済まない。正式な手続きを踏まれれば、他国の貴族が相手でも身柄を引き渡され、罰せられる可能性がある。
言うほど簡単なことではないのだ。
「だが、おかしいじゃないか? クリスが全ての権利を放棄したなら、探す必要はないはずだ」
レオルドが疑問を口にする。
クリスも不思議に思っていた。叔父はなぜ、自分を探しているのか? 自分が生きていては都合の悪い何かがあるのか? 確認しようにも、命を狙われている以上叔父が話し合いに応じるとは思えない。
「少し、時間をもらえないか?」
クリスがそう言うと、拒絶されることも予想していたガインとレオルドの緊張が解けたのか、少しだけ空気が変わる。
サミアンはレオルドの腕をすり抜け、クリスの元にやって来ると、心配そうに首をかしげた。
サミアンを抱き上げ、その背中を撫でる。
柔らかな毛が、手のひらに優しい温もりを伝える。
「おかあたま」
サミアンは、ただ一言そう言った。
自分を捨ててどこかに行くなと言われているようで、胸が苦しくなる。
そんな思いを振り切るように、クリスは、サミアンをガインに手渡す。
「明日、またここで話をしよう」
クリスはそう言って、ギルド長室を出ていった。




