第一ラウンド 第一試合
『さあ、いよいよ始まります!第一ラウンド第一試合!!開始!!』
試合開始のブザーが鳴り響く。
闘技場の中央、砂を踏み固めた円形の舞台に立った瞬間、ジークは相手の顔を見た。
背丈はジークより半頭低い。だが、その小さな身体から放たれる圧が尋常ではなかった。肩の付け根から指先にかけて、皮膚の下を走る血管がすべてドス赤く灼けており、腕全体がじわりと白熱する炭のように明滅している。纏う軽装の胸当ては一部が溶けて変形し、素材が何だったか判別できないほどに熱で変質していた。装備品すら、体内に渦巻く力に耐えきれずに崩れかけているのだ。
両の拳は鉄すら焼き溶かすほどの熱を帯びているはずなのに、男は素手のままだった。なんの装備もない、拳だけで戦う覚悟の立ち方だ。
対戦相手の名前は『エルゼ』
深淵スコアのランキングには乗っていなかった名前だ。だがこの男が闘技場に現れた瞬間、観客席が静まり返った。期待値でなく、本能的な警戒で黙らせる種類の圧力がある。それが何なのかを理解できなくとも、体が先に反応してしまう。
「へぇ」
エルゼが地を這うような低い声で言った。
「……例の『黒い鎧』か。塔の連中の間じゃ、持ちきりの噂だぜ。骨の軍勢を従えて闊歩する、化け物じみたプレイヤーがいるってな」
「そうか」
「で? その自慢の軍隊はどこへ置いてきたんだ?」
「さぁな」
吐き捨てるようなジークの返答にエルゼは顰める。
「チッ……いいぜ。出し惜しみするってんなら、力ずくで引きずり出してやる」
そう言い、凶悪な笑みを浮かべ戦闘体制に入った。
しかし、ジークは動かない。剣の柄にも手を伸ばさず、ただ闘技場の縁に近い石畳の上にゆったりと立ったままだ。魂源が解放されて以来、全身に纏わりついている赤黒い光の靄だけが、獣の呼吸のように規則的に揺らいでいる。
エルゼの眉が片方だけ上がった。
「……動かないのか」
「ああ」
それだけ言って、ジークは足元を一瞥した。
影から闘技場の照明を浴びた漆黒の鎧が、砂地に濃く長い影を落としている。普通の影とは違う、光を拒絶するような深さがある。底が見えない、まるで別の場所に繋がっているような昏さだ。
静寂の中で、カタリ、と小さな音が鳴る。
ジークの足元の影が、ゆっくりと盛り上がり始めた。
液体のように、しかし液体よりもずっと重い何かが、砂地の表面を持ち上げながら這い上がってくる。影が影のまま立体になっていく、そんな生理的に受け付けない光景だ。観客席の前列に座っていた何人かが、気づかないうちに席から腰を浮かせていた。
現れたのは、一体のスケルトンナイトだった。
ただし、これは深淵の塔に湧いていたような雑兵の骨ではない。五日間にわたる無数の死闘の最中で、腐食を纏わせた状態で何度も殺し、何度も蘇らせ続けた果てに行き着いた個体。強化が積み重なり過ぎて、本来ならとうに上書きされて消えているはずの記憶のような何かを骨の芯に刻み込んだ、異常な密度の存在だ。
体格は人間の二倍近い。肩幅だけで普通のプレイヤーの全身幅に匹敵する。装甲は深淵の奥底から引きずり上げてきた黒い金属で覆われており、その表面には腐食の靄が絶えず揺れ動いている。背骨から後頭部にかけて、赤黒い龍の魔力が血管のように走り、骨格そのものが呪われた兵器として完成していた。
両手には、人間なら両手でも持てないような巨大な剣をそれぞれ一本ずつ握っている。深淵のボス部屋で手に入れた死体から蘇生させた個体が持ち込んだ得物だ。元は何だったのか、今となっては判別できないが、刃に黒い腐食の光が纏わりついており、触れるだけで物質を侵食する異常な性質を帯びていた。
観客席が再び沈黙した。今度は驚きではなく、圧倒されたことによる沈黙だ。
「……あれが、スケルトン?」
「サイズがおかしい。あれ本当に骨か?」
「一体だけ出した……一体だけで、あれで戦う気か」
呟きがざわめきへと変わっていく中、エルゼは両拳を腰の高さで構え直した。表情は変えていない。ただ、構えが変わった。さっきまでの余裕を体現したような立ち姿から、体重を明確に前足にかけた、臨戦の重心へと移行している。
彼はプロだ。目の前の異物を正しく危険として認識していた。
「なるほどな。一体でいい、ってことか」
「そういうことだ」
エルゼが鼻を鳴らす。
「舐めた話だが……否定できないのが腹立たしいな」
その刹那、エルゼの両腕が真っ白に発光した。
白熱ではない。太陽の核心を直接取り込んだような、網膜を焼き切る直前の超高温の白だ。魂源が全開放された瞬間、エルゼの両腕から空気が消えた。熱で蒸発したのだ。その直後、爆轟のような音が闘技場に満ちた。
「【熱源爆打】!」
拳が振り抜かれた。ただそれだけで、空気が爆発する。超高密度に圧縮された熱の波が、闘技場の砂地を一瞬にして焦がしながらスケルトンナイトへと殺到した。
速い、拳の軌道が見えない!速度そのものが兵器だ。
だがスケルトンナイトは動じない。
振り抜かれた拳を、右手の剣の腹で受けた。
ガァァァンッッッ!!!
金属と超高熱の拳が激突した瞬間、闘技場全体に衝撃波が走った。砂が一円形に吹き飛び、スタンドの最前列まで熱波が届く。何人かの観客が思わず顔を覆い、距離を取って立ち上がる。
それでもスケルトンナイトは動かなかった。
一歩も退かない。
爆発的な熱を帯びたエルゼの一撃を剣の腹で受けながら、腕の骨が響いているはずの衝撃を無視し、腐食の靄が刃から剣へ、剣から拳へとじわりと這い上がっていった。
「っ、熱が……! なんだこれ、腐食か!?」
エルゼが即座に手を引いた。拳に巻きついた緑の腐食エフェクトを見て、唇を噛む。
致命的ではない、しかし防御力低下のデバフが確実に蓄積している。一発触れるだけで相手を蝕み続ける骨、そしてそのデバフが溜まった相手には、ジークの大剣による渾身の追撃が待っている。
エルゼは素早く左右に動き、スケルトンナイトとの正面接触を避けながら間合いを測り直した。戦い方を変えてきた、直撃を狙うのではなく、熱量を使った牽制に切り替えている。
「……賢いな」
ジークが小さく呟いた。場の外で腕を組んだまま、試合を眺めている。スケルトンナイトに触れずに戦えるなら、腐食の蓄積を防げる。距離を保って熱波だけを飛ばし続けるなら、スケルトンナイトをじわじわと崩すことができるかもしれない、的確な判断だ。
しかし、思念がスケルトンナイトへ流れ込んだ。
しかし、ジークの思念が音もなくスケルトンナイトへ流れ込んだ。言葉による指示でも命令でもない。主の意思と直結した、獣が獲物を狩る直前のような単純な衝動。
スケルトンナイトが動いた。
これまでの重厚な佇まいをあざ笑うかのような、規格外の踏み込みで地面を蹴り砕き、巨大な質量が暴力的な速度で加速する。闘技場の砂地が深く陥没し、蹴り上げられた砂煙が柱のように立ち上がった。
巨城が突進してくるような威圧感で。
「馬鹿な! あのサイズで!?」
エルゼが咄嗟に後方へ跳び、両腕を前に交差させ熱の防壁を展開しようとする。だが、スケルトンナイトの狙いは正面突破ではなかった。
衝突の直前、踏み込みの軸を強引に変え、横に流れるように体を捻ったのだ。
巨大な骨の身体が横薙ぎに滑り込み、右手の剣が水平の軌道でエルゼの胴を刈りに行く。
――ドゴォォォンッ!!
熱の防壁ごと叩き割る無慈悲な一撃。エルゼの体がボールのように弾け飛んだ。
高速で横方向へ吹き飛ばされ、闘技場の境界線に設けられた石の壁に激突する。分厚い石が蜘蛛の巣状に罅割れ、もうもうと粉塵が巻き上がった。
観客席から悲鳴と歓声の混じった声が爆発した。
「信じられん! あの一振りで石壁が割れたぞ!」
「なんだよあれ、本当に骨一体の火力か……!」
しかし、砕けた石の破片の中から、エルゼが立ち上がった。
胸当ての残骸が崩れ落ち、素肌が露出している。HPバーは大きく削れているはずだが、その両目に宿る闘志の光は消えていなかった。むしろ、より鮮烈に燃え上がっている。
「ハッ……こいつは本物だな」
軋む自分の身体を確認しながら、エルゼは笑った。腹の底から湧き上がるような、戦いを純粋に楽しむ笑みだ。
「骨一体にここまでやらせるか。認めるぜ、完全に見くびってた」
両腕の白熱が、これまでとは段違いの密度へと跳ね上がる。周囲の空気が陽炎のように歪み、熱量が臨界点を超えようとしていた。
「だが、ここからは本気だ!それでも俺に勝てるかどうか、確かめてみろ!!」
エルゼが吠えた瞬間、両腕が二つの太陽と化す。
超高密度の熱光が一点に収束し、砲弾のような奔流となって射出された。ただの熱波ではない、圧倒的な質量を持った熱の塊だ。触れるものすべてを問答無用で蒸発させる、彼の魂源の奥底から絞り出した最大火力だった。
しかし、スケルトンナイトは避けない。正面から迎え撃った。
熱の砲弾が巨体を直撃し、爆発のような轟音が闘技場を震わせる。砂地が黒く焦げ、石畳に深い亀裂が走り、最前列で身を乗り出していたプレイヤーたちが、たまらず後ずさった。
土煙と蒸気が晴れるまでの数秒間、誰もが息を呑んで戦いの結末を見守る。
――スケルトンナイトは、立っていた。
半壊し、胴体の骨の一部が吹き飛び、左肩の重装甲がドロドロに熔けて変形している。
だが、それだけだ。足はしっかりと砂地を踏みしめ、二振りの大剣は握られたまま。赤黒い龍の魔力が刻まれた骨格は、倒れることを頑なに拒絶するように直立している。
次々と熱の砲弾が胴体を直撃し、爆発のような轟音が闘技場を震わせた。砂地が焦げ、石畳に亀裂が走り、観客席の前列に立っていたプレイヤーたちが思わず後ずさる。
煙が晴れるまでの数秒間、誰もが息を呑んで見守った。
半壊し、胴の部分の骨が一部砕け、左肩の装甲が熔けて変形している。だがそれだけだ。足は砂地を踏みしめ、二振りの剣は握ったまま、赤黒い龍の魔力が刻まれた骨格は、倒れることを拒絶するように直立していた。
そして、ひび割れた骨の表面から、黒い霧がじわりと滲み出した。蘇生ではない、修復だ。
砕けた部分を腐食の霧が覆い、凝固し、元の形へと再構成していく。完全な状態にこそ戻らないものの、戦闘を続行するには十分な骨格が、わずか数秒のうちに編み上げられていく。
エルゼが、初めて呆然と口を開けた。
「……化け物が」
罵倒でも称賛でもなく、ただ目の前の絶望的な事実を認識しただけの声だった。
スケルトンナイトがゆっくりと歩み寄る。急がない、追い詰めもしない。ただ確実に狩場を狭めていく、捕食者のように。
エルゼが再び両腕に熱を集めようとした瞬間、腐食のデバフが蓄積した右腕に、思うように力が入らないことに気づいた。防御力も、出力も大幅に落ちている。
この状態で、あの狂った大剣の一撃を受ければどうなるか。
エルゼは決断し、後退せず前進した。
放ったのは、己の全身全霊を乗せた右ストレート。熱を纏わせる余力すら切り捨てた、純粋な打撃として、スケルトンナイトの首の継ぎ目へ打ち込む。
(腐食が怖いなら触れなければいい!触れずに砕けるなら砕けさせる!)
一縷の望みを懸けた的確な判断だった。
しかし、拳が到達する寸前、スケルトンナイトが半歩だけ内側へ滑り込んだ。
エルゼの拳が空を裂いた直後、逆の手に握られた剣が高速の弧を描く。薙ぎ払いではなく突きに近い無駄のない軌道で、エルゼの肩口を正確に貫いた。
刃の先端、一点に集中した分、腐食の浸透速度はこれまでと桁違いだった。エルゼの右肩から胸にかけて、緑色のエフェクトが爆発的に広がる。ステータス上の防御力が、崩壊に近い速度で削り取られていく。
「ぐっ……!」
エルゼが苦悶の声を漏らし、大きく後退した。
その背中へ、スケルトンナイトが無言のまま追撃を叩き込んだ。逃げようとする足を剣の平で打って砂地に沈め、立ち上がろうとした腕を容赦なく踏みつけて封じる。
暴力的なまでの制圧力だ。技術でもなく、物量でもない、ただ純粋な『個の力』として、一対一の場でここまで理不尽に相手を蹂躙できるのか。そんな種類の恐怖が、熱狂していた闘技場全体に伝染していく。
エルゼが、力なく砂地に膝をついた。
全身を覆っていた魂源の光が、急速に萎んでいく。腐食のデバフが身体の奥まで蝕み、反撃のための熱を生成する余力はすでに底をついていた。
「……俺の負けだ」
低く、静かな声だった。
悔しさは滲んでいたが、言い訳は一切ない。今の自分には、あの骨一体を倒し切る手段がなかった。ただそれだけのことだ。
スケルトンナイトがゆっくりと剣を引き抜く。エルゼの身体から腐食のエフェクトが弾け、光の粒子となって空へ霧散していった。
一拍の静寂の後、観客席が爆発した。
「一体だけで! あいつ一体だって出さなかったぞ!」
「骨一体で、あの魂源使いを沈めた!?」
「あの黒い鎧の奴、動いたか? 最後まで立ってただけじゃなかったか!?」
『勝者、ジーク!!』
その名前が闘技場に響き渡る。
しかし本人はスタンドの熱狂など気にした様子もなく、ただスケルトンナイトが戻ってくるのを静かに待っていた。黒い骨の巨体が砂地を踏んで歩み寄り、ジークの横で再び影のように佇む。
エルゼは強かった。魂源の使い方が鋭く、判断が速く、本気になったあの熱の砲弾は、スケルトンナイトの半身を実際に吹き飛ばした。あれが二発続いていたら、結果は違っていたかもしれない。
そして、この闘技場にはまだ何十人もの戦いが残っている。他の分散闘技場を合わせれば、今この瞬間も、ジークとは比べ物にならない規格の何かが激突し合っているはずだ。
ふと、空中に浮かぶ水晶スクリーンが切り替わる。別の分散闘技場を映し出した映像だ。そこで今、異常な事態が起きていた。
双剣を持った人影が、対戦相手だったはずの敵を『三秒以内』に切り刻み、審判が試合終了を宣言するよりも早く、次の位置へ移動しようとしている。
その映像が映し出された瞬間、観客席のあちこちで歓声がピタリと止まった。
画面の隅に、その人影の名前が表示される。
――ガロウ。
――試合時間、三秒。
ジークは水晶スクリーンを見上げたまま、無意識のうちに、大剣の柄を握る手にぐっと力を込めていた。




