潮鬼
お盆の帰省というのは、子供にとっては少し特別なイベントだ。
普段とは違う景色、滅多に会えない親戚、そして夜更かしが許される空気。
しかし、小学五年生だったあの年の夏、私が体験した帰省は、それまで経験したものとは全く異なる異質なものだった。
父の実家は、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、さらにそこからバスで一時間ほど揺られた先にある、切り立った崖と荒い海に挟まれた小さな漁村にあった。
携帯電話の電波も途切れがちになるような、絵に描いたような寂れた土地だ。
その年は、数年ぶりの帰省ということもあって、私は数日前から楽しみにしていた。しかし、村の入り口にある古びた停留所でバスを降りた瞬間から、どこか奇妙な違和感を覚えていた。
いつもなら出迎えてくれるはずの近所の人たちの姿が全くない。
それどころか、どこの家の窓も雨戸が固く閉ざされ、まるで村全体が息を潜めて死に絶えているかのような静けさだった。まだ昼の二時を回ったばかりだというのに、じっとりとまとわりつくような潮風の中で、その集落だけがぽっかりと隔離された異界のように感じられた。
祖父母の家に到着すると、祖父は私を歓迎してくれる一方で、何度も念を押すように同じことを言った。
「いいか、今回は運悪く『あの時期』に重なってしまった。明日の一日は、何があっても絶対に家から出てはいけない。庭に出るのも駄目だ。窓も開けてはならん。分かったな」
その顔は真剣そのもので、普段は優しい祖父の目には、子供心にも冗談ではないと分かる緊迫感があった。私はただ、小さく頷くことしかできなかった。
翌日。予言通り、私は家の中に閉じ込められることになった。
両親と祖父母は、朝からどことなく落ち着かない様子で、仏壇に何度も手を合わせたり、家のすべての出入り口の施錠を確認したりしていた。テレビをつけても、電波の状態が悪く、砂嵐が混じってまともに見られない。持ってきたゲーム機も、数時間でバッテリーが切れてしまった。
退屈しきった私は、古い木造の家の中を探検することにした。
廊下は昼間でも薄暗く、歩くたびにミシミシと床板が鳴る。長い廊下の突き当たりにある玄関は、ひんやりとした空気が張り詰めていた。普段は靴が散らかっているはずのたたきには、一足の靴も置かれておらず、掃き清められたように綺麗だった。
その玄関の下駄箱の上に、それは置かれていた。
手のひらにすっぽりと収まるほどの、小さな木彫りの人形だった。
経年劣化で黒ずみ、木の表面には細かなひび割れが走っている。職人が作ったような精巧なものではなく、素人がナイフで荒々しく削り出したような歪な形をしていた。顔の部分には、目と口と思われる不揃いな穴が三つ、ぽつぽつと開けられているだけだ。表情は読み取れないが、見つめていると、どことなく歪んだ笑みを浮かべているようにも見えた。
「なんだろう、これ」
手をとってみると、木とは思えないほどずっしりとした重みがあった。鼻を近づけると、微かに古い海水のような、生臭い匂いがした。
外に出られず、遊ぶものに飢えていた私は、その人形に妙な愛着を覚えてしまった。これくらいなら、ちょっと借りて部屋で遊んでも怒られないだろう。私は軽い気持ちでそれをポケットに放り込み、自分のあてがわれた二階の和室へと戻った。
部屋の畳の上に人形を置き、私は一人遊びを始めた。
手持ちの筆箱を城に見立て、木彫りの人形を襲ってくる怪獣役にして戦わせる。最初は退屈しのぎのつもりだったが、思いのほか没頭してしまった。人形の表面のざらざらとした感触が、なぜか指先に妙に馴染むのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
気づけば、障子の隙間から差し込む光が、不気味なほどに濃い赤色に変わっていた。海の向こうに沈む夕日が、部屋の中を血のような茜色に染め上げている。時計を見ると、すでに夕方の六時を過ぎていた。
「ご飯だよ、下に降りておいで」
階下から母の呼ぶ声が聞こえた。
私はハッとして立ち上がり、散らばった筆箱の中身を片付けた。木彫りの人形は、そのまま机の隅にぽつんと置いたまま、急いで部屋を出て階段を駆け下りた。
一階の居間には、すでに家族全員が集まっていた。
食卓には、地元の魚の煮付けや刺身など、豪勢な料理が並べられていた。いつもなら賑やかになるはずの夕食の席だが、今日の空気は重かった。父も母も、心ここにあらずといった様子で、時折チラチラと玄関へと続く廊下の暗がりに視線を向けている。
外は、不自然なほど静かだった。いつもなら聞こえるはずの、寄せては返す波の音すら聞こえない。まるで、世界から音が消え去ってしまったかのようだった。
私は箸を動かしながら、どうしても気になっていた疑問を祖父にぶつけてみることにした。
「ねえ、おじいちゃん。なんで今日は外に出ちゃいけないの? 村の人たちも、みんな家の中に隠れてるんでしょ?」
私の言葉に、父が「こら、食事中にそんなことを聞くもんじゃない」と嗜めようとしたが、祖父はそれを手で制した。
「いや、いいんだ。もうこの子も物心がつく歳だからな。ちゃんと理由を知っておいた方がいい」
祖父は熱いお茶を一口すすると、ぽつりぽつりと、語りかけるように話し始めた。
「……この土地にはな、大昔から伝わる古い話があるんだ。
昔々、この目の前の海にはな、人を喰らう恐ろしい『潮鬼』という化け物が棲んでいた。潮鬼はな、この時期の夜になると海から這い上がってきて、村の子供や若い娘を一人ずつ、さらって海へ引きずり込んで喰うてしまうんだ。村人たちは恐怖に怯え、毎年、誰か一人を生贄として砂浜へ置き去りにすることで、なんとか村の全滅を免れていた。
だがある年、村に一人の旅の僧侶が通りかかった。村の悲劇を知った高僧はな、哀れに思って、ある秘術を村人に授けたんだ。それは、流木を削って人間の身代わりとなる『人形』を作り、それをこの時期に各家の玄関に立たせるというものだった。
僧侶が呪術をかけたその人形は、潮鬼の目を欺く力を持っていた。海から上がってきた潮鬼は、玄関に置かれた人形を本物の人間だと思い込み、それを掴んで海へ帰っていく。それ以来、村では人がさらわれることはなくなった。だが、その代わりにな、毎年この日だけは、潮鬼が『身代わり』を回収しに各家を回るようになったんだよ。だから、私たちは外に出てはならんし、決して潮鬼と鉢合わせしてはならんのだ」
祖母も隣で小さく、何度も深く頷いている。
お伽話のような内容だったが、祖父の語り口には、それをただの迷信として片付けさせない、生々しい説得力があった。私は背筋がゾワリと粟立つのを感じ、持っていた箸が小刻みに震えた。
「じゃ、じゃあ、もし間違って外に出ちゃったら……どうなるの?」
怯える私を見て、祖父は安心させるように、ふっと表情を和らげて微笑んだ。
「なあに、心配はいらんよ。この家にも、その『身代わり人形』がちゃんと玄関に置いてある。先祖代々、我が家を守ってくれている大切な魔除けだ。潮鬼は玄関にある人形だけを連れて海へ戻る。人形が外を見張っている限り、潮鬼は絶対に家の中には入ってこられない。だから、お前は何も怖がらずに、ここでご飯を食べていればいいんだ」
「……え?」
その瞬間、私の頭の中が真っ白になった。
心臓が、ドクンと大きな音を立てて跳ね上がる。
木彫りの人形。
古びて、黒ずんでいて、三つの穴が開いた、あの歪な形の身代わり。
手にしたときに感じた、あの奇妙な磯の匂い。
いま、それはどこにある?
私がさっきまで自分の部屋で弄び、いまも二階の机の上に置き去りにしている。
ということは、いま、この家の玄関には――。
守り神であり、潮鬼の目を欺くはずの『身代わり』は、そこには存在しない。
血の気が一気に引いていくのが分かった。手足の先が氷のように冷たくなり、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。
「どうした、顔色が悪いぞ。やっぱり怖がらせてしまったかな」
父が心配そうに覗き込んでくるが、私は声が出ない。喉が完全に張り付いてしまっていた。
「ご、ごめんなさい、僕、さっき玄関の……」
言いかけた、その時だった。
――カチャリ。
家中の空気が一瞬で凍りついた。
静まり返った家の中に、玄関の引き戸の鍵が、内側からゆっくりと回されて外されたような、金属の小さな擦れ音が響いた。
気のせいではない。確かに、玄関の方から聞こえた。
大人たちの顔からも、瞬時に血の気が引いていくのが分かった。
――ガラガラガラ……
信じられないことに、木製の引き戸が、ゆっくりと横にスライドして開く音がした。
鍵をかけていたはずの扉が、何の抵抗もなく開け放たれたのだ。
居間と廊下を隔てる襖の隙間から、ひやりとした、夜の重い空気が足元を這うように流れ込んできた。その空気は、強烈な潮の香りと、海藻の腐ったような生臭い匂いが混じっている。
「……おかしいな」
祖父が、震える声で呟いた。
「鍵は確かに閉めたはずだ。それに……身代わりがあるはずなのに、なぜ開く……?」
誰も、潮鬼が中に入ってくるなどという事態を想定していなかった。魔除けがあるという絶対的な前提が、彼らの思考を奪っていた。
――ベタ。
音がした。
――ペタ……ペタ……
それは、海水で濡れそぼった素足が、古い廊下の板張りをじっとりと踏みしめる音だった。
ゆっくりと、しかし確実に、足音は廊下を進んでくる。
玄関に身代わりがないことを知った『それ』は、今、本物の人間を探して、家の中へと歩みを進めている。
――ペタ……ペタ……ペタ……
足音は一切の迷いなく、私たちが立てる息遣いさえ聞き漏らさないように、この居間の襖へと向かって、一歩ずつ近づいてきていた。




