43.保科 勇気8
スマホの画面に表示された、音声ファイルの再生ボタンをタップした。
ザッ、と粗いノイズが薄暗い部屋の空気を震わせる。
「よし、話してくれ」
スマホから流れてきたのは、感情の抜け落ちた翔太の声だった。
「何で橋田のことなんか……」
しゃがれた、中年の男の低い声が続く。
吉田俊二。
翔太の父親だ。
「いいから話せよ」
「親に向かって……」
「今更親だなんだと言える立場かよ」
冷ややかな翔太の言葉に、重いため息が重なった。
「わかったよ。橋田か、思い出したくもねえな」
背景に、橋の下を吹き抜ける風のような環境音が混じっている。
「あいつは中学の時に引っ越してきた。ちょっと不気味なやつだったよ」
「無愛想で、無表情」
「川路がいじめ始めて、まあ、俺も一緒にやってたけどな」
「それまで川路にやられてた俺から、いじめのターゲットが橋田にうつって助かったんだがな、いじめる方が安全だろ」
男の語り口には、当時の残忍さを反省するような色は少しも滲んでいない。
「橋田は、何をされても文句も謝罪も抵抗もなにも言わなかった」
「ただ、無表情にやられるがまま」
「西本とか駒田がうるさかったが、結局、いじめは続いて後半はかなり酷い暴行を受けてた」
西本。
「そしてあの日、橋田が仕返し宣言をしてからすべてが変わった」
「川路にやり返したんだ。橋田は、体の大きい川路をケンカでボコボコにして、しばらくいじめ続けた」
「何であんなに強いのに我慢してたのかって感じだよ」
「川路が折れると次は俺に」
「俺に飽きた橋田に次の標的を決めろと言われた」
『指名』の原点だ。
「三井にした。あいつはいつも俺を馬鹿にしてたからな」
「そして三井は、裸にされて写真撮られて。まあ、いい気味だった」
「それから三井が二人指名した。誰だったかな」
「そうだ、川端と、……えーと、引っ越したやつ、名前は出てこねえな」
「まあ、川端が西本と下田を指名して」
「下田は、まあ楽しかったが、自殺しちまって」
人の命が消えたというのに、吉田の声はどこか他人事のように空虚だった。
「そこで俺や三井は、ヤバいと思って橋田から距離を取りたかったんだ」
「でも出来なかったんだよ。怖くてな」
「いつも無表情でひどいことをするあいつに逆らうのはな」
「そして西本だ。あいつは全然折れなかった」
「驚くくらいな」
「そして橋田が妹を標的にすると西本にいったときに」
「西本は初めて顔を歪めた」
「そしてゆっくりと頭を下げた。頼む、それはやめてくれと」
「それからしばらく橋田は、どんなことをして妹をいじめるかの計画を西本に聞かせていた」
「かなり酷かった。自殺した下田の件もある。本当にやるだろうと俺も思った」
胃の奥が、気持ち悪くひっくり返りそうになる。
「西本は、とうとう指名させてくれと言った」
「西本が涙を流して懇願したんだ」
「その時に」
音声の中で、吉田が言葉を区切った。
何か得体の知れないものを思い出し、恐怖に耐えるように息を呑む音が聞こえる。
「橋田は、笑みを浮かべて眺めていた」
「あいつがあんなふうに笑うのを初めてみた」
いびつで冷たい笑みが脳裏をよぎる。
「だが指名をすることを許可しなかった。それから橋田は、西本に執着した。様々ないじめをした」
「西本は、妹に手を出されないなら問題なかったのだろう。また、強い意志で耐えた」
「いつもなら飽きそうな橋田はずっと西本をいじめた」
「その頃は少し機嫌が良くてな」
「俺はつい聞いてしまったんだよ」
「何で最初にいじめられていたのか」
「橋田は、感情のない目で俺を見た」
「その目を見た時に馬鹿なことをしたと思った」
「だが、珍しく橋田は答えた」
「必要だったんだよって」
「これを聞いて、なぜか俺は怖くて震えたよ」
必要だった?
何が、まさか……最初から。
背筋を、氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。
「そしてあの日だ」
ザザッ、と大きなノイズが走った。
「校舎裏に呼び出し、座って目隠しをした西本にガソリンをかけて火をつけた」
強烈なガソリンの匂いと熱気が、錯覚となって鼻腔を突く。
想像を絶する事態に、俺は思わず息を止めた。
「俺と三井は、あまりの恐ろしさに声が出なかった」
「橋田は、燃える西本を見て大声で笑っていた」
「そして近くのガソリンの入れ物に引火して、橋田も燃えた」
「橋田は燃えているのに、まだ、笑っていたんだ」
炎に包まれ、自らの皮膚が焼け焦げていく中で、狂ったように笑い続ける無表情な男。
人間ではない何かがそこに立っている光景が、鮮明に浮かび上がる。
「俺は怖くなって逃げた、あの笑い声は今も耳に残ってる」
「三井は、その時に橋田の携帯を拾って逃げた」
「そして、あれは西本の自殺ということになりそうだったからな、口裏を合わせた」
「そんな感じだよ」
長い沈黙が流れた。
「死ぬほどクズだな。だが十分だ、よくわかんねえが、こんだけあればバイト代にはなるだろ」
翔太の乾いた声が、静寂を破る。
「バイト代?」
「いやこっちのことだ。あとはこれを聞いてくれ」
翔太がこの直後に何をしようとしているのか、俺には分かっていた。
実の父親に、あの呪いの着信音を聞かせるのだ。
だが、その先を聞くことはできなかった。
プツン、と無機質な音を立てて、音声ファイルは唐突に終わった。
部屋には、時計の秒針の音だけが空しく響き続けている。
俺は暗くなったスマホの画面を見つめたまま、全身に広がる悪寒を止めることができなかった。
やはりこの呪いを、橋田を止めなければならない。




