38.北島 玲奈10
生温かい空気が、まだ肌にまとわりついていた。
朝の通学路は、日差しの熱と生徒たちのざわめきで満ちている。
私は重い足取りで、アスファルトを踏みしめた。
学校は始まったが、サッカー部の練習には出ていない。
夏休みのあの夜の光景が、頭から離れなかった。
夕食の片付けの音が、台所からカチャカチャと響いていた。
父はソファに深く腰を沈め、冷えた缶ビールの水滴を指で拭っている。
「お父さん、少し話があるの」
私の強張った声に、父がゆっくりと顔を上げた。
「なんだ、悩み事か?」
「うん、すごく悩んでる」
「聞こうか」
喉の奥が、ひどく乾いていた。
私は膝の上で拳を握りしめ、携帯の不気味な着信音と、増え続ける写真のことを話し始めた。
途中から、台所の水音がピタリと止まった。
濡れた手をエプロンで拭きながら、母がダイニングチェアに腰を下ろす。
私はテーブルの木目をじっと見つめながら、最後まで言葉を絞り出した。
「なるほど、にわかには信じられない話だな」
父の低い声が、リビングの空気を重く沈ませる。
「嘘じゃないの」
「もちろんだ、玲奈が嘘を言っているとは思っていない」
父は空になった缶を、テーブルの上にコツンと置いた。
「人は嘘だとは思っていなくても、思い込んでしまうことがある。特に今は、友達を亡くしたばかりだ」
「そんなんじゃない、お父さん」
「わかっているよ」
「でも、一度カウンセリングを受けてみないか。大丈夫、日本は遅れているが、ストレスがあればカウンセリングを受けるのは外国では普通のことだよ」
「お父さん、そうじゃ……」
「なあ、明日でも連れて行ってやるから」
横から、ガタッと椅子が鳴った。
母の顔から、さっと血の気が引いていた。
テーブルに乗せられた両手が、小刻みに震えている。
「あなた、玲奈の言うことは本当だと思うわ」
「おいおい、お前まで何を言い始めるんだ」
「実家に帰った時にそういう話を聞いたのよ、あると思う」
「お母さん……」
いつもとは違う、芯のある強い声だった。
「あの、勇気君って人に聞けばわかるはずなんだけど……紬ちゃんなら知ってるかもしれない」
予想外の名前に、心臓が大きく跳ねる。
「お母さん、それって保科勇気さん?」
「そう、知ってるの?」
「電話番号もわかるよ」
私は急いで自分の携帯を取り出し、画面をタップした。
呼び出し音が数回鳴り、勇気さんが出る。
スマホから響くくぐもった声が、部屋の空気を震わせた。
呪いの詳細が、一つずつ語られていく。
「信じられない、だが、それならその音を聞かせてみなさい」
「私も聞くわ」
両親の視線が、テーブルの上の黒い端末に突き刺さった。
無機質な電子音が、リビングに鳴り響く。
そうして、私の携帯から写真が二枚消えた。
今、私の手元にあの携帯はない。
仕事で家を空ける父が、出発までになんとかあと二枚減らすと言って持っていったのだ。
生ぬるい風が前髪を揺らし、意識が現在へ引き戻される。
ふと、前を歩いていた生徒の背中がピタリと止まった。
ドン、と肩がぶつかる鈍い感触がする。
同じ学校の制服から、微かに柔軟剤の匂いが漂ってきた。
「ごめんなさい」
私は慌てて頭を下げた。
「大丈夫」
振り返った彼女は、短くそう答えた。
しかし、彼女の視線が私の胸元へ落ちた。
刺繍された私の名前を、穴が開くほど見つめていた。
「違ったらごめんなさい」
「北島玲奈さん?」
「はい」
彼女の目の奥には、何の感情も浮かんでいなかった。
「そう、はじめまして田中有紀です。何で学校に来てるの?」




