35.黒田 健太1
朝起きると、頭の奥に奇妙な痺れのようなものを感じた。
いつもの退屈な朝とは違う、ざわざわとした感覚だ。
孝太をからかって遊ぶのにも、正直もう飽きがきていたはずだった。
しかし今は、あいつの恐怖で引きつった情けない顔が見たくてたまらなかった。
ベッドの上で体を起こし、手元のスマホを操作して写真フォルダを開く。
画面に映し出された、孝太の鼻水まみれの泣き顔を見下ろす。
いいね。
スワイプすると、昨日勝手に増えていた変な写真が表示された。
昨日の教室では、気味の悪さを感じたはずだった。
だが、今は特に気にならない。
それどころか、無表情な男が別の男にビンタをしているこの構図から目が離せなくなっていた。
俺も、ビンタやりてえな。
よし。
さっさと朝飯を食って、学校に行こう。
ベッドから抜け出し、リビングへの扉を開ける。
「こんな豚の餌が食えるかーっ!」
扉を開けた瞬間、鼓膜を劈くような父の怒鳴り声が飛んできた。
ドガン、と父が重いダイニングテーブルを力任せに蹴りつける音が響く。
宙を舞った白い皿が床に落ちて、甲高い音を立てて粉々に割れた。
飛び散った食べ物の残骸が、俺のスウェットの裾を汚す。
クソっ。
これじゃ、朝飯は無しかよ。
俺は舌打ちをし、ヒステリックに叫び返す母の声に巻き込まれないよう、踵を返して手早く着替えて家を出た。
いつもなら、こういう気分の悪い朝は腹の底から怒りが湧き上がってくる。
学校に着いたら、真っ先に孝太の腹を殴って気を鎮めないと収まらないはずだった。
しかし、今は不思議とむかつきはなかった。
ただ純粋に、早く孝太に会いたい。
その執着だけが、頭の中を支配していた。
蒸し暑い通学路を抜け、教室に入る。
孝太の席はまだ空だった。
あいつはいつも、予鈴が鳴るギリギリの時間に怯えながら教室に入ってくるからな。
「健太、おはよー」
背後から声がして振り返ると、真希が立っていた。
「なんだ、早えな」
「健太、これ見てよ」
挨拶もそこそこに、真希が自分のスマホの画面を俺の顔の前に突き出してきた。
真希が見せてきたのは、あの昨日増えた変なビンタの写真だった。
俺が画面を覗き込むと、真希は楽しそうに指を動かして写真を拡大した。
解像度が粗くなり、ビンタされている男の顔が大写しになる。
よく見ると、その男の顔には目や鼻といったパーツがあるようでない。
まるで消しゴムで擦ったように、のっぺりとぼんやり歪んでいた。
「なんだこれ」
「面白くない?」
真希の声は、妙に弾んでいる。
「お前、昨日気味が悪いとか言ってなかったか」
「そうだっけ? それより、孝太まだ?」
真希は焦れたように、教室の入り口へ視線を送る。
「まだだな」
「今日は授業サボろう。私、孝太にビンタしたい」
真希の目は、キラキラと光を帯びていた。
「お前……それいいな」
俺の口の端が、自然と吊り上がる。
早く孝太で試したい。
だけど、ホームルームが始まっても、孝太が登校してくることはなかった。
「糞が。孝太のやつ」
苛立ちに任せて、自分の机を軽く蹴り上げる。
「あいつでいいじゃん」
不意に、隣に立った真希が教室の前方を指差した。
その指の先には、分厚い眼鏡をかけた大人しい山下が座っていた。
「お前、山下のこと太ってて気持ち悪いって言ってなかったか」
「そんなことはどうでもいいじゃん。早く」
真希は俺の袖を強く引っ張り、せっつくように声をひそめた。
「意味わかんねえ」
俺は呆れたように息を吐いたが、頭の中の冷たい衝動は山下へとあっさりと切り替わっていた。
席を立ち、山下の背中に向かってゆっくりと歩み寄る。
「おい、山下。ちょっとこいよ」




