7.橘 梨花7
急いで帰宅し、リビングのドアを開けた瞬間、息が止まった。
私を迎えた母の目が、赤く腫れ上がっていたからだ。
ああ、もう、何も聞きたくない。
本能がそう叫んで、私は思わず後ずさった。
「有紀、落ち着いて聞いて」
母の震える両手が、私の肩をしっかりと掴んだ。
「梨花ちゃん……亡くなったそうよ。さっき、梨花ちゃんのお母さんから連絡があったの」
――え?
膝から、カクンと力が抜けた。その場に崩れ落ちた私を、母が強く抱きしめる。
「なんで……なんでよぉ……ッ」
「……詳しいことは、わからないわ。ただ、あなたが探し回っているかもしれないからって、わざわざ連絡をくれて……」
私を抱きしめる母の腕も、小刻みに震えていた。
昔からよく家に遊びに来ていた梨花のことが、母も大好きだったのだ。頭上から、ポロポロと母の涙が降ってくるのがわかった。
私は母の腕の中で、ただ子供のように声を上げて泣き続けた。
泣くだけ泣いて自室に戻った後も、ふとした瞬間に思い出が蘇り、また涙が溢れてくる。
一緒に通った通学路。馬鹿みたいに笑い合った放課後。
どうして、梨花が死ななきゃいけなかったの。
暗い部屋の中で膝を抱えていると、ふと、どす黒い考えが頭をもたげた。
――まさか、おばさんが梨花を?
インターホン越しに聞いた、あの異様なまでの怒声。
そんなことあるわけない。そう首を振って振り払おうとしても、一度張り付いた疑念はシミのように消えてはくれなかった。
梨花の葬儀は家族葬で行われた。
参列はお断りという連絡が来ていたため、私は最後のお別れすらできなかった。
「葬儀が終わって落ち着いたら、一緒に手を合わせに行きましょうね」と母は言ってくれたが、私は断った。
一人で行きたかった。
梨花にちゃんとお別れを言って、そして、あのおばさんに問いただすんだ。あの日、梨花に何があったのかを。
数日後。私は学校指定の制服に身を包み、ひっそりと静まり返った梨花の家の前に立っていた。
表札の『橘』という文字を見ただけで、また視界が滲む。
涙を乱暴に拭い、意を決してインターホンのボタンを押した。
『……はい』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、ひどく掠れた男の人の声だった。
「……梨花さんの友人の、田中有紀と申します。お線香だけでも、あげさせてください」
『……ちょっと、待っててください』
ガチャリと重い音を立てて玄関のドアが開き、パジャマにカーディガンを羽織っただけの男性が現れた。
おそらく、梨花のお父さんだ。まともに顔を見るのはこれが初めてだった。
落ち窪んだ目元には濃い隈があり、ひどく疲弊しているのがわかる。
「わざわざ、ありがとうね。……どうぞ、上がって」
案内された家の奥の和室には、簡易的な祭壇が設けられていた。
遺影の中で、梨花はいつものようにふわりと笑っている。
それを見て、ああ、本当に死んでしまったんだと、再び絶望が押し寄せてきた。
ふと視線をずらすと、部屋の隅の薄暗い場所に、おばさんが力なく座り込んでいた。
焦点の合わない虚ろな目で、ただ宙を見つめている。
あの夜のヒステリックな面影など微塵もない、幽鬼のような姿だった。
私は静かに頭を下げ、祭壇の前で線香をあげた。
鞄から香典を取り出して差し出すと、お父さんは力なく首を振った。
「いや……香典は、いいんだよ。お気持ちだけで」
「いえ、私……本当に梨花には仲良くしてもらっていて……だから……」
こぼれそうになる涙を必死にこらえ、私はその言葉を口にした。
ずっと、腹の底で渦巻いていた黒い疑念。
「……死因は、何だったんでしょうか」
空気が、ピンと張り詰めた気がした。
お父さんはゆっくりと瞬きをし、絞り出すように答えた。
「……地下鉄の階段を、踏み外して落ちたんだ。救急車が着いた時には、もう……」
事故。
そのひどく悲痛な顔を見ていたら、それ以上何も言えなくなってしまった。
こんなに憔悴しきっている人たちに向かって「あなたが殺したんじゃないのか」なんて、とてもじゃないが言えるわけがない。
私は深く頭を下げ、逃げるように和室を後にした。
靴を履き、玄関のドアノブに手をかけた、その時だった。
「――ちょっと待って。有紀ちゃん」
背後から声をかけられ、びくっと肩が跳ねた。
振り返ると、和室の隅にいたはずのおばさんが、音もなく私のすぐ後ろに立っていた。
有紀ちゃん。
久しぶりに聞く、昔の優しいおばさんの呼び方だった。
おばさんは、私の顔を覗き込むように、じり、と距離を詰めてきた。
線香の匂いに混じって、何か生臭いような、ひどく淀んだ空気が漂ってくる。
虚ろだったはずのおばさんの両目が、異様な光を帯びて見開かれた。
ひび割れた唇が動き、擦れ声が私の耳元にねっとりと絡みつく。
「有紀ちゃん……。あの、あなた変な音、聞かなかった?」




