10.北島 穂香1
夫と玲奈の背中が、揺らぐ陽炎の向こうへ消えていく。
私は古い実家の縁側に立ち、ジリジリと肌を焼く不快な熱気を感じていた。
まさか帰省して早々、駒田さんに、そして奏さんにまで会ってしまうなんて。
早く帰りたい。
こんな町に、二度と帰りたくはなかった。
でも、お盆に年老いた父を一人きりにしておくなんて、そんな非情なことはできない。
いっそ、父が早く死んでくれたら。
ふと脳裏を過った醜い感情に、私は自分で自分の顔を覆いたくなった。
本当に、自分が嫌になる。
ここへ来るたびに、底なしに暗くて汚い自分自身と向き合う苦しさが込み上げてくるのだ。
だから毎年、誰にも会わないように息を潜めて過ごしてきたのに。
でも、どうしても避けられない時がある。
「こんにちは」
不意に、静まり返った玄関から声が響いた。
ビクッと、全身の筋肉が硬直する。
奥の部屋から出てきた父がガラリと引き戸を開けると、そこに立っていたのは駒田さんだった。
どうして、わざわざ関わってくるの。
私は重い足を引きずり、渋々玄関へと向かった。
すると、駒田さんはひどく作り物めいた笑顔を浮かべた。
「少しだけ、お茶に行こう」
「でも、夫と娘が戻るのを待たないと……」
「俺がいるから大丈夫だー、行っておいで」
父が呑気に笑いながら背中を押す。
お父さん、お願いだから余計なことを言わないで。
「一度、ゆっくり話したかったの」
駒田さんはそう言うと、私の手首を冷たい指で強く掴んだ。
その逆らえない力に観念し、私は無言のまま彼女の後に続いた。
連れてこられたのは、シャッターが半分下りた薄暗い純喫茶だった。
「お盆なのに、開いているのね」
「ここはうちが経営してる店なの。今日は休みよ」
どうりで、店内には客どころか店員の気配すら全くないわけだ。
ひんやりとした空気が滞留する店内で、駒田さんは手慣れた様子でカウンターの奥へ入っていく。
「コーヒーでいい?」
背中越しに聞かれ、私はただ小さく頷いた。
やがて、深く焙煎された豆の濃い香りが静寂の空間に広がっていく。
コトリ、と。
駒田さんが二つの白いカップをテーブルに置き、私の正面に腰を下ろした。
黒い水面から立ち昇る湯気を見つめていると、彼女が静かに口を開いた。
「当時のクラスメイトには、もうこの町に帰ってこなくなった人も多いわ」
その声は、どこか遠くを向いているようだった。
「気持ちはわかる。でも、私はこの家から離れられないからね」
「……駒田さんは、跡取りだもんね」
「結婚もしてないから、周囲からは色々と言われるけどね」
「そっか」
どうでもいい世間話。
だが、その薄氷の上を歩くような時間は、次の言葉で無残に打ち砕かれた。
「あの時のこと、あなたのせいではないわ」
急に突きつけられた言葉に、私は息を呑んで顔を上げた。
「責任は、橋田にあるんだし。それに……何もできなかった私たちだって、同じよ」
喉の奥がカラカラに乾き、言葉が全く出てこない。
「川端さん。……ううん、穂香ちゃん」
それは、私たちがまだ何も知らず、無邪気に笑い合っていた昔の呼び名だった。
「気にするなっていう方が無理な話だけど。でも、あなただけが背負うことはないの」
駒田さんの目が、真っ直ぐに私を射抜く。
「あれは、あなたも被害者。……もう、過去のことにしていいんだよ」
その瞬間、私の中で何かがプツリと切れた。
「勝手なこと言わないで!」
静かな店内に、自分のヒステリックな叫び声が反響した。
「あなたになんか、私の気持ちがわかるわけない!」
「そんなの当たり前でしょ!」
駒田さんもテーブルを叩き、激しい口調で言い返してきた。
「私の気持ちだって、あなたにわかるわけないじゃない!」
それから、私たちは互いの心の傷を抉り合うように、ひたすら言葉をぶつけ合った。
まるで、あの頃の子供のケンカのように。
みっともなくて、痛々しくて、息が詰まるような時間。
不意に、駒田さんがガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
ぶたれる、そう思って身構えた私を、彼女は力強く、きつく抱きしめた。
「……一人じゃない。私もいる」
耳元で震える声が聞こえた。
「……紬、ちゃん」
二人で川辺を走り回り、夕暮れまで笑い合っていたあの日の記憶が、なぜか鮮明に蘇ってきた。
張り詰めていた感情が決壊し、私の目からボロボロと涙がこぼれ落ちそうになった。
――カランカラン。
その時、店の重い扉が開く音と、ドアベルの乾いた音が響いた。
「おー、喫茶店やってんのかよ」
入り口の逆光の中に、ひどく場違いなサングラスの男のシルエットが立っていた。




