48.田中 有紀13
橘の家の前に立ち、私は迷うことなくインターホンを押した。
すぐにドアが開き、ひどく老け込んだ様子の梨花のお父さんが顔を出した。
「……来てくれたんだね」
お父さんは、手の中にある分厚い封筒を私に差し出した。
「これを、君に渡すようにと言われていたんだ。中身は……私には分からない」
「ありがとうございます……」
私はそれを受け取り、深く頭を下げて橘の家を後にした。
なんだろう。手紙だろうか。
自宅の自室に帰り、私は机の前に座って、こわごわと封筒の口を開けた。
中には、便箋が何枚も折りたたまれて入っていた。
乱れた、震えるような文字で、そこにはこう綴られていた。
『田中有紀さんへ。
私の旧姓は、三井と言います。
三井花音の姉。
当時大学生だった私は、中学生だった妹の花音に泣きつかれて、あの気味の悪い電子音を作りました。
あれを作らないと自分がいじめられると泣く妹のために、渡されたひどく気持ちの悪い音声を、パソコンで電子音に変換したのです。
その後、花音は階段から落ちて死にました。
警察は事故死として処理しましたが、いじめに怯えていた彼女の様子を知っていた私は、どうしても事故とは思えませんでした。
私は花音の部屋を探り、彼女の携帯とパソコンを調べました。
さらに、彼女の遺品の中に隠されていた、いじめの主犯だった『橋田』の携帯も見つけたのです。
中身を見て、私はすべてを知りました。
橋田がどれほど残酷ないじめをしていたか。花音がどれほどひどい目に遭わされていたか。
そして……花音自身もいじめに加担し、誰かを追い詰めていたという事実を。
その時です。私の手の中にあった橋田の携帯が、突然鳴り出しました。
私が作った、あの気味の悪い電子音で。
全身に強烈な寒気が走りました。
妹の名誉のためにも、残された家族の平穏のためにも、この携帯はすべて破壊して捨てるべきだと思いました。
でも……万が一、後になって花音が主犯だという嘘の情報が出回った時、橋田の携帯を持っておくことが対策になるかもしれない。
私はそう思い直し、二度と使う機会がないことを祈りながら、それらを自室の奥底に隠したのです。
数日後。私のスマホに、見知らぬ変な写真が増えていました。
消すことも、移動することもできない写真。そして、どこかで見覚えがある気がしました。
さらに数日後、また写真が増えました。
全裸で、アザだらけの男の子の写真。
そこで気がついたのです。あの子だ。いじめられて、焼け死んだという、あの子だ。
ゾッとしました。私は慌てて、隠してあった花音と橋田の携帯を再び起動しました。
花音の携帯の写真フォルダにも、私のスマホと同じ写真がありました。
ですが、何枚か先の写真は、花音自身の写真に変わっていたのです。
……花音が頭から血を流し、階段の下で死んでいる写真で終わっていました。
写真のプロパティを見ても、位置情報も日時も、何一つ記録されていませんでした。
怖くなり、私はたまらず一階のリビングへと逃げ出しました。
花音が死んでから、家の中は完全にお通夜でした。
リビングでは、父が虚ろな目でテレビを眺め、母はテーブルの席でただぼうっとしていました。
そんな暗い両親とは一緒にいたくありませんでしたが、一人でいる恐怖のほうがずっと強かった。
私はソファの端に座り、「もしかしたら、私も花音のように死ぬのか」と、恐怖にガタガタと震えていました。
どうしよう、どうしよう。
その時、手元の携帯が鳴りました。
自分の好きな、賑やかな着信音。ですが、極限状態だった私は心臓が止まるかと思うほど驚き、悲鳴を上げそうになりました。
相手は大学の友達でした。卒業も目の前だから、飲みに行かないかという誘い。
とてもそんな気分にはなれず、私は震える声で適当に断りました。
この着信音は、今の私には心臓に悪すぎる。しばらくの間、もっと優しい音に変えよう。
そう思って着信音の設定画面を開いた時。
一番上の項目に、『指名』という見知らぬ音のファイルがありました。
なにこれ……?
試しに鳴らしてみた瞬間、私は凍りつきました。
私がパソコンで作った、あの不規則な電子音。
でも、携帯のスピーカーから流れてきたその音は……元の音声データだった『どうか、指名させてください』という、涙交じりの少年の声に聞こえたのです。
ヒッ……!
私は悲鳴を上げて、携帯を床に投げ捨てました。
さすがに両親が心配して駆け寄ってきましたが、なんと説明すればいいのか。花音のいじめのことを話すのか。
頭がパニックになり、私は言葉を発することができませんでした。
しかし、その心配は翌日にはなくなりました。
すべてが夢だったかのように、私のスマホからあの不気味な写真も、『指名』の電子音も、完全に消え去っていたのです。
私は助かったのだと安堵し、すべてを忘れたように過ごしました。
そして半年後。母が亡くなりました。
原因は、不自然な交通事故でした。
嫌な予感がして、私は冷たくなった母の携帯をこっそり調べました。
……ありました。あの、焼け爛れた少年の写真が。
さらに数日後、今度は父が死にました。
死因は違いましたが、父の携帯にも、あの写真が八枚揃っていました。
私は、花音と橋田、そして父と母の携帯をすべて調べ尽くしました。
そして、あの『音』が呪いを他人に移す元凶なのだと、明確に結論付けたのです。
私が、あのリビングで音を鳴らしたせいで。
私は、自分の命を惜しんで、両親を呪い殺したのです。
その後、私は結婚して橘風花となりました。
ですが、結婚生活はうまくいくはずがありませんでした。
両親を殺してしまったという消えない罪悪感。そして、「どうして私がこんな目に遭わなければならないのか」という激しい怒り。
結婚して、幸せを感じれば感じるほど、「またあの呪いが襲ってくるのではないか」という恐怖が蘇るのです。
私は防衛本能から攻撃的になり、やがて心が壊れ、何も感じなくなっていきました。
娘の梨花を愛することもできず、ただ呪いの影に怯えるだけの、空っぽの人生でした。
……田中有紀さん。
最後に、娘の梨花と仲良くしてくれて、本当にありがとう。
私は、自分が犯した罪のせいで、きっと梨花がいる場所には行けないと思います。
だから。
あなたは、梨花のところへ行ってあげてね』
手紙は、そこで終わっていた。
指先が震え、手紙が畳の上にポトリと落ちた。




