46.田中 悠聖8
「お父さんが止まらないのは、もうわかったから……。でも、しばらく……あと十日でいいから、待ってほしい」
有紀は、涙ながらに私にそう懇願した。
私は、素直に静かに頷いた。彼女の心をこれ以上乱したくなかったからだ。
だが、待つ気など毛頭なかった。
有紀は今日、勇気君か誰かに会うためか、一人で外へと出かけていった。
それがどれほど危険なことか、あの子自身が一番よくわかっているはずだ。
何気ない日常の風景の中で、見知らぬ誰かのスマホのカメラに怯え、常に顔を隠し、逃げるように生きなければならない。
子どもが自由に外を出歩くことすらできないなんて。
そもそも、そんな世界がおかしいじゃないか。
だから、私がすべてを終わらせる。今日、この夜のうちに。
夜の一時。
寝静まった家の中で、私は有紀の部屋に忍び込み、机の上で充電されていた彼女の携帯をそっとコードから外した。
冷たい機械の感触を掌に握りしめ、私は車に乗り込んだ。
まず向かったのは、深夜のひどく臭う高架下だ。
段ボールやブルーシートが並ぶ暗がりの中で、金で命を買った二人のホームレスの男たちが、所在なさげに私を待っていた。
私は彼らに、あらかじめ買い与えておいた安物のスマートフォンを握らせた。
「約束通り、金は家族の口座に振り込んである。……今から鳴らす音を、ただ聞いてくれればいい」
私は有紀の携帯を操作し、あの忌まわしい着信音の設定画面を開いた。
ふと、周囲の暗がりで身を寄せ合って眠る、大勢のホームレスたちの姿が目に入った。
こいつら全員に聞かせれば、いくらでも呪いを押し付けることができるのではないか。
そんな悪魔のような考えが脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。
呪いのシステムは、音を聞いた人間の「携帯電話のカメラ」と連動している。携帯すら持っていないような連中では、身代わりの器にはなれないはず。
だからこそ、わざわざこの二人に端末を与え、準備をさせたのだ。
「……私も、一緒に聞こう」
私は男たちの中心に立ち、有紀の携帯から、あの不気味な電子音を再生した。
ピ……ピピ、ピー……、という音が、深夜の高架下に不気味に響き渡る。
しかし、予想外のことが起きた。
これは、どういうことだ。
いや、問題ない。
次に向かったのは、私の実家だった。
深夜だというのに、親父とお袋は居間の電気をつけて私を待っていた。
「来たか、悠聖」
「ああ。……すまない」
「謝るな。有紀のためだ」
老いた両親は、震える手を強く握り合いながら、私が差し出した有紀の携帯から流れる音を、目を閉じて静かに聞いた。
すでに父は聞いているので、母と私、ホームレス二人。
これで四人、ちゃんと写真は減っている。
最後に、美奈の実家へと車を走らせた。
義父と義母もまた、青ざめた顔で私を迎え入れた。
「本当に……これで有紀ちゃんは助かるのね……?」
「ええ。約束します。ですがお義母さんは大丈夫です」
「君は……いや、そうだな。ありがとう」
義母には外に出てもらう。
私は一切の感情を殺し、冷徹な作業のように、義父の前で再び音を鳴らした。
義父は微動だにせず、携帯を見つめていた。
想定外の事態もあったが、これで合計五人。
有紀の呪いの写真を消し去るには、十分な数の生贄だ。
すべてを終え、自宅へ帰り着いた頃には、東の空がうっすらと白み始めていた。
私は足音を忍ばせて有紀の部屋に入り、机の上に携帯を戻した。
ベッドの中で、有紀が規則正しい寝息を立てている。
もう、怯える必要はない。お前を縛り付けていた呪いは、すべて父さんが移してやった。
私は、眠る有紀の柔らかな髪を、愛おしく軽く撫でた。
「……これで、自由だよ」
狂気に満ちた夜明けの光の中で、私はただ一人、静かに微笑んだ。




