20.田中 悠聖1
電話口から漏れたその呼び方に、私の脳裏の奥底に沈んでいた古い記憶が微かに刺激された。
同級生だった下田京子さんは、私のことをいつも「田中君」としか呼ばなかった。
私のことを「悠聖君」と冗談めかして呼んでいたのは、当時、ひどく若々しくて綺麗だった京子さんの母親だけだ。
今の低く掠れた声には時の流れを感じるが、間違いない。
「……おばさん、ですね。お久しぶりです」
『ああ……覚えていてくれたのね。本当に、久しぶりね』
電話の向こうで、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ気がした。
『小学校の時は、よくうちに遊びに来てくれていたわよね。懐かしいわ』
「はい。その節は、大変お世話になりました」
隣で不安そうに見上げる有紀の肩を抱き寄せながら、私は努めて穏やかな声を出した。
そして、ずっと喉の奥につかえていた謝罪を口にする。
「京子さんのこと……最近まで知らずにいて、本当にすみません」
『…………』
短い沈黙があった。
『……少し、待ってくれる?』
電話の向こうで、バタン、とドアを開ける音がした。
続いて、トントンと階段を降りていくような足音。
奥の方で、何かを尋ねるような男の声が微かに聞こえる。
今の旦那さんだろうか。
『ちょっと大切な用件なのよ。後にして』
おばさんが男にそう答える声が聞こえ、再び別のドアが閉まる音がした。
ふう、と深く重い息をつく気配が、スピーカー越しに伝わってくる。
『……もう、いいのよ。もちろん辛かったけれど、私も再婚して、子どもも一人できたの。あの子のことを忘れることは絶対にできないけれど……それでも、少しずつ前に進んでいるわ』
「そうでしたか……」
それを聞いて、私は少しだけ安堵した。
しかし、同時に強い罪悪感が胸を締め付ける。新しい生活を歩み始めている彼女に、忌まわしい過去の記憶を掘り起こさせようとしているのだから。
「そんな状態でお聞きするのも本当に心苦しいのですが……どうしても、聞かなければならないんです」
私は息を呑み、有紀の震える手を強く握り返した。
「西本祐希君って、いましたよね。……彼のその後のこと、何か知りませんか」
『…………』
途端に、電話越しに落ちたのは、先ほどまでとは比べ物にならないほど重く、冷たい沈黙だった。
部屋の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚に陥る。
『……本当に、何も知らないのね』
やがて聞こえてきたおばさんの声は、ひどく乾いていた。
『あの街で聞けば、知っている人はそれなりにいると思うのだけど』
「え……?」
『西本君は、死んだわ』
死んだ。
その三文字が、鋭い氷の刃のように鼓膜に突き刺さった。隣で、有紀がヒッと短く悲鳴を上げる。
『橋田君を道連れにして……焼身自殺をしたと聞いているわ』
焼身自殺。道連れ。
あまりにも凄惨な言葉の羅列に、私は絶句した。
西本祐希は、ただ死んだだけじゃない。いじめの主犯格だった橋田を巻き込み、自らの身を炎で焼き尽くすという、最も苦痛を伴う最悪の形で命を絶っていたのだ。
じゃあ、有紀のスマホに写り込んでいる、あの西本祐希の姿は。
怨念とでも言うのか、馬鹿な。
そう思いながらも、背筋を這い上がる恐怖に、私はしばらく言葉を発することができなかった。




