52.保科 勇気11
まだ太陽が昇る前の、ひどく冷たい空気が肺を満たした。
数日滞在した実家の廊下を、足音を殺して静かに歩く。
少しだけ明け放たれたドアの隙間から、薄暗い部屋を覗き込んだ。
ベッドのシーツが微かに上下し、母の規則正しい寝息が聞こえる。
ごめん、母さん。
心の中で深く謝罪する。
でも、これは俺がやらないといけないんだ。
ベッドに歩み寄り、冷え切った自分の手を、布団からこぼれた母の手にそっと重ねた。
「行ってくるよ」
誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
エンジンをかけ、ヘッドライトが暗い夜道を切り裂く。
助手席には、何重にも布とガムテープで厳重にぐるぐる巻きにした橋田の携帯を置いている。
どこか遠くへ行くことも考えたが、そうしたらこいつは俺の写真を撮り始める気がした。
父さんにしたように。
俺が向かったのは、すべての発端となったあの街だ。
地主の駒田さんに頼み込み、町外れにある古い小屋を一つ用意してもらっていた。
周囲には何もなく、誰の目にも触れない場所。
どれだけ破壊されても構わない、見捨てられた小屋だ。
壊れかけで良ければと言われ、壊れてもいいならそれが最高というと、駒田さんは相変わらずねと、言っていたな。
ナビの案内が途切れ、土を敷き詰めた荒れた道に出た。
ヘッドライトの先に、傾きかけた木造の小屋が浮かび上がる。
少し離れた空き地に車を停めた。
トランクから重いハンマーと、赤いポリタンクを取り出す。
二つの荷物を両手に下げ、湿った草を踏みしめて小屋の中へ足を踏み入れた。
埃と、カビの匂いが鼻を突く。
床の真ん中に、手頃な大きさの平らな石が転がっていた。
俺はその上に、厳重に包まれたままの橋田の携帯を置いた。
こいつは、父によって遠くの海へ捨てられると感じて実力行使に出たのだ。
それなら、ここで物理的に粉々に砕けば終わるのではないか。
包みから出さず、中身が見えないまま叩き潰す。
俺は大きく息を吸い込み、重い鉄のハンマーを頭上高く振り上げた。
躊躇わず、全力で石の上の塊に向かって振り下ろす。
鼓膜を劈くような破壊音が、狭い小屋に反響した。
手に強烈な痺れが走り、土台にした石にくっきりとヒビが入ったのがわかる。
これなら、中の携帯は確実に原型を留めていないはずだ。
荒い息を吐きながらハンマーを投げ捨て、ひしゃげた包みに手を伸ばす。
ビリビリとガムテープを引き裂き、布を剥がした。
何もない。
あるはずのプラスチックとガラスの残骸が、欠片すら存在していなかった。
カシャ。
背後の静寂を切り裂いて、あの最悪の音が鳴った。
カシャ、カシャ。
全身の血が凍りつき、ゆっくりと首を巡らせる。
少し離れた壁際。
朽ちた木の板に立てかけられるようにして、橋田の黒い携帯が自立していた。
真っ直ぐに、そのカメラのレンズが俺を捉えている。
「なるほど、そうやって父さんを殺したわけか」
口から出た声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
シャッター音は止まらない。
ズボンのポケットで、自分のスマホが小刻みに震え始めた。
取り出して画面を確認する。
たった数秒の間に、不気味な写真があっという間に六枚に増殖していた。
最後に撮られた六枚目の写真。
そこに写っていたのは、全身を業火に包まれて燃え上がる俺自身の姿だった。
六枚撮られれば、もう終わり。
不思議と、恐怖はなかった。
それならそれで、完全に覚悟が決まるってもんだ。
俺は赤いポリタンクの蓋を開け、小屋の床に、そして壁に、強烈な匂いを放つ液体を撒き散らした。
自分の足元にも、たっぷりと燃料を浴びる。
空になったタンクを蹴り飛ばし、俺は壁際の橋田の携帯へと歩み寄った。
悪意の塊のようなその端末を、素手で強く握りしめる。
父さんを殺すために、お前は自分から動いた。
お前は、折れないやつを折りたい筈だろ。
でも、お前が折れたんだ。
父さんがそれを示した。
写真でも、リストでも、他の携帯でもない。
お前が中心だ、橋田。
遠くへ捨てても、叩き壊しても、お前は保身のためにルールを曲げる。
なら、俺が掴んだまま燃える。
今度は逃がさない。
俺のルールに付き合ってもらうぞ。
「さあ、どうする橋田。俺は離さないぞ」
俺はレンズの奥の狂気に向かって笑いかけた。
ポケットからライターを取り出し、親指でフリントを弾く。
小さな火花が散り、俺は迷うことなくそのまま足元へ火を放った。




