51.保科 勇気10
翌朝、耳元でけたたましく鳴る着信音に意識を叩き起こされた。
枕元のスマホを手探りで引き寄せると、画面には母からの着信が表示されている。
まだ外は暗い、時間は四時だった。
こんな時間に電話がくる。
嫌な予感が胸をざわつかせた。
「もしもし、母さん?」
「勇気、勇気、お父さんが、お父さんが……!」
スマホ越しに響く母の声は、パニックを起こして裏返っていた。
「なに、母さん、父さんがどうしたの?」
しばらくの間、母の言葉は嗚咽に遮られてまともな会話にならなかった。
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、俺は必死に耳を傾けた。
そしてようやく聞き出せたのは、想像し得る限り最悪の内容だった。
「夜、急に叫び声が聞こえて……見に行ったら、胸を押さえて苦しんでいて……救急車を呼んだけど、さっき……息を引き取ったの」
「なんで……なんで、死んだの」
自分の声が、遠くから聞こえるように現実味を失っていた。
「急性の心不全だろうって」
「心不全……、医者が?」
「うん、突然死みたいなもので原因はわからないかもしれないって」
「そう、そうか」
頭の芯が真っ白に染まっていく。
「分かった、母さんは家にいるの?」
「まだ病院に……〇〇病院よ」
「すぐに行くよ」
通話を切り、着の身着のまま車のキーを掴んで部屋を飛び出した。
早朝の空いた道を、ハンドルを握る手が白くなるほど強く握りしめて車を走らせる。
フロントガラスの向こうの景色が、みるみると涙で滲んでいった。
昨日まで笑っていた父の顔。
いつもどんなことも、やってみたら良いと言ってくれた父。
数え切れないほどの思い出が、止めどなく脳裏に蘇ってくる。
赤信号で停まるたび、誰かに見られて恥ずかしいと思うほど大声で泣きじゃくった。
袖で何度顔を拭っても、溢れる涙を止めることはできなかった。
病院に到着し、息を切らして受付で場所を聞き出す。
案内された薄暗い病室のベッドには、白い布を胸まで掛けられた父が横たわっていた。
ただ、目を閉じて静かに眠っているようにしか見えない。
今にも起き上がって、あの穏やかな声で笑いかけてきそうだった。
ベッドの傍らで泣き崩れていた母が、俺の足音に気づいてすがりつくように抱きついてきた。
小柄な母の背中をしっかりと両腕で抱きとめ、俺は声を出して泣き続けた。
やがて父は冷たい霊安室へと移された。
悲しみに浸る間もなく、残された俺たちは葬儀の手配や親族への連絡に追われることになる。
数時間後、一時的に必要なものを取りに、俺は一人で実家へと戻った。
静まり返った家の中は、昨日と何も変わっていない。
俺は書斎に入り、気になっていた父のスマホを探した。
ふと、部屋のどこかで微かにバイブレーションの震える音が聞こえた。
ドアの近くに落ちていた、父のスマホの画面が光っている。
着信だった。
俺は迷わず通話ボタンをスワイプして、耳に当てた。
「康介、いつになったら来るんだ」
少しがさつで、力強い男の声だった。
「すみません、息子の勇気といいます」
「おー、そうか。康介、お父さんはいるか、代わってくれ」
「それが……今朝、心不全のため亡くなりました」
口に出すことで、また一つ絶望が現実として胸に突き刺さる。
「……嘘だろ。昨日、船に乗せて欲しいって頼まれたんだぞ」
船。
父は、呪いの有効範囲を確かめるために海へ出ようとしていたのか。
「そうでしたか、すみません。生前はお世話になりました」
「いや、そうか……」
男は言葉を濁し、痛ましそうなため息をついた。
「大変だろうが、何かあれば手伝うからな、言ってくれ。知り合いにも俺から伝えておく、気を落とすなよ」
「ありがとうございます」
静かに通話を切り、俺はそのまま父のスマホの画面を操作した。
写真フォルダを開く。
並んだサムネイルの数は、六枚になっていた。
六枚目の写真。
父が胸を抑えて倒れている写真だった。
全身の血が、一瞬にして沸騰するような怒りを感じた。
視線を上げると、父の机の上に置かれたペン立てが目に入った。
そのペン立てに立てかけられるようにして、あの黒い塊が置かれている。
橋田の携帯だ。
カメラのレンズが、ちょうど椅子に座った人間の顔を真正面から捉える角度に向けられていた。
父が、自分で自分の写真を撮るようなヘマをするわけがない。
お前だ。
お前なんだろ、橋田。
黒いレンズの奥に潜む悪意に向かって、俺は奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
絶対に、許しはしないぞ。
それから数日が経ち、俺は母と共に父の葬儀を取り仕切った。
会場には、予想を遥かに超える数の参列者が訪れた。
どれほど多くの人が父を慕い、その穏やかな人柄に助けられてきたのかが痛いほどにわかった。
すべての儀式を終え、誰もいなくなった静かな自室の机に向かう。
便箋を取り出し、静かにペンを走らせた。
二通の手紙を書いた。
一通は、自分の机の真ん中に残した。
もう一通は、冷たい風に吹かれながら、近所の赤いポストに投げ入れた。




