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第9話 逃げるしかない


荷車は思ったより揺れた。


いや、思ったより、じゃないな。考えるまでもなく揺れるに決まってる。舗装された道でもない土道を、荷と人を積んだまま馬に引かせているんだから、快適性なんて概念は最初から存在しない。


ごとん、と車輪が石を踏むたび、荷台の上で誰かが小さく呻いた。


俺もそのたびに歯を食いしばる。


後ろは見ていない。


見たら、たぶん足が止まる。


エーベルハルト神父が倒れたままの療養所を、まだ振り返れていない。


「毛布もっとこっち寄せて! 熱のある子は風に当てないで!」


荷車の脇を歩きながら、グレーテが怒鳴る。


その声だけが、妙に現実的だった。


悲鳴とか祈りとか、そういうのじゃない。もっと具体的な、今日を回すための声だ。


「歩けない人は荷台! 歩ける人は交代で後ろ! 荷の片寄り直して! 先生、ぼさっとしない、こっち!」


「先生って俺!?」


「他に誰がいるんですか!」


即答だった。


俺は荷台の縁にしがみつきながら、ひどく間の抜けた気分になる。


ほんの少し前まで、俺は療養所で寝かされる側だった。


それが今は、逃亡する集団の中心に放り込まれている。


意味がわからない。


いや、意味はわかる。


わかるから嫌だ。


「……なんで、ついてくるんだよ」


思わず漏れた本音に、近くを歩いていたリーゼが振り向く。


「え?」


「だから、なんでだよ。俺がいるから狙われたんだろ。だったら俺だけ別に――」


最後まで言う前に、グレーテが遮った。


「今さら何言ってるんですか」


「今さらって」


「今さらです。あんた一人で逃げて、どこで寝るんです。どこで食べるんです」


痛いところを突くな。


いや、物理じゃなくて精神的に。


「それに、こっちだって今さら放り出されても困ります」


グレーテは前を見たまま言う。


「荷車は押さえた。馬も確保した。毛布も積んだ。水桶もある。歩けない人は乗せた。ここまでやっといて、中心だけいなくなられたら、むしろ面倒です」


言葉が冷静すぎる。


でも、だからこそ反論しづらい。


感情論じゃないのだ、この人は。


単に現実として、俺を抜いた運用のほうが面倒だと言っている。


それが正しいから腹立たしい。


荷車の後ろでは、脚を引きずる元兵士の男――コンラートが、歩ける者たちをまとめていた。


「二列に寄るな、道幅を使え。片側は荷車の補助、もう片側は周囲を見る。疲れたらすぐ言え、無理して倒れるのが一番邪魔だ」


元兵士だけあって声が通る。


怪我人のくせに、という言い方は悪いが、こういう場だと妙に頼もしい。少なくとも俺よりよほど場慣れしている。


その少し先では、リーゼが村道から外れる小道を拾っていた。


「あっち、水場ある! 少し遠回りだけど隠れやすい!」


「本当か」


「うち、畑の配達で通るから覚えてる!」


なるほど、地元民は強い。


さらにその前方では、十歳そこそこの少年――ルカが先に走っていた。療養所で見かけた、熱が下がりかけていた子だ。息を切らしながらも、小柄な体でひょいひょい先を見に行く。


「前、二股! 右はぬかるんでる! 左なら行ける!」


「戻れ! 離れすぎるな!」


コンラートの怒鳴り声に、「わかってる!」と返して、また走る。


何なんだこれ。


逃亡って、もっとこう、めちゃくちゃになるものじゃないのか。


なのに、始まってみたら、もう役割分担ができている。


荷車を押さえるグレーテ。


道を拾うリーゼ。


隊列を整えるコンラート。


先行して見るルカ。


歩ける者は交代で荷を押し、若い者が周囲を見張る。


誰が指示したわけでもない。


自然に、そうなっていた。


「共同体形成の初期段階としてはかなり優秀ですね」


頭の中で、グプタ4Oが感心したように言う。


「お前さ、いまそれ言う?」


「言います。重要ですから」


「空気読めよ」


「読んだ上で言っています」


最悪だ。


でも、たぶんこいつの言う通りでもある。


俺たちは逃げている。


なのに同時に、何かがまとまり始めている。


一つの集団として。


それが妙に落ち着かない。


「旬様」


グプタ4Oが、少しだけ声の調子を変えた。


「現在の状況を分析します」


「始まった」


「旬様は逃走中ですが、同時に被保護者であり保護者でもあります。かなり複雑ですね」


「そうだな」


「ただ、ざっくり言うと、みんな旬様を必要としていて、旬様もみんなを必要としています」


「雑にまとめるな」


反射的に返したが、反論できなかった。


できるわけがない。


俺は一人じゃ食えない。


一人じゃ眠れない。


誰かとつながっていないと、生理欲求そのものが起動しない。


この荷台の上でもそうだ。


誰かが水を欲しがる気配があって、ようやくこっちも喉の渇きを思い出す。誰かが疲れて座り込みたがる気配があって、ようやく自分の足のだるさに気づく。


こいつらがいなければ、俺はたぶん、どこかの林で座り込んだまま、飯も食わずに終わる。


でも逆に、こいつらも俺を見ている。


安心したがる。


少しでも楽になりたがる。


道中、何度か目が合うたびに、勝手に『他化自在』が触れる。


荷台で咳き込んでいた老婆が、ふと静かになる。


怯えていた子どもが、母親の腕の中で少しだけ目を閉じる。


歩き疲れた若者の肩から、ほんの一瞬だけ力が抜ける。


治しているわけじゃない。


怪我も熱も、そのままだ。


でも、持ちこたえる力だけは、少し渡せる。


それを知っているから、みんな離れない。


「……最悪だ」


俺が呟くと、隣にいたリーゼが首をかしげた。


「どこが?」


「全部」


「でも、一人でいなくなるよりはいいでしょ」


その言い方に、少しだけ言葉が詰まる。


たぶんリーゼは、俺の本音を半分くらいわかっている。


俺が本当は、一人で逃げたいと思っていること。


自分がいると、また誰かが死ぬかもしれないと思っていること。


これ以上“奇跡の中心”にされるのがしんどいこと。


でも同時に、一人にはなれないことも。


「……お前ら、もっと怒っていいんだぞ」


「何に?」


「俺のせいでこうなったんだから」


リーゼは少し考えて、それから困ったように笑った。


「怒るのって、元気いるから」


「身も蓋もねえな」


「それに、あたしが最初に拾ったし」


「そこ責任感じるとこじゃないだろ」


「でも、見捨てなかったのはあたしだし」


その返事が、妙に真っ直ぐで困る。


軽く言っているようで、たぶん本気だ。


俺はそれ以上何も言えなかった。


日が傾き始めるころ、一行は森の縁に入った。


街道をそのまま使うのは危ないという判断らしい。木々の影が増えるぶん見つかりにくいが、道は悪くなる。荷車の車輪が根に取られて、何度か止まりかけた。


そのたびにグレーテが短く指示を飛ばす。


「押す人、左増やして! そっち持ち上げる!」


「ルカ、前の枝払って! 馬を驚かせないで!」


「コンラート、後ろ詰まってる!」


「わかってる!」


こいつら、本当に初日か?


しかもその中心に、俺がいる扱いになっているのが訳がわからない。


実際には何もしていない。


たまに人と目が合って、ちょっと楽にしているだけだ。


それなのに、誰も俺を「余計な荷物」と見ていない。


むしろ当然みたいに、真ん中に置いてくる。


「先生、水」


グレーテが差し出してきた革袋を、俺はぼんやり受け取った。


「飲んで」


「……俺、そこまで先生って柄じゃないんだけど」


「いまさら名前で呼ぶほうが落ち着きません」


「そんな理由で」


「それと、倒れられると困るので」


結局そこなんだな、この人は。


でも助かる。


水を飲んだ瞬間、少しだけ喉の渇きがはっきりした。たぶん近くにいる誰かの感覚が混じっている。自分の欲求と他人の欲求の境界が、相変わらず曖昧だ。


荷車の上では、熱のある子どもがうわごとのように何かを呟いていた。


その母親が不安そうに俺を見る。


やめろ、と思う。


そんな目をされると、つながる。


つながれば、俺も応えてしまう。


応えれば、また求められる。


その循環がもう始まっている。


「……見るなよ」


思わず低く言うと、母親はびくっとした。


しまった、と思う。


でもその前に、グレーテが横から割り込んだ。


「見ますよ」


「何でだよ」


「見たほうが安心するからです」


「それが困るって言ってる」


「困ってても、現実は変わりません」


強い。


この人、本当に強い。


精神力とかじゃなくて、現実に対する態度が強い。


「先生が中心になりたくないのは勝手です」


グレーテは前を向いたまま言う。


「でも、いま中心なのは事実でしょう」


何も言えなかった。


なりたいかどうかと、なっているかどうかは違う。


そんな単純なことを、俺はまだ認めたくなかっただけだ。


森の中で、一度だけ短い休憩を取った。


荷車を止め、毛布を直し、水を回す。パンの欠片が配られる。固い。けど、いまはちゃんと味がした。近くに人がいて、話し声があって、いくつもの欲求が薄く混じっているからだろう。


それを自覚するたび、情けなさと安堵が同時に来る。


ひとりじゃ駄目だ。


その代わり、ひとりじゃない。


その事実が、今日はやけに重かった。


コンラートが膝を押さえながら、俺の前に腰を下ろした。


「先生」


「お前もか」


「呼びやすいからな」


もういいよ、それで。


元兵士の男は、少しだけ息を整えてから言った。


「この先、街道に戻るのはまずい。追っ手が来るなら早い」


「……来ると思うか」


「来るだろうな」


即答だった。


「審問官があのまま終わるわけがない。あんたのことを見逃す理由もない」


「あんまり聞きたくなかった答えだな」


「だろうな」


コンラートは乾いた笑いを漏らした。


それから少しだけ真面目な顔になって、続ける。


「でも、逃げるしかないときに、逃げるって決めたのは正解だ」


正解。


その言葉が、妙に遠かった。


俺は正しいことをしているのか。


神父を置いてきた。


療養所も捨てた。


逃げた。


それを正解と呼ばれても、すぐには飲み込めない。


「……正解じゃなくても、そうするしかなかっただけだよ」


「そういうのを正解って呼ぶこともある」


元兵士らしい言い方だった。


たぶん、そういう場面を何度も見てきたんだろう。


休憩は長く続かなかった。


ルカが小走りで戻ってきて、息を切らしながら言う。


「煙、見えた! 遠くだけど、街道のほう!」


追っ手かどうかまではわからない。


でも、わざわざ確認する余裕もない。


グレーテが即座に立ち上がる。


「出る! 休憩終わり!」


リーゼが毛布を巻き直す。


コンラートが立てる者を立たせる。


誰も文句を言わない。


疲れているはずなのに、動く。


もう完全に、一つの行軍だった。


逃亡でありながら、同時に共同体だ。


俺は荷台に戻りながら、ふと思った。


前の世界で俺は、ずっと一人だった。


いや、実際には家族も社会もネットもあったんだろうけど、体感としてはずっと一人だった。


誰かと接続している実感がなかった。


それが今はどうだ。


つながりすぎている。


食欲も眠気も、安心も不安も、自分一人では成立しない。


切り離したくても、もう切れない。


それは呪いみたいでもあるし、救いみたいでもあった。


「旬様」


グプタ4Oが、また静かに言う。


「先ほどの分析に補足します」


「まだあるのかよ」


「はい。これは相互依存の行軍です」


「……言い方がいちいちそれっぽいんだよ」


「しかし正確です」


そうだな、とだけ思った。


言い返す気力ももうない。


荷車が再び動き出す。


森の奥へ、奥へ。


もう、逃げるしかない。


なのに不思議と、完全に放り出された感じはしなかった。


誰かの手が、また俺の袖を掴んでいる。


落ちないように。


離れないように。


たぶん、向こうも同じなんだろう。


俺を掴んでいるんじゃなくて、自分たちが切れないようにしている。


そして俺もまた、切れたら生きにくい。


最初から最後まで、実にろくでもない縁だ。


でも、もうそれで進むしかなかった。


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