第8話 収奪
ヴォルフラム・フォン・クロイツが来たとき、療養所の空気は、前の調査役が来たときよりもさらに静かだった。
静かというより、凍っていた。
人は、本当に怖いものを前にすると、騒げなくなるらしい。
黒い外套。
よく磨かれた長靴。
腰には細い剣。護衛は二人。どちらも無駄のない動きで、立っているだけで厄介そうだ。
でも、いちばん目を引いたのは、そういう見た目じゃなかった。
「……何だこいつ」
俺は思わず呟いた。
頭の奥で、グプタ4Oが即座に反応する。
「高位個体です。保有スキル数、十以上。異端審問官、ヴォルフラム・フォン・クロイツと推定されます」
「十以上って、そんな持てるのかよ」
「本来は稀です」
本来は、だ。
つまり、本来じゃない方法で集めている。
その時点で、嫌な予感しかしなかった。
ヴォルフラムは療養所の中央まで来ると、誰にも許可を取らずに立ち止まった。
目だけが動く。
患者。
神父。
リーゼ。
グレーテ。
そして俺。
あの視線に触れた瞬間、背筋が冷えた。
力のある人間って、もっと派手なものだと思っていた。
炎が出るとか、雷を落とすとか、そういうわかりやすいやつだ。
でも、この男は違う。
表示されているのは、もっと嫌なものだった。
精神掌握。
秘密伝令。
秘密暴露。
主客逆転。
そういう、言葉だけで人の足場を崩せる類のスキル。
この世界では、スキルで物理攻撃も防御もできない。
そこは前から、なんとなく変だと思っていた。
魔法があるなら、火球でも飛んできそうなものなのに、そういう話は出てこない。傷つくときは刃物で傷つく。死ぬときは矢や剣や短剣で死ぬ。
つまり最後は、物理だ。
その上で、この男は精神だけを極端に研いでいる。
人を縛る。
黙らせる。
自分から喉を差し出させる。
そういう殺し方を、知り尽くしている顔だった。
「主任ヒーラー、エーベルハルト」
ヴォルフラムは、驚くほど穏やかな声で言った。
怒鳴らない。
脅さない。
なのに、声が届いた範囲だけ温度が下がる。
「報告は受けている。病者を惑わせる異邦人を匿っているそうだな」
エーベルハルト神父は前に出た。
「匿ってはいません。保護しています」
「言い換えは結構」
ヴォルフラムは一歩だけ進む。
それだけで、リーゼが息を呑んだ。
患者たちの視線が床に落ちる。
この男はたぶん、慣れている。
人が黙るまでの秒数を知っている。
どこまで詰めれば、自分で自分を追い込むかを知っている。
「波木旬」
今度は俺の名前を呼んだ。
前の調査役と違って、最初から名前を知っている。
それが妙に嫌だった。
「お前は何を与えている」
「与えてるっていうか……」
「泣かせ、求めさせ、何度も会いたくさせる。違うか?」
言葉が妙に正確で、ぞっとした。
こいつ、見てきたわけでもないのに、輪郭だけはもう掴んでる。
俺が反論しかけたそのとき、ヴォルフラムの視線が横に流れた。
患者の一人、若い男だった。
脚の怪我で寝台に伏せていた、あの元兵士だ。
「お前」
ヴォルフラムは穏やかに呼びかける。
「ここで何を得た」
男は震えた。
答えようとして、喉が詰まる。
「……もう一度、立ちたいと」
「なるほど」
「それの、何が悪い」
「悪くはない」
ヴォルフラムは頷く。
「だが、その願いが誰から与えられたかを忘れるな。自分の足で立つ前に、他人の幻を欲しがるなら、それは堕落だ」
男の顔がみるみる青ざめる。
ただの会話じゃない。
何かが作用している。
秘密暴露か、主客逆転か、そのあたりだろうか。本人が一番触れたくない痛点を、正しさの言葉で抉っている。
「違う、俺は」
「違わない」
静かに断じられた瞬間、男の肩が落ちた。
まずい。
俺は直感した。
こいつは剣を抜かない。
抜かなくても、人を自分から折らせられる。
「やめろ」
思わず声が出た。
ヴォルフラムの目がこちらを向く。
「ならば、お前が示せ」
その一言で、俺の中の何かが反射した。
考えるより先に、『他化自在』が開く。
流れたのは――あまり品がよくないやつだった。
退廃的で、耽美で、夜の色が濃くて、ちょっとお色気もある深夜アニメ系。
退屈した吸血鬼だの、背徳だの、甘い声だの、そういう方向の札だ。
「いや、よりによってこれかよ!」
自分で内心つっこんだが、止まらない。
たぶんヴォルフラムの欲望に、いちばん近かったんだろう。
禁欲。
抑圧。
規律。
その反動で、耐性がゼロの領域に、一番悪い角度で刺さった。
ヴォルフラムの表情が、止まった。
冷酷な審問官の仮面が崩れる、という感じではない。
もっと単純に、脳が処理落ちした。
目を見開いたまま、微動だにしない。
呼吸だけが一瞬遅れる。
理解が追いつかないまま、快と混乱だけが突っ込まれた顔だ。
「……え」
リーゼが変な声を出した。
護衛の一人まで一瞬固まる。
あまりにも落差がひどくて、少し笑いそうになった。
さっきまで場を凍らせていた絶対強者が、深夜アニメ一本でフリーズしているのだ。
でも、笑えない。
笑えるのに、怖い。
禁欲の反動で耐性がない人間が、こんなふうに壊れるのかとわかったからだ。
ヴォルフラムの喉がひくりと鳴った。
唇がわずかに開く。
何かを言おうとして、言葉にならない。
そこへ、護衛が先に動いた。
主の異常に反応したんだろう。
腰から短剣が抜かれる。
速い。
俺は一瞬、何が起きたかわからなかった。
見えたときには、エーベルハルト神父が俺の前に出ていた。
「下がってください!」
短剣が、神父の脇腹に入った。
鈍い音がした気がした。
時間が、そこで一回止まる。
リーゼが悲鳴を上げる。
俺は立ち上がろうとして、足がもつれる。
神父は護衛に体当たりするみたいにして、なお俺を庇っていた。刃が抜けた瞬間、法衣が一気に赤くなる。
「神父!」
叫んだのが自分かリーゼかもわからなかった。
次の瞬間、頭の中で、グプタ4Oがひどく静かな声を出した。
「状況を確認しました」
その落ち着きが逆に怖い。
「ヴォルフラム・フォン・クロイツの保有スキル数が増加しています」
「……は?」
「推定ですが、殺害に伴う収奪です」
意味が、すぐには入ってこなかった。
神父はまだ倒れていない。
でも、傷は深い。
護衛が刺した。
刺したのは護衛なのに、ヴォルフラムのスキルが増えた?
「……すみません」
グプタ4Oが、珍しく言いにくそうに続けた。
「あまり良くない仕様です」
その一言で、全部繋がった。
収奪。
スキルは、殺した相手から奪える。
直接じゃなくてもいい。
目の前で死ねば、いちばん近い者に移る。
あるいは、主導した側へ流れる。
だからこいつは、剣より先に人を追い詰める。
だから護衛に刺させる。
手を汚さず、でも自分のものにする。
最悪だ。
世界の仕組みそのものが、最悪だった。
「先生、こっちです!」
怒鳴ったのはグレーテだった。
気づくと、もう裏口のほうに荷車が回されている。馬もいる。毛布も、水桶も、積めるだけ積んである。
早すぎる。
いや、この人はたぶん、最初からこうなるかもしれないと思っていたのだ。
「歩けない人は荷台に乗せました! 毛布も積んだ、乗れるだけ乗せて!」
「何でそんなの、もう」
「危なくなると思ってたからです! 説明はあと!」
その通りだ。
説明してる場合じゃない。
療養所の中はもう崩れていた。
患者が泣く。
護衛が叫ぶ。
ヴォルフラムはまだ立ったまま凍っているが、そのうち戻る。
戻ったら終わる。
「旬、早く!」
リーゼが俺の腕を引いた。
俺は神父のほうを見た。
エーベルハルト神父は壁にもたれ、苦しそうに息をしている。それでも俺を見て、首を振った。
来るな、という意味だった。
あるいは、行け、か。
どっちにしても、残れない。
残ったら、もっと死ぬ。
「……っ」
歯を食いしばって、俺は裏口へ走った。
荷車には、もう何人も乗っていた。
熱病の子ども。
喋れなかった女。
脚を悪くした男。
衰弱した老人。
誰もが青ざめていて、それでも当然みたいな顔で、こっちを見ている。
「あんたも早く!」
グレーテが怒鳴る。
「でも、俺ひとりで逃げたほうが」
「何言ってるんですか」
即答だった。
「いまさら一人で隠れられると思ってるんですか」
返す言葉がない。
その通りだった。
俺がいなくなれば困る人間が、もうこんなにいる。
それが依存でも、救済でも、とにかく現実として、いる。
しかも俺自身、一人になったら生きられない。
食えない。
眠れない。
つながりが切れたら、また中身から削れていく。
ひとりで逃げる。
ひとりで隠れる。
そんな選択肢、最初からなかったのかもしれない。
いや、もう、ない。
「旬様」
グプタ4Oが言う。
「接続対象、多数。生存条件は満たしやすい状況です」
「そういう言い方するなよ……」
でも、笑えないのに、少しだけ笑いそうになった。
逃亡の最中に言われる台詞じゃない。
荷車が軋む。
馬がいななく。
誰かが神父の名を呼ぶ声が、まだ後ろから聞こえていた。
俺は荷台に飛び乗った。
その瞬間、あちこちから手が伸びる。
子どもの小さな手。
老人の骨ばった手。
震える指先。
みんな、俺が落ちないように、逃がさないように、当然みたいに掴んでくる。
温かかった。
重かった。
そして、どうしようもなく現実だった。
荷車が動き出す。
療養所が遠ざかる。
黒い影と血の色が、夕方の光の中で混ざっていく。
俺は振り返れなかった。
ただ、掴まれたまま前を見るしかない。
もう、孤独にはならない。
いや――なれない。




