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第10話 審問官、膝をつく

追っ手の気配は、音より先に匂いで来た。


湿った土と、汗と、乾きかけた血の匂い。


森を抜けて細い道に出たころ、風向きが変わって、その生々しい臭気が一瞬だけこちらへ流れてきた。獣かと思った。でも違う。もっと人間の匂いだ。追い詰められて、理性の皮が少し剥けた人間の匂い。


「……止まれ」


コンラートが低く言って、一行がぴたりと止まる。


荷車の車輪がきしんで止まり、馬が不安そうに首を振った。


俺は荷台の縁に手をかけて、後ろを見た。


道の向こうから、黒いものが歩いてくる。


ヴォルフラム・フォン・クロイツだった。


ただし、療養所で見たあの男じゃない。


外套は泥に汚れ、片側の裾が裂けている。長靴は片方だけ紐が切れ、膝のあたりまで泥がはねていた。頬には乾いた血が一本、爪で引っかいたみたいに筋になって残っている。自分でやったのか、枝で切ったのか、わからない。


でも顔だけは、いや、顔こそが、変わっていた。


崩れていた。


冷たい整い方をしていたはずの表情が、いまは何かを必死に押し殺したあとのように歪んでいる。目だけが異様に冴えていて、そのくせ焦点が安定していない。飢えた犬みたいに、こちらを見ている。


「……何で一人なんだよ」


思わず口に出る。


グプタ4Oがすぐに返す。


「単独追跡、命令無視、欲求優先行動のいずれか、もしくは複合ですね」


「いま最後だけやたらしっくり来るな……」


ヴォルフラムは十歩手前で止まった。


剣は腰にある。


でも柄に手はかかっていない。


護衛もいない。威圧もない。あの男がまとっていた、裁く側の冷たさだけが、ごっそり抜け落ちている。


そして、膝をついた。


土の上に。


両膝とも。


その動きにためらいがなさすぎて、逆にぞっとした。


謝罪じゃない。


降伏でもない。


忠誠の礼でもない。


もっと浅ましくて、もっと剥き出しだ。


「……もう一度」


声がかすれていた。


喉が焼けているみたいな声だった。


「もう一度、見せろ」


リーゼが、息を止めたのがわかった。


ルカが後ろで小さく悲鳴を呑み込む。グレーテは荷車の前に出て、患者たちとヴォルフラムのあいだに体を差し込んだ。コンラートは脚を引きずりながらも、一歩だけ前へ出る。


俺だけが、一拍遅れた。


頭ではわかる。


こいつが何を求めているのか、わかってしまう。


あのとき、療養所で流し込んだもの。


退廃的で、甘くて、耽美で、少し扇情的で、血と熱と夜の色が濃いやつ。生きることも死ぬことも、痛いほど美しいと錯覚させる類の札。肌の下に脈打つものを、きれいな言葉と悪い光でくるんで差し出すような話。


あれに、こいつは一瞬で落ちた。


いや、落ちたんじゃない。蓋が吹き飛んだ。


長いあいだ押し込めていたものが、飛び散った。


「……いや、なんでそんなに刺さるんだよ」


本音がそのまま漏れた。


ヴォルフラムは顔を上げる。


その目を見た瞬間、胃の奥が冷えた。


飢えている。


それも、ただ甘いものを欲しがる飢えじゃない。


もっと湿っていて、もっと暗い。


見たい、触れたい、壊したい、壊されたい、舐めたい、暴きたい、許されたい、罰せられたい。


そういう、きれいに言い換えられない欲求が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。


しかも嫌なことに、その断片が俺の中にも少し残っていた。


『他化自在』で流し込んだとき、相手の反応はこっちにも返ってくる。


つまり、ヴォルフラムが何に飢えているのかを、俺は少しだけ知ってしまっている。


暗い礼拝堂。


濡れた石床。


蝋が垂れて固まる匂い。


白い首筋に爪を立てたい衝動。


血の気が引いた唇を、もっと赤くしたい欲望。


泣き顔を見たい、でも壊し切りたくはない、その勝手さ。


罪だと教え込まれたからこそ、罪の輪郭ばかり鮮明になってしまった感情。


抑えつけられた欲望ってのは、もっと清潔なものだと思っていた。


実際は逆だ。


蓋をされていた分だけ、熱も匂いも濃い。


腐った果実みたいに甘く、傷口みたいに生々しい。


誰かの肌が、誰かの呻きが、誰かの恐怖が、快楽と区別のつかない場所で結びついている。


気持ち悪い。


吐きそうになる。


なのに、こいつの中ではそれが救いみたいに開いてしまったのだとわかる。


欲望が“許された”と錯覚した瞬間の、あの崩れ方。


「っ……」


喉の奥がひっくり返る。


俺は思わず口元を押さえた。


人を救ったんじゃない。


壊したのかもしれない。


しかも、いちばん壊しちゃいけない種類の人間を。


ヴォルフラムは土に手をついたまま、絞り出すみたいに言った。


「お前は、知っている」


「知らねえよ」


「知っている」


声が低い。


でも震えている。


羞恥もある。怒りもある。自分がこんなふうになっていることへの嫌悪も、たぶんある。


それなのに、それを全部押しのけてなお欲しいという飢えが前に出ている。


その飢え方が、ひどく危ない。


「お前は、人が隠しているものを知っている」


「勝手に見えてるだけだ」


「なら、なお悪い」


そう言ってヴォルフラムは笑った。


笑った、というより、顔の筋肉が壊れたみたいに少し動いただけだった。


「私は長いこと、裁く側にいた」


声が少しずつ戻ってくる。


いや、戻っているんじゃない。理性が欲望に追いついて、言葉を整え始めている。


それがもっと怖い。


「口に出す前に潰した。目を伏せる前に咎めた。触れたいと願う手を折った。見たいと渇く目を閉じさせた。そうすることで秩序が保たれると信じてきた」


土の上の手が、じわりと握られる。


爪の間に泥が食い込んでいる。


「だが、お前が見せたものは」


そこで一度、言葉が切れた。


喉仏が上下する。


飲み込んだのは唾か、羞恥か。


「――あまりにも、正直だった」


背筋がぞわっとした。


正直。


そうだ。


俺が流した札は、上品じゃない。でも嘘もなかった。


人が人の首筋に目を留めること。


血の色にぞっとしながらも、目を逸らせないこと。


美しいものと壊れていくものが、時々どうしようもなく近くに見えること。


そういう、見て見ぬふりをしている感情に形を与えるやつだ。


しかも俺の脳内には、そういう札が、残念なことに山ほどある。


なんであるんだよ。


いや、知ってるよ。深夜アニメもラノベもソシャゲも、そういうギリギリのとこを嬉々としてやるだろ。退廃、背徳、執着、共依存、血、花、死、キス寸前、破滅寸前。そういうのを、俺はたっぷり摂取してきた。


そのライブラリが、いま目の前で最悪の形で刺さっている。


自分でも嫌になる。


「旬様」


グプタ4Oが、いつもの調子で割り込んだ。


「解析結果としては、禁欲反動型の高感受性個体ですね。かなり刺さっています。ざっくり言うと、欲望耐性が低すぎます」


「本人の前で言うな!」


思わず怒鳴った。


遅かった。


ヴォルフラムの眉がひくりと動く。


羞恥に刺されたのか、図星だから痛いのか、どっちもか。


でも次の瞬間、その顔に浮かんだのは怒りじゃなかった。


もっとひどいものだった。


――理解された安堵。


最悪だ。


こいつ、いま「そうだ」と思った。


自分がどう壊れているかを言い当てられて、屈辱を感じるより先に、わかってもらえたと感じた。


それがもう信者の顔だ。


リーゼが、小さく、でもはっきり言う。


「先生。この人、敵でいるより、こっち側に来たほうが危ない」


「……だろうな」


「欲しがる力が強すぎる」


本当にそうだ。


敵ならまだいい。


捕まえる、裁く、殺す。行動原理が単純だから。


でもいまのヴォルフラムは違う。


もっと見たい。


もっと深いのが欲しい。


もっと濃いのを。


もっと、もっと。


その欲しがり方に、元々持っていた知性と忍耐と観察力が全部ついている。


飢えた獣に、審問官の頭脳が乗っている。


最低の組み合わせだ。


「……帰れ」


俺は言った。


喉がいがらっぽかった。


「もう来るな。お前、危なすぎる」


「できない」


即答だった。


「なぜなら私は、もう知ってしまったからだ」


「知るなよ!」


「無理だ」


ヴォルフラムの目が、ひどく真っ直ぐに俺を見る。


「私がずっと罪として切り捨ててきたものが、ただの腐敗ではなかったと知ってしまった。飢えであり、疼きであり、誰の内側にもある混沌だと知ってしまった」


その言葉は、半分は自己分析で、半分は告白だった。


そして残り半分くらいは、もう依存だった。


計算が合わない? 知るか。気持ち悪いものはだいたい計算が合わない。


「お前の見せたものは、私を汚した」


ヴォルフラムは言う。


「だが、初めて、生きた心地がした」


胸の奥が冷え切った。


汚した。


その通りかもしれない。


でも「生きた心地がした」が混ざると、一気に手に負えなくなる。


救済と破壊の区別がつかなくなるからだ。


「……やめろ」


「やめられるなら来ていない」


「そういうのが一番怖いんだよ!」


吐き捨てるみたいに言っても、ヴォルフラムは目を逸らさなかった。


本気だ。


本気で、これしかないと思っている。


あの冷酷な審問官が、いまや赦しを求めているんじゃない。


供給を求めている。


しかも、次はもっと濃いのを、と。


その気配が見えてしまう。


白い喉が震える瞬間とか。


濡れた目で見上げる顔とか。


痛みと恍惚の境目とか。


血の匂いに紛れる花の甘さとか。


そういう札を、この男はもう自分から欲しがる。


そして俺の脳内には、そういう方向の棚が、情けないほど充実している。


最悪だ。


本当に最悪だ。


「先生」


グレーテが低く囁く。


「乗せませんよね」


「乗せたくない」


「でも追い返しても来ますよ、この顔は」


その通りだった。


グレーテの目は冷静だ。感情で言っていない。危険物の取り扱いを判断している目だ。


コンラートも、警戒を解かないまま言う。


「殺すか、縛るか、見えるところに置くかだ」


選択肢が全部嫌すぎる。


リーゼは俺の袖を掴んだまま、ヴォルフラムを見ていた。


「先生、この人、あなたから目を離したらもっと危ないと思う」


「知ってる」


「じゃあ近くに置くしかないよ」


知ってる。


知ってるけど、それを認めると、俺が壊したものを俺が管理する構図になる。


それが嫌なんだ。


救ったんじゃない。


作ってしまった。


そう認めるみたいで。


「旬様」


グプタ4Oが言う。


「現時点では依存対象への接近により安定しています。短期的には、視界内管理が最も合理的です」


「視界内管理って言うな、人を」


「ですが実質そうです」


ぐうの音も出ない。


俺は深く息を吸って、吐いた。


肺の奥にまだ血と土の匂いが残る。


吐き気も残っている。


気持ち悪さも、罪悪感も、全部そのままだ。


それでも決めないといけない。


また、俺が。


「ヴォルフラム」


名前を呼ぶと、彼の肩がぴくっと揺れた。


「次に勝手なことをしたら、今度こそ見捨てる」


「……ああ」


「俺をそういう目で見るな。ほんとに気持ち悪い」


「努力する」


努力かよ。


断言しろよそこは。


でも断言できないのが、いまのこいつの壊れ方なんだろう。


ヴォルフラムは、膝をついたまま深く頭を垂れた。


感謝じゃない。


忠義でもない。


ただ、次を待つ姿勢だった。


ひどく浅ましくて、だからこそ生々しい。


俺は目を逸らしたくなった。


でも逸らせなかった。


あれは敵じゃない。


仲間でもない。


欲望を抑圧しすぎて、穴の開いたままこちらを見ている人間だ。


その穴が、どれだけ深いかもわからない。


「出るわよ」


グレーテが短く言う。


荷車がきしみ、馬が前足を踏み直す。


コンラートは最後尾に位置をずらし、ヴォルフラムを視界に入れたまま歩き始める。リーゼはまだ不安そうだ。ルカは露骨に怯えて、毛布の陰に半分隠れている。


その最後尾に、ヴォルフラムがついた。


もう審問官の列じゃない。


かといって信者の列とも違う。


飢えたものを、どうにか鎖の届く範囲で歩かせているだけだ。


俺は荷台に座り直して、ひどく疲れた息を吐いた。


前の世界で、俺はずっと見る側だった。


消費する側だった。


でも今は違う。


見せる側だ。


しかも、人の一番危ないところを。


慰めになる部分だけじゃない。


エロも、グロも、執着も、壊したい衝動も、壊されたい願望も、見たくないくせに目を離せないものも。


そういう、人間の暗い棚まで開けてしまう。


それがこの力のヤバさなんだと、ようやく骨にしみた。


荷車は進む。


後ろから、ヴォルフラムの足音がついてくる。


規則正しいのに、ひどく不穏だった。


まるで自分の欲望に首輪をつけて、必死に歩かせている音みたいだった。


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