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第11話 馬小屋の夜

雨は、空が暗くなってから一気に来た。


最初は木の葉が鳴る程度だったのに、ほどなくして本降りになり、荷車の布を叩く音がばらばらとうるさくなる。道はぬかるみ、車輪は取られ、馬は鼻を鳴らして嫌がった。


「屋根! あそこ!」


リーゼが叫んだ先に、古い馬小屋があった。


半分傾きかけた板壁。扉は片方しか残っていない。屋根も隙間だらけだが、それでも濡れ続けるよりはましだった。俺たちは荷車ごとそこへ駆け込んだ。


乾ききった藁の匂いと、古い獣臭と、湿った木の匂いが鼻をつく。


人の住む場所じゃない。


でも、その夜だけは十分だった。


「熱のある子は奥! 風の当たるところに立たせないで!」


グレーテがいつもの調子で怒鳴る。


「濡れた布は入り口側! 火は小さくね、小さく! 煙出しすぎたら外から見える!」


コンラートが若い連中を回し、扉の隙間に藁束を押し込み、荷車から毛布を降ろす。リーゼは水袋の残りを確認し、ルカは何度も外を見に行っては戻ってきた。


あっという間に小屋の中に秩序ができる。


毎度思うが、この集団、俺が一番役に立ってない気がする。


俺は火の近くの藁の山に腰を下ろした。


すると、自然に人が集まってきた。


誰かが「並べ」と言ったわけじゃない。


でも、疲れ切った顔をした連中が、火の輪の向こうに順番に座る。少しでも眠りたい奴。少しでも落ち着きたい奴。何かを見たい奴。何かを感じたい奴。


その視線が全部こっちに集まる。


やめろ。


そういう見方はほんとによくない。


でもその目の底にあるのが、信仰とか崇拝とかより先に、切実な疲労だとわかると、突っぱねにくい。


「……一人ずつな」


俺が言うと、誰かが小さく息を吐いた。


それで、始まってしまった。


最初に座ったのは、幼い娘を抱えた若い母親だった。


逃げてからずっと緊張しっぱなしなのだろう。肩が上がったまま下がらない。娘も目が冴えてしまっていて、眠いくせに寝られない顔をしていた。


目が合う。


流れたのは、戦いでも恋でもない、ただの夜の話だった。


深夜ラジオと、雨音と、ひと駅ごとに人が減っていく古い各駅停車。眠れない人間が、誰とも会わずに、窓に流れる灯りだけ見ながら朝を待つような静かな作品だった。事件は起きない。ただ、世界が急かしてこない。


母親の肩が、すっと落ちる。


娘のまぶたが重くなる。


返ってくるのは、感動というより脱力だった。


ああ、もう頑張らなくていいかもしれない、っていう、ぎりぎりのところでようやく緩む感覚。


派手じゃない。


でも、こういうのが一番効く相手もいる。


次に来たのは、痩せた老人だった。


逃げる道中でも、ずっと「腹は減ってない」と言い張っていた人だ。実際は減ってるんだろうけど、弱ってると食欲そのものが切れることがある。


この人に流れたのは、飯の話だった。


湯気の立つ屋台。鉄板で焼ける油。うどんでもラーメンでもなく、その作品にしかない妙にうまそうな架空の麺料理。旅先でたまたま入った店が、人生でいちばんうまい一杯だった、みたいな話だ。食うだけの回なのにやたら記憶に残るタイプのやつ。


老人の喉が、ごくりと鳴った。


鼻がひくつく。


さっきまで死んでいた顔に、露骨に食欲が戻る。


「……腹、減った」


自分で言って、自分で驚いたみたいに目を瞬かせる。


俺にも返ってくる。


ああ、こういうのうまいんだよな、っていう、映像でしか知らないくせに知ってる感じ。口の中に塩気と脂の幻が立つ。


「パンあるか」


老人が低く言うと、近くで聞いていた誰かが慌てて干しパンを差し出した。


さっきまで喉を通らなかったやつが、今はちゃんと食いものになっている。


反応が全然違う。


泣く奴だけじゃない。


こういうふうに、腹から戻る奴もいる。


次に来たのは、十五、六くらいの男の子だった。


肩をいからせているくせに、目の奥は沈んでいる。道中で何度か転び、そのたびにコンラートに怒鳴られて、たぶん自分が足手まといだと思い込んでいる顔だ。


こういうのも、わかる。


嫌になるほどわかる。


彼に流れたのは、青春ものだった。


部活だ。


雨の校庭。泥まみれのユニフォーム。補欠上がりの奴が、最後の大会でギリギリ間に合うかどうか、みたいな、汗と叫び声と夕焼けで殴ってくるタイプの作品。友情が重い。根性もある。でもちゃんと、駄目な日と情けない日をやってから、最後に一本通すやつ。


少年の背筋が伸びる。


膝の上の拳が、じわっと握られる。


返ってくるのは、熱だ。


単純で、青くて、馬鹿みたいに前向きなやつ。


「あ……」


少年が小さく息を呑む。


「もう一回、走れそう」


そういう反応になるのかよ、と思う。


でも、そうなる奴にはそうなる。


悲しみを抱える人間に必要なのが、必ずしも悲しみの処理とは限らない。たまに、走れの一言で回る奴がいる。


その次は、中年の女だった。


夫を亡くした寡婦で、逃げてからほとんど喋っていない人だ。てっきりまた喪失系が刺さるかと思ったら、違った。


流れたのは、職人ものだった。


一人で食堂を立て直す女の話。借金まみれ、客は来ない、鍋は焦がす、でも味だけは嘘をつかない。亡くした相手を回想する場面はある。でも中心は涙じゃない。次の仕込みだ。玉ねぎを刻んで、帳簿をつけて、明日の客を待つ話だ。


女は泣かなかった。


代わりに、ずっと伏せていた顔を上げた。


「鍋……」


ぼそっと呟く。


「うちの鍋、持ってきたかしら」


グレーテが反射的に答える。


「積んでるわよ。大鍋なら荷の下」


「……そう」


たったそれだけだった。


でも、その「そう」の中に、朝をやる人間の声が戻っていた。


泣くだけじゃない。


泣かないで戻る人もいる。


次に来たのが、問題だった。


十代後半くらいの娘で、さっきからちらちらと小屋の反対側を見ている。


何を見てるのかと思ってそっちを見たら、壁にもたれて座っている若い男がいた。無口で、やたら顔が整っている。ああ、なるほど、と思った瞬間に『他化自在』が勝手に反応した。


流れたのは、王道の少女アニメだった。


転校生。屋上。夕暮れ。ひょんなことから名前を呼ばれる。こっちを見て笑う。たったそれだけで世界の彩度が上がる、みたいな、あまりにも真っ直ぐなやつ。


娘の頬が赤くなる。


そのまま、こっちにも返ってくる。


胸の奥がきゅっと縮む。


さっきまでただの壁だった背景が、急にやわらかい逆光を背負い始める。いや、現実に逆光はない。ないのに、あの男の横顔が妙に整って見える。濡れた前髪とか、伏せ気味の目とか、なんか知らんけど全部それっぽい。


「待て」


俺は思わず額を押さえた。


「何ですか」


グプタ4Oが冷静に聞いてくる。


「俺、なんで今こんな乙女っぽい動揺してるんだ……待て、俺はホモじゃない、あの娘のタイプがあの男なんだ」


娘が真っ赤になって俯く。


小屋の隅の男は意味がわからず困惑していた。


最悪だ。


しかもそこへ、別の方向の事故が重なる。


俺の視界の端で、荷を運んでいた二十代くらいの男が、もう一人の年上の男にやたら視線を送っていたのだ。


何となくそっちを見た瞬間、また繋がった。


「あっ」


今度はBLだった。


男子寮もの。


夜の廊下。


同室。


雨で濡れたシャツ。


触れるか触れないかの距離で会話が止まる、みたいな、えらく湿度の高いやつ。直接的じゃないくせに、目線と間の取り方だけで妙に色気があるやつ。


「うわっ」


思わず変な声が出た。


今度は胸のざわつき方がさっきと違う。


息苦しいというか、目線の意味が急に生々しくなる。あっちの男が年上の男を見る目に、憧れと欲と遠慮と諦めがごちゃっと混ざっていて、その感情の向きがそのままこっちにも来る。


小屋の中の別の男が、急にやたら格好よく見える。


腕の筋とか、低い声とか、濡れた襟元とか、そういう細かい情報が妙に刺さる。


「待て待て待て」


俺は片手で顔を覆った。


「何ですか、今度は」


「だから俺はホモじゃない! この人の視線の向きがそうなんだよ! というかこういう方面までちゃんとライブラリあるの、俺ほんと自分が嫌になるな!?」


「多様な鑑賞経験は有用です」


「有用って言うな!」


でも、ここで妙な安堵もあった。


見せられるのが、俺の知ってる作品だけでよかった。


現実の生身の記憶じゃない。アニメや漫画やドラマだから、まだ境目がある。構図とか演出とか、フィクションの色がついている。これが現実そのものの欲望だったら、もっとぬるっとしていて、俺の中に切れ目なく入り込んでくるはずだ。


その意味では、本当に助かっている。


作品ライブラリ式でなければ、たぶん俺はもう他人との境界を保てない。


そこから先は、いよいよ雑多になった。


ある老婆には、昔の怪盗活劇が流れた。若いころの身軽さと悪戯心が返ってきて、さっきまで死んだ顔だったのに「昔は塀くらい越えたもんだよ」と笑い出す。


片腕の男には、法廷逆転ものが流れた。自分ではもう勝てないと思っていた人間が、言葉ひとつで盤面を返す話だ。男は泣かずに、「まだ言い返せるかもしれねえな」と歯を見せた。


熱に浮かされた少女には、アイドルものが流れた。歌って踊って仲違いして仲直りする、キラキラしたやつ。少女はぼんやりしながらも指先だけで拍子を取り始めた。


反応が毎回違う。


泣く奴もいれば、笑う奴もいる。


腹が鳴る奴もいれば、急に背筋が伸びる奴もいる。


顔を真っ赤にする奴もいるし、昔話を始める奴もいる。


同じ“感動”じゃない。


人が欲しがるものって、ほんとにばらばらだ。


そして、そのばらばらさを俺の頭の中のガラクタ棚がいちいち引っ張り出してくるのが、だいぶ気持ち悪い。


でも効く。


効いてしまう。


それがまた厄介だった。


その夜、もう一人、別の意味で厄介な奴がいた。


オットーだ。


痩せた中年男で、療養所から一緒に逃げてきた一人。帳簿係でもやっていたのか、とにかく紙とペンを離さない。


最初は人数でも数えているのかと思っていた。


違った。


こいつ、俺の言葉を書き留めている。


「飯はちゃんと食え」


「眠れたなら、それでいい」


「泣いたあとに腹が減るのは普通だ」


「無理に立たなくていい。立てる時に立て」


俺がその場その場で適当に言った、生活指導とも愚痴ともつかない台詞を、全部書いている。


「おい」


一息ついたところで、俺はオットーを見た。


「何書いてんだよ」


オットーは真顔で答える。


「記録です」


「何の」


「あなたの言葉の」


「やめろ」


「なぜです」


「なぜって、そんな大したこと言ってないだろ」


「こういうときほど、人は忘れます」


オットーはさらさら書きながら言う。


「何に助けられたか。何を言われて少し楽になったか。後になると曖昧になる。だから残すんです」


「いや、それただの雑談だぞ」


「雑談でも、眠れた人間には違います」


反論しづらいことを言うな。


実際、火の向こうでは、さっきの母親が娘に小声で言っていた。


「眠れたなら、それでいいって」


まるで立派な言葉みたいに。


違うだろ。ただの寝不足への応急処置だよ。


でも切羽詰まった場所では、その程度の言葉がやけに深く刺さるらしい。


「今はまだ教義じゃありません」


オットーが言う。


「今はって何だよ」


「意味づけの前段階です」


「嫌な言い方するなあ……」


でも、その嫌さが現実に近い。


曖昧なものに、言葉がつく。


言葉が紙に残る。


紙が誰かに回る。


誰かがそれを口にする。


そうやって、ただの一言が“あの人の言葉”になっていく。


すでに始まってる。


宗教って、たぶんこういうところから出るんだろうな、と嫌でも思った。


雨は夜半まで降り続いた。


屋根を打つ音の下で、寝息が少しずつ増えていく。


火は小さい。


でもその小さな灯りの周りに、人の気配が幾重にも重なっていて、妙に満ちていた。


俺は壁に背を預けて目を閉じる。


近くで眠る人間の眠気が、こっちにも伝わる。やっと少し休める、という安堵が流れてきて、俺の中の睡眠欲もようやく起動する。


つくづく、自分一人では駄目な体だ。


ふと目を開けると、ヴォルフラムが入口近くの暗がりに座っていた。


火の輪には入ってこない。


でも、帰りもしない。


こっちを見ている。


飢えたままだ。


少し静まっているだけで、あの危うさは全然消えていない。


気味が悪い。


だが今夜は、もうあいつに構うだけの余力もなかった。


「旬様」


グプタ4Oが、妙に淡々とした声で言う。


「共同体内儀礼の萌芽、記録者の出現、言葉の共有、意味づけの発生が確認できます」


「宗教の発生って言いたいんだろ」


「かなり近いです」


「やめろ」


でも、やめろと言っても、小屋の中の光景は変わらない。


誰かが眠る。


誰かが腹を鳴らす。


誰かが恋に赤くなる。


誰かが昔を思い出して笑う。


その隅で、オットーが俺の雑な言葉を書き留める。


雨音の下で、意味だけがじわじわ固まっていく。


翌朝、それはもうはっきりしていた。


小屋の隅で、少年が別の若者に言っている。


「無理に立たなくていい。立てる時に立て、だってさ」


火の跡の近くでは、母親が子どもにパンを渡しながら言う。


「飯はちゃんと食えって」


オットーの紙は、もう何人かで回し読みされていた。


「あの人の言葉だ」


そんなふうに。


俺は頭を抱えたくなった。


まだ教義じゃない。


戒律も祈りもない。


でも、もう始まっている。


記録され、共有され、意味づけされている。


ただの雨宿りの一晩が、ただの一晩で終わらない形に変わっている。


「……まさか教祖にジョブチェンジとか、ないよな」


思わず呟くと、グプタ4Oが明るく答えた。


「現時点では、かなり有力です」


「やめてくれ」


本気でそう思った。


でも、朝の馬小屋の空気は、その否定をまるで聞いてくれなかった。


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