第12話 スピーカーたち
朝、目を覚ましたとき。
最初に聞こえたのは雨音じゃなくて、人の声だった。
ざわざわしている。
しかも近い。
馬小屋の隙間から朝の光が細く差し込んでいて、その向こうに、いくつもの影が動いていた。昨夜までの面子だけじゃない。明らかに増えている。人数でいうと、何十人。多すぎる。
「……何だこれ」
寝起きのまま呟くと、入口のほうで水袋を整理していたグレーテが、振り返りもせずに言った。
「増えました」
「見ればわかるよ」
「じゃあ説明はいらないでしょう」
欲しいよ。
むしろくれよ。
俺は藁の上から身を起こした。体は重い。でも眠れた。ちゃんと眠れたのは事実だ。小屋の中に眠気が充満していたせいで、こっちもまとめて寝落ちした感じがある。相変わらず変な生き物みたいだな、俺。
外では、見知らぬ顔が馬小屋の様子をうかがっていた。
農民っぽい男。
子どもを背負った女。
荷を引いたまま立ち止まっている行商人らしい奴。
中には、怪我人までいる。
何でだ。
いや、何となく嫌な予感はしている。
その答えを、リーゼがあっさり出した。
「スピーカー」
「あー……」
「たぶん、みんな喋ったんだと思う」
やっぱりか。
昨日の夜の時点で、同行者の中にリーゼ以外のスピーカー持ちが何人かいるのは聞いていた。別に珍しいスキルじゃないらしい。町でも村でも、誰かしら持ってる。だからこそ、普段は生活の道具として埋もれている。
でも、昨日みたいな夜をやったあとだ。
そりゃ喋る。
人は、変なものを見たら誰かに話したくなる。
しかもこの世界では、その「誰かに話す」が、普通に半径十キロへ飛ぶ。
冷静に考えるとだいぶ狂ってる。
「誰が何を言ったんだよ」
俺が顔をしかめると、リーゼは少し考えてから、困ったように笑った。
「たぶん、みんな好き勝手に」
それは最悪の答えだった。
ほどなくして、その“好き勝手”の実例が向こうから飛んできた。
「いたいた! 本当にいた!」
馬小屋の外で叫んだのはルカだった。
昨日まで熱でふらついていたくせに、朝になると妙に元気になっている。子どもってずるい。
「あんた、何飛ばしたんだ」
俺が睨むと、ルカは悪びれもせずに胸を張った。
「すげえのいるぞ、って」
「雑」
「あと、病人が泣いて寝た、って」
「さらに雑」
「それから、教会に追われてる、って」
「余計な一文が一番強いな、それ!」
ルカは笑っている。
たぶん本人に悪気はない。ないのが困る。子どもの実況って、変に勢いがあるぶん、いちばん人を呼ぶんだよな。
「でも、嘘じゃないだろ」
「嘘じゃないけど言い方ってもんがあるだろ」
「あるの?」
「あるよ!」
たぶんないと思ってる顔だった。
一方で、同じスピーカーでも、まるで別の飛ばし方をしている人間もいた。
馬小屋の入口近くで、鐘守の老婆が胸元に手を当てて、静かに目を閉じる。
そして、よく通るけれど落ち着いた声で言った。
「道の東、古き馬小屋にて、疲れた者に安らぎを与える一団あり。涙した者は眠り、眠れぬ者は朝を迎えた。急ぐ者は急げ。求むる者は騒ぐな」
俺は思わずそっちを見た。
「何その……急に神託っぽいの」
老婆は目を開けて、しわだらけの顔で少し笑った。
「事実を整えただけさ」
整え方に思想があるだろ、それ。
ルカの「すげえのいるぞ」と同じ情報源とは思えない。片や町のガキの実況で、片や鐘楼から降ってくるお告げだ。
なのに、どっちも届く。
どっちも人を動かす。
この時点で、スピーカーってのが単なる拡声器じゃないのがよくわかった。
誰が話すか。
どう話すか。
そこに人格が乗る。
人格ごと飛ぶ。
そのぶん、噂がただの伝達じゃなくなる。
「グレーテは」
俺が聞くと、グレーテは即答した。
「必要なことだけです」
「たとえば?」
「熱のある子がいる。水を持てる者を寄越せ。歩けない老人が二人いる。荷台を引ける者がいれば助かる。余計な口の軽いのはいらない、です」
「現実」
「現実ですから」
正しい。
正しすぎる。
しかも、たぶんそれで必要な人間だけが来る。物見遊山より、水桶を持てる手が欲しい場面もあるんだ。そういうとき、グレーテみたいな伝え方がいちばん強い。
同じスピーカー。
同じ半径十キロ。
でも運用が全然違う。
ルカは事件として飛ばす。
鐘守の老婆は意味づけして飛ばす。
グレーテは必要資源として飛ばす。
リーゼは、たぶんその中間だ。人の顔が見える言い方をする。
「……これ、思ったより厄介だな」
俺が呟くと、グプタ4Oが嬉しそうに答えた。
「スピーカー網ですね。非常に優秀です」
「また始まった」
「この世界の神経と呼んでも差し支えないかと」
その比喩は、ちょっとわかった。
神経。
たしかにそうだ。
村と村、道と道、宿と畑、教会と市場。そのあいだに張り巡らされている、目に見えない生活の線。誰かが転んだ、荷車が壊れた、井戸が濁った、子が生まれた、兵が通った。そういう細かい情報が、声のかたちで伝わっていく。
紙じゃない。
使者でもない。
もっと早くて、もっと軽い。
だから雑談も噂も、そのまま走る。
そして、そんな神経網に、いま俺たちのことが乗っている。
逃亡中の一団。
病人が泣いて眠る。
教会に追われている。
妙な男が真ん中にいる。
情報としては、だいぶ強い。
強すぎる。
「まだ逃げてるだけなんだけどな……」
口に出してみたが、あまり説得力がなかった。
だって現実に、人は集まってきている。
馬小屋の前には、もう勝手に小さな列みたいなものができ始めていた。怪我人を連れてきた者、顔色の悪い親を支えている者、水桶を持ってきた若者、ただ様子を見にきた連中。全員が、少しずつ違う顔でこっちを見ている。
見るだけじゃない。
期待している。
少なくとも、何かあると思って来ている。
そういう目だ。
怖い。
普通に怖い。
まだ俺は、どこかへ身を隠したいだけのつもりだった。
神父を失ったばかりで、正直それどころじゃない。
なのに現実には、もう“集まる場所”として扱われ始めている。
人が人を呼ぶ。
その呼び方がうまいほど、もっと人が来る。
「何を見たか」じゃないんだな、と俺は思った。
本当に人を動かしているのは、内容そのものじゃない。
「どんなふうに泣いたか」
「どうやって笑ったか」
「さっきまで死にそうだった奴が、どうやって眠ったか」
そこだ。
要するにこの世界では、口コミそのものが娯楽なんだ。
いや、娯楽であり、同時に共同体の体温でもある。
年に何度も芝居や祭りや新作があるわけじゃない世界で、他人の驚きや涙ってのは、それだけで十分面白い。人づての噂そのものが、一つの観賞物になる。
誰かが「すごかった」と言う。
すると聞いた側は、何がすごかったのかより先に、どれだけすごかったのかを想像する。
その想像が膨らむ。
膨らんだところへ、次の話し手がまた別の角度から火を入れる。
そうやって、実物に会う前から期待が育つ。
最悪だ。
前の世界で言えば、切り抜きとレビューと感想ツイートだけで本編前に空気ができてるようなもんだ。
しかもこの世界には、映像も配信サイトもない。
だから逆に、人の口から出る熱だけが、そのまま本編になる。
「旬様」
グプタ4Oが、やたら上機嫌な声で言う。
「とても良いですね」
「どこが」
「情報流通量の増加により、旬様の共同体は低コスト高拡散型フェーズへ入りました。かなり強いです」
「言い方が嫌すぎる」
「ざっくり言うと、逃げながら人気が出ています」
本質は突いてる。
突いてるから腹が立つ。
逃げながら人気が出るって何だよ。
炎上系か。
いや、笑えない。
実際にはもっと気持ち悪い。
人気っていうか、必要とされ始めてるんだ。しかも、俺を直接知らない人間にまで。
それがもう怖い。
「先生」
リーゼが、小さく呼んだ。
「外、見る?」
「見たくない」
「でも見ないと、もっと増えると思う」
嫌な正論だ。
俺は渋々、馬小屋の外へ顔を出した。
朝の空気は湿っていた。雨はもう上がっていて、土の匂いが濃い。濡れた草の先で、陽が細く光っている。その前に、人がいる。
何十人も。
全員が、俺を見た。
それだけで少し体が強張る。
一歩下がりたくなる。
でも下がると、余計に何かっぽく見える気もする。
「本当にいる……」
誰かがそう言った。
何だその感想。
珍獣か何かか俺は。
「病人が眠ったって」
「泣いてたのが朝には起きたって」
「教会の人間が来たんだろ」
「いや、審問官まで膝をついたらしい」
「そこまで言ってない!」
反射的に突っ込んだら、前のほうにいた男が目を丸くした。
しまった。
本人が否定すると、逆に本物感が増すやつだ、これ。
「ほら、本人だ」
「喋った」
「喋るだろ人間なんだから」
どうも駄目だ。
空気がもう、普通の旅人扱いじゃない。
そのとき、人垣の後ろから、小さな呻き声がした。
見ると、男が一人、肩を貸されながら立っている。足を悪くしているらしく、顔色も悪い。付き添いの女が不安そうにこっちを見ていた。
「……あの」
女が言いかける。
そこで空気が変わる。
野次馬と見物人と手伝いに来た人間の集まりだった場所に、急に「頼みごと」が発生する。
頼まれたら、たぶん俺は断れない。
断れば断ったで、周りに別の意味が生まれる。
やるしかない。
その構図が、もうできてしまっている。
「……中、入れ」
俺が言うと、周囲がざわめいた。
ほら見ろ。
こういう一言が、すぐ特別な意味を帯びる。
やめてくれ。
ただ雨宿りの延長でやってるだけなんだよ、こっちは。
でも現実には、その延長がどんどん布教みたいになっていく。
逃げている。
なのに留まる先々で、人が増える。
人が増えるから、そこが“場所”になる。
場所になると、また情報が飛ぶ。
飛んだ情報が、次の人を呼ぶ。
逃亡が、そのまま布教になっている。
嫌になるくらいきれいな構造だった。
「旬様」
グプタ4Oが、ほとんど感心したみたいに言う。
「移動型集会モデルですね」
「言い換えれば?」
「走る口コミです」
「そっちはまだましだな……」
いや、ましか?
どっちにしろ嫌だ。
馬小屋の中では、グレーテがもう新しく来た連中の仕分けを始めていた。
「水を持ってきた人はそっち! 怪我人は座らせて! 見るだけの人は邪魔だから後ろ!」
強い。
ほんとにこの人がいなかったら、俺たちは三回くらい崩壊してる気がする。
リーゼは新しく来た子どもに話しかけて緊張をほぐし、ルカは得意げに「俺、昨日見たんだぞ」と語り始めている。鐘守の老婆はすでに次の一報を飛ばしていた。
「道の西より人来たる。水ある者、今は役に立つ」
簡潔だ。
そしてたぶん、その数分後には別の誰かがまた違う調子で飛ばすんだろう。
世界の神経網。
なるほど、たしかにそうだ。
でも、そこを情報として流れていくのが俺自身だと思うと、気分は最悪だった。
前の世界では、俺はそういうものの受け手だった。
誰かの感想。
誰かのおすすめ。
誰かの“やばかった”。
それを見て、へえと思って、気になって、見に行って、ハマる側だった。
今は逆だ。
俺のことが、誰かの声を通して飛んでいく。
どんなふうに泣いたか。
どんな顔で眠ったか。
教会がどう反応したか。
そういう断片で、俺が組み立てられていく。
本人の知らないところで。
それが薄気味悪い。
でも、止まらない。
止める手段がない。
むしろ止めようとしたら、もっと話題になるかもしれない。
「旬様」
グプタ4Oが最後に、やけに前向きな声で言った。
「順調ですね」
「何がだよ」
「共同体の外縁が、自発的に拡張しています」
「もっと嫌な言い方ある?」
「かなり強い現象です」
「褒めるな」
でも、褒め言葉として受け取れないだけで、現象としてはそうなのだろう。
小さな火の周りに集まっただけの一夜が、朝には外へ広がっている。
声が広げた。
泣き方と笑い方が広げた。
この世界の神経が、勝手に俺たちを運び始めている。
俺は馬小屋の入口に立ったまま、朝の湿った空気を吸い込んだ。
逃げたい。
本気でそう思う。
でもたぶん、もう“ただ逃げるだけ”の段階は終わった。
それがわかってしまった朝だった。




