第13話 救いを求める村
村へ入ったとき、最初に見えたのは、止まった手だった。
井戸の縁に肘をついたまま、水を汲むのをやめている女。
砥石の前で刃物を持ったまま、どこも見ていない男。
干し草を抱えたまま、道の真ん中で立ち尽くしている少年。
飢えもあるのだろう。病もあるのだろう。処刑だの徴発だの、そういう話も、顔を見ればだいたいわかる。
でも俺に流れ込んでくるのは、そういう苦しみじゃなかった。
苦しみそのものは、来ない。
来るのは、その裏返しだ。
笑いたい。
腹いっぱい食いたい。
誰かの声を聞きたい。
ここじゃない場所へ行きたい。
そういう、細くてしつこい欲望だけが、目の合った順に引っかかってくる。
「……嫌な村だな」
思わず漏らすと、グレーテが荷車の縄を解きながら言った。
「嫌というより、干上がってるのよ」
たぶんそうだ。
この村の人間は、みんな壊れているんじゃない。
壊れる寸前のところで、欲しがることだけ諦めきれずに干上がっている。
村長は俺たちを歓迎しなかった。
追い返す元気もなかった。
空き納屋を指して、「一晩だけだ」と言ったきりだった。
それで十分だった。
俺たちは荷を下ろし、病人を寝かせ、水を分ける。村の連中は遠巻きに見ていた。見ているだけの顔じゃない。知りたがっている顔だ。何かが起きるなら、見たい。何か少しでも変わるなら、触れてみたい。
そういう目だ。
最初に近づいてきたのは、鍛冶屋だった。
槌を持つ手は太いのに、口元が死んでいる。長いこと笑っていない顔だとすぐわかった。こっちを見ているくせに、何を期待しているのか自分でもよくわかっていない顔でもある。
目が合う。
流れたのは、笑い声の出る寸前の場面だった。
鍛冶場じゃなく、祭りの出店の裏。大男が、焼きたての串を格好つけて片手で受け取ろうとして、油で滑らせる。落とすまいとして肘で受け、胸で受け、最後には口だけでどうにかしようとして、全部台無しになる。誰も悪くないのに、周りだけが耐えきれずに吹く。
鍛冶屋の鼻が鳴った。
本人もびっくりした顔をする。
もう一回、短く笑う。
その瞬間に返ってくるのは、楽しさじゃない。もっと直接的な、「笑いたかった」という欲だ。腹の底で固まっていたものが、少しだけほどける感じ。
「……今の、何だ」
「知らん」
俺は正直に言った。
「でも、笑えたんならそれでいいだろ」
鍛冶屋はしばらく口を押さえていたが、やがて肩を震わせた。笑い方を思い出した人間の、下手くそな笑いだった。
次に来たのは、痩せた母親だった。
家の戸口に立っていた。声をかけるでもなく、ただこっちを見ていた。足元には、小さな靴が一足だけ揃えて置いてある。
その人に流れたのは、朝の卓だった。
まだ眠そうな子どもが、椀の中の湯気を指で触ろうとして怒られる。怒られたくせに、今度はわざと熱い粥を口に入れて、舌を出して涙目になる。母親は呆れながら椀を取り上げる。子どもはふくれっ面で椅子の上に膝を立てる。
ただ、それだけだ。
事件も奇跡もない。
でも、その女が欲しかったのはたぶん、そういう朝だった。
悲しみは来ない。
喪失の痛みも来ない。
来るのは、もう一回あのくだらない朝をやりたい、という願いだけだ。
女の喉が震える。
「……あの子、猫舌だったのよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
それから、自分の口を両手で覆った。泣き崩れるんじゃない。泣ける手前に戻ってきた、という感じだった。
次に目が合ったのは、納屋の陰にいた少年だった。
年のわりに表情が固い。村の女たちが「あの子は兄を」と言いかけてやめたから、何があったかはだいたいわかる。
その少年に流れたのは、夜更けの裏口だった。
兄が壁を越えようとして、弟がその裾をつかむ。「置いてくなよ」と言った弟に、兄が笑って、「じゃあ早く来い」と手を差し出す。二人とも本気で遠くへ行けると思っているわけじゃない。ただ、その場で一緒に息をひそめているだけで、もう少し外がある気になれる、あの感じ。
少年の顔が、そこで初めて子どもに戻った。
怒る顔でも泣く顔でもなく、追いかけるほうの顔だ。
返ってくるのは、喪失ではない。
一緒に出ていきたかった、という欲望だ。
ここじゃない場所を兄と見たかった、という、前向きなほうの願いだ。
それがひどく生々しくて、胸の奥に引っかかった。
苦しみは来ないくせに、出たい気持ちだけはやたら鮮明に伝わる。
そこがこの力の嫌なところだった。
その夜、村で俺がやったことは、病人を見るだけじゃなかった。
咳の止まらない老人には、熱い汁をふうふうしながら啜る場面を流した。味の細かさじゃない。湯気の向こうに顔をしかめて、それでももう一口いきたくなる、あの欲だ。老人はしばらくしてから、自分から薄い粥をよこせと言った。
手が止まっていた織り手の女には、機織りの音そのものが気持ちいい場面を流した。規則正しい音。揃っていく色糸。布が目に見えて伸びていく快感。女はそれを受けたあと、無言で自分の機に座った。
笑い方を忘れた職人には、さっきとは別の、もっと意地の悪い笑いを流した。怒鳴り合っていた二人が、最後に同時に梯子から落ちるやつだ。職人は「馬鹿だな」と言って、それから本当に声を出して笑った。
どの場面も違う。
でも、返ってくるものには共通点があった。
やりたい。
食いたい。
触れたい。
喋りたい。
笑いたい。
ここから出たい。
苦しみは共有されない。
だからこそ、村の底に沈んでいた欲望だけが、妙に綺麗な形で拾い上げられてしまう。
それが、一晩で村を明るくした。
明るくなってしまった。
焚き火のそばで、誰かが笑う。
黙っていた母親が、子どものことを喋る。
少年が、兄の口癖を真似してみせる。
鍛冶屋が、明日の炉の話をする。
病が治ったわけじゃない。
飢えが消えたわけでもない。
それでも、欲しがることを少し思い出した人間は、見た目だけなら生き返ったみたいに見える。
それが、たぶん一番まずかった。
翌朝、村を出る支度をしていると、納屋の前に数人が立っていた。
鍛冶屋。
あの母親。
兄を失った少年。
他にも二、三人。みんな、荷物らしい荷物を持っている。
嫌な予感しかしない。
「……何してる」
俺が聞くと、鍛冶屋がまっすぐに答えた。
「ついていきたい」
やっぱりか、と思った。
驚きはない。
むしろ、来たか、だった。
母親は下を向いたまま言う。
「ここにいても、もう……」
そこで言葉が切れる。
だが、続きは流れ込んでくる。
もうあの朝は戻らない。
でも、別の朝があるかもしれないなら見てみたい。
少年は何も言わない。ただ、小袋を握りしめたまま俺を見る。
そこからも来る。
兄と一緒に行けなかった場所へ、自分だけでも行ってみたい、という欲望が。
村の何人かは、昨夜のうちに“ここではない場所”の手触りを知ってしまったのだ。
もっと正確に言えば、知った気になってしまった。
俺が見せたのは、出口そのものじゃない。
でも、出口を欲しがる感覚を起こしてしまった。
だから、ついていきたいと言い出す。
そのとき、後ろから声がした。
「やめてくれ」
村長だった。
昨夜と同じ、疲れた顔だ。
でも今日は、その疲れの奥に、はっきりした拒絶があった。
「あんたは聖者じゃない」
村長は俺を見た。
「村を壊す災厄だ」
その言葉は、ちゃんと刺さった。
けれど、深くはえぐられなかった。
半歩引いたところで、ああ、そうだよな、と思ってしまったからだ。
一晩で明るくなる。
一晩で、出ていきたいと言う人間が出る。
残る側から見れば、たまったものじゃない。
これは救済じゃない。
均衡を壊している。
しかも、苦しみを引き受けるわけでもなく、欲望だけを刺激していく形で。
そりゃ災厄に見える。
「……だよな」
自分でも驚くくらい素直に、その言葉が出た。
村長の眉が少しだけ動く。
反発されると思っていたのかもしれない。
でも俺は、自分を救う側の人間だなんて、最初から信じ切れていない。
人を楽にしているのかもしれない。
同時に、人をここではない場所へ引っぱっているのかもしれない。
その両方があると、もうだいぶ前からわかっている。
「連れていける人数は限られるわ」
グレーテが、いつもの現実的な声で割って入った。
「食い物、水、寝床、足。どれも足りない。全員は無理」
村人たちの顔が曇る。
そこにも、痛みじゃなく欲望だけが立つ。
選ばれたい。
置いていかれたくない。
ここじゃない場所へ行きたい。
そういう熱だけが、薄く重なってこっちへ来る。
嫌になる。
苦しみを共有しないくせに、その先にある「欲しい」は全部入ってくるから、むしろ逃げ道がない。
「旬様」
グプタ4Oが静かに言う。
「逆流感情の傾向が明確です。離脱願望が強いですね」
「見ればわかる」
「この村の住民は、癒やしそのものより、移動可能性に強く反応しています」
ひどい言い方だが、正しい。
昨夜、俺が渡したのは安堵や笑いや食欲だけじゃない。
外へ向かう感覚だ。
別の卓、別の道、別の朝。
それを欲しがらせた。
だから、村長の言葉は間違っていない。
聖者なんかじゃない。
欲望を起こし、留まっていたものを動かしてしまうなら、災厄だ。
俺は、ついていきたいと言った連中を見た。
感謝している顔じゃない。
もっと切実な顔だ。
欲しがる顔だ。
ここを出たい。
出て、何か別のものに触れたい。
その熱だけが、生々しく流れてくる。
「……少し待ってくれ」
それしか言えなかった。
誰を連れていくのか。
誰を置いていくのか。
そんなことを決めるつもりなんて、最初からなかったのに。
でも、もうその役を押しつけられる場所まで来てしまっている。
朝の村は昨夜より明るい。
なのに、昨日よりずっと重かった。
欲望だけが目を覚ましたぶん、余計に。




