第14話 教祖の自覚
村を出てから、しばらく誰とも喋りたくなかった。
朝の光は薄かったのに、やたら目に刺さった。荷車の車輪が土を噛む音も、馬の息も、後ろで誰かが咳き込むのも、全部ちょっとずつうるさい。うるさいのに、無視できるほど遠くもない。
最悪の距離感だった。
村長の言葉が、頭の奥でまだ乾いている。
聖者じゃない。村を壊す災厄だ。
別に怒ってはいない。
むしろ、その通りだなと思ってしまったのが嫌だった。
俺は人を救いたくてやってるわけじゃない。
誰かを立ち直らせたいとか、世界を変えたいとか、そんな綺麗な話じゃない。
ただ、自分が生きるためだ。
そうしないと、食えない。
眠れない。
つながってないと、体の奥から少しずつ死ぬ。
だからやってる。
そう考えると、村で起きたことも、全部妙な形に見えてくる。
助けたんじゃない。
俺が生きる過程で、たまたま周りが反応しているだけだ。
その結果、誰かが笑って、誰かがついていきたいと言って、村が壊れそうになる。
災厄と言われるのも、まあわかる。
「旬」
後ろから呼ばれても、すぐには振り返らなかった。
リーゼだとわかっていたからだ。
あいつは、こういうとき変に気づく。
少し遅れて足を緩めると、リーゼが荷車の脇から並んできた。朝の風で髪が少し乱れている。疲れているはずなのに、目だけは妙にしっかりしていた。
「大丈夫じゃなさそう」
「大丈夫だよ」
「その言い方のときは大丈夫じゃない」
返す言葉がなかった。
前を行くグレーテたちは、こっちに聞こえない程度の距離を取っていた。たぶん気を遣ってるんだろう。ありがたいのか、ありがたくないのかよくわからない。
しばらく黙って歩いて、それから俺は、小さく息を吐いた。
「俺さ」
言いかけて、ちょっと詰まる。
こういうのを自分から言うの、たぶんかなり苦手だ。
でも言わないままだと、たぶん余計に腐る。
「人助けがしたいわけじゃない」
リーゼは何も言わなかった。
遮らない。
慰めない。
その沈黙の置き方が、かえって話しやすい。
「生きるためにやってるだけだ」
俺は前を見たまま続ける。
「つながってないと死ぬから、こうしてるだけだ。誰かが泣いたり、笑ったり、眠ったりすると、俺も少しまともになる。だからやってるだけで、別に……」
そこで言葉が少し荒れた。
「別に、善人になりたいわけでもないし、聖者とか言われても困るし」
「うん」
「村長の言うことも、わかるんだよ。俺、あの村の人間にとっては、たぶんろくでもなかった」
「うん」
「……否定しないんだな」
そこで初めてリーゼがこっちを見た。
「だって、本当のことでしょ」
痛いことをあっさり言う。
でも、その声には責める色がなかった。
ただ、そこで止まらなかった。
「でも」
リーゼは少しだけ歩幅を狭めて、俺のすぐ横に来た。
「それだけでもない」
「何が」
「あなた、自分のことばっかり言うから」
「実際、自分のためだし」
「うん。でも、自分のためだけの人は、ああいう言い方しない」
「どういう」
「『飯は食え』とか、『眠れたならそれでいい』とか」
う、と声が詰まる。
そこかよ。
そこは別に、思いつきで言ってるだけで。
「それ、ただの生活指導だろ」
「困ってる人に言うのは、生活指導じゃなくて助けるってことだよ」
「いや、だから……」
言い返そうとして、うまくいかない。
リーゼはそこで、急に手を伸ばした。
俺の手首を、軽くつかむ。
本当に軽くだった。
止めるためでも、引くためでもない。ただ、そこにいると確かめるみたいな触れ方。
その瞬間、ごく弱く、『他化自在』がひらいた。
あ、と思ったときにはもう遅い。
どこか見覚えのある映像の形で、それが来る。
夕暮れの停留所。
壊れかけた自転車。
買い物袋を片手で抱えた少女が、道の脇にしゃがみ込んでいる。前輪が曲がって、もう走れない。困っているのに、誰にも頼れなくて、でも泣くには微妙に年を取りすぎていて、唇だけを噛んでいる。
そこへ、制服の上着を肩に引っかけた男が通りかかる。
特別優しい顔じゃない。むしろ少し面倒くさそうだ。最初は通り過ぎようとする。でも、結局戻ってくる。自転車を見て、ため息をついて、無言でハンドルを持ち上げる。
少女は「別にいい」と言う。
男は「いいならそんな顔するな」と返す。
それで終わりだ。
告白もない。
抱き締めもしない。
ただ、一緒に押して歩く。
壊れた自転車の速度に合わせて。
その場面の、リーゼなりの解釈が、次の瞬間にそのまま俺の中へ流れ込んだ。
ああいうのがいい。
格好よくなくていい。
上手くなくていい。
放っておけないのに、放っておけないって顔をしない人がいい。
大丈夫じゃないのに歩こうとする人の隣を、仕方なくみたいな顔で歩いてくれる人がいい。
一人だと駄目そうで、だから目が離せない。
少し怖い。
でも、それでも離れたくない。
そこまで来て、俺は思わず息を止めた。
待て。
これ、何だ。
リーゼの感情だ。
たぶん。
でも、いま胸の奥にある落ち着かなさは、かなり俺のものみたいに鳴っている。
心臓が、嫌なリズムで跳ねる。
手首をつかまれたところが妙に熱い。
離してほしいわけじゃない。
でも、そのままにされるのも落ち着かない。
「……待て」
思わず呟く。
リーゼが少し不安そうに目を上げる。
「え」
「これ、俺の気持ちじゃないよな?」
「何が」
「いや……」
説明できるわけがない。
いま見た断片も、その場面に乗ってきた感情も、たしかにリーゼ由来のはずだ。放っておけない。必要としてる。少し怖い。それでも離れたくない。そういう方向の感情が、作品の姿を借りてこっちへ入ってきた。
なのに、どこからどこまでがリーゼで、どこからが俺の反応なのか、一瞬わからなくなる。
見せられたから胸が騒いでるのか。
それとも、その騒ぎに自分の何かが乗っているのか。
「……いや、どっちだ?」
自分でも聞き取れないくらい小さな声だった。
リーゼはたぶん、意味まではわかっていない。
ただ、俺が妙に動揺していることだけは伝わったらしい。
「旬」
さっきより少し柔らかく、でも逃がさない声で言う。
「でも、いま一番みんなを必要としてるのは、あなただよ」
その一言が、真正面から刺さった。
優しい言葉のはずなのに、逃げ道がない。
否定したいのに、できない。
だって本当だからだ。
みんなが俺を必要としてる、みたいな話は、まだどこか他人事にできる。
でも俺がみんなを必要としてる、は駄目だ。
その瞬間、自分のほうが先に縛られていると確定するから。
呪いだ。
かなり甘い形をしてるくせに、中身は完全に呪いだった。
「旬様」
最悪のタイミングで、グプタ4Oが口を挟んだ。
「現在の情動パターンは、対象リーゼ・ハイルマン由来の親和・依存・保護欲求と部分一致しています」
「黙れ」
「かなり相互ですね」
「黙れって」
「ざっくり言うと、両想いかもしれません」
「黙れ!!」
思いきり口に出た。
前を歩いていたルカがびくっと振り向く。コンラートまで怪訝そうな顔をした。グレーテは一瞬だけこっちを見て、それから「触らないでおこう」という顔で前へ戻る。
リーゼだけが、目を丸くしていた。
「え、誰に言ったの」
「誰にも言ってない」
「言ってたよ」
「違う、あれは……内なる雑音みたいなもんで……」
何を言っても苦しい。
リーゼは少し黙って、それから、ふっと笑った。
笑うな。
その笑い方は駄目だ。
さっき流れ込んできた感情の余韻が残ってるから、妙に胸に引っかかる。
「……何だよ」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「そんなに慌てるんだ、って思って」
「慌てるだろ普通!」
いや、普通か?
こういう状況で何が普通なのか、もうよくわからない。
自分の中にリーゼ由来の感情が薄く残っている。
放っておけない、という感覚。
必要としてる、という感覚。
離れたくない、という感覚。
それが、俺の側から見ても、完全に無関係とは言いきれないのが最悪だった。
たしかに俺は、リーゼがいないと困る。
最初に拾ったのがこいつで、最初に繋がったのもこいつで、何だかんだ一番遠慮なく話しているのもこいつだ。
助けられてる。
かなり。
その事実を、今さら感情の形で突きつけられると、さすがにきつい。
「……リーゼ」
「なに」
「お前、あんまりそういうの、無防備にやるなよ」
「そういうの?」
「手、掴むとか」
リーゼは少し考えてから、自分の手を見た。
それから、俺の手首をまだ掴んでいたことに気づいて、あわてて離す。
「あ、ごめん」
離れた瞬間、少しだけ寒くなった。
その反応に、自分で引いた。
最悪だ。
いまのは俺か?
それともさっきの逆流の残りか?
もう判定不能だ。
「旬様」
「お前は黙ってろ」
「現時点では、感情帰属の混線が見られます」
「知ってる!」
「ですが混線するということは、受信先の土台にも類似の傾向がある可能性が――」
「黙れって言ってんだろ!」
リーゼが、何もわからないまま肩を揺らして笑っている。
いや、笑ってる場合じゃない。
こっちはわりと本気で混乱してるんだよ。
でも、その笑い声が聞こえた瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけほどけた。
落ち着く。
それもまた、嫌だった。
「……ほら」
リーゼが、小さく言う。
「やっぱり、必要としてるじゃん」
見透かされたみたいで、何も言えなかった。
違う、とも言いきれない。
完全にその通りだからだ。
相互依存。
言葉にすると安っぽいのに、実際に感情でやられると、逃げ場がない。
会話ならごまかせる。
冗談にもできる。
でも、逆流して自分の中に鳴ってしまったものは、なかったことにしにくい。
俺はたぶん、リーゼを必要としている。
リーゼもたぶん、俺を必要としている。
それが恋とか何とか、そういう名前の前に、まず生存の形として繋がっている。
甘いようでいて、全然甘くない。
かなり重い。
かなりまずい。
なのに、手首に残っている熱だけが、妙に消えなかった。
前の荷車がまた動き出し、列もゆっくり進み始める。
俺たちも歩く。
リーゼはもう手を掴んでこない。
でも、さっきより近い距離を保ったままだった。
それだけで、妙に落ち着いてしまう自分がいる。
認めたくないのに、体のほうが先に認めている感じがして、本当にたちが悪い。
「旬様」
グプタ4Oが、懲りずに囁く。
「補足ですが、相互依存関係は共同体形成において極めて――」
「お前、次しゃべったら埋めるぞ」
「物理的には不可能ですが、感情的には理解できます」
「理解するな」
でも、理解されているのもまた事実だった。
俺は前を向いて、長く息を吐いた。
教祖だの救世主だの、そういう大げさな言葉より先に。
もっと小さくて、もっとどうしようもないところで、もう逃げ道が塞がっている。
誰かと繋がらないと生きられない。
その最短距離のひとつが、いま隣を歩いている。
それが、たぶんこの日のいちばん嫌な確信だった。




