第15話 廃教会の集会
夕方から降り出した雨は、村を出たときの雨より細かくて、しつこかった。
最初は霧みたいなものだったのに、歩いているうちに服へじわじわ染みてくる。荷車の布も、毛布も、肩も、何もかもが少しずつ重くなる。こういう雨が一番たちが悪い。
「屋根!」
ルカが先に見つけた。
街道を外れたところに、石造りの小さな教会があった。屋根の端は崩れ、鐘楼も半分欠けている。正面の扉は歪んだまま開ききらず、窓の色ガラスも何枚か割れていた。
捨てられた教会だ。
それでも壁は残っている。
雨風をしのぐには十分だった。
「今夜はここ」
グレーテが即断し、みんながぞろぞろ中へ入る。
中は冷えていた。濡れた石の匂い。古い木の長椅子。祭壇だった場所には、布も像もなく、ただ石の台だけが残っている。天井の高い空間に、咳と足音がやけに響いた。
教会だった場所に、教会に追われる連中が転がり込む。
笑えない冗談だな、と思った。
けれど、火を起こし、毛布を広げ、人が壁沿いに座りはじめると、その空間は妙に落ち着いた。屋根があり、順番に休める場所があるだけで、人はかなり静かになる。
問題は、その静けさの向き先が、全部こっちに来ることだった。
また始まる。
そう思った時点で、もう始まっている。
「並んでくれ」
俺は祭壇の前に立ったまま言った。
「全員は無理だ」
それだけだった。
偉そうなつもりもないし、整えるつもりもなかった。ただ、本当に全員は無理だったから言っただけだ。
でも、その一言で、場がすっと変わる。
ざわついていた人間が動きを止める。
前へ出かけていた奴が引き、壁際に座っていた奴が顔を上げる。誰が先か、どこに立つか、何となく決まっていく。
順番がある。
それだけで、人は少し救われるらしい。
意味が発生するからだ。
今すぐじゃなくても、自分にも番が回ってくるかもしれない。見てもらえるかもしれない。その見込みがあるだけで、押し合いにならない。
人は、内容そのものの前に、秩序を欲しがる。
それがわかるのが、ちょっと嫌だった。
「旬様」
頭の中でグプタ4Oが言う。
「簡易儀礼化が進行していますね」
「嫌な言い方するな」
「ですが事実です。列と順番は、意味の骨組みになります」
わかってる。
わかってるから余計に嫌なんだよ。
長椅子の脇に、自然と列ができた。
熱のある子を抱えた母親。
口数の少ない老人。
肩を貸されている男。
その後ろに、怪我人でもないのに並んでいる若い連中もいる。話を聞きたいのか、見たいのか、自分でもよくわかっていない顔をしている。
火のそばでは、オットーがまた紙を広げていた。
見た瞬間、嫌な予感しかしない。
「おい」
俺が声をかける前に、オットーは喉を鳴らして読み始めた。
「『眠れたなら、それでいい』」
やりやがった。
「『飯はちゃんと食え』」
やめろ。
「『無理に立たなくていい。立てる時に立て』」
やめろって。
俺がその場その場で吐いた雑な台詞を、何でそんな神妙な声で読むんだよ。
しかも困ったことに、周りはちゃんと聞いている。
火の近くにいた女が、深くうなずく。
列の後ろの男が、真面目な顔で反芻している。
その隣にいたマルタが、読み終わった言葉をまた別の人間に噛んで含めるみたいに伝えていた。
マルタは五十前後の女で、馬小屋からずっと古株みたいな顔をして居座っている。字の読めない連中に、オットーの文章を平たい言葉で言い直すのが妙に上手かった。
「ほら、つまりね。今夜眠れたなら、それでまずいいんだよってこと」
「立てないなら無理するなってことさ。立てる時が来たらでいいって」
「食べられるなら食べとけってこと」
全部、ただの生活指導だ。
なのに、マルタの口を通ると、少しだけ丸くなって人に入る。
オットーが記し、マルタが広げる。
最悪の連携だった。
意味づけの装置が二つ揃ってしまっている。
「……もう駄目だろこれ」
俺がぼそっと言うと、リーゼが隣で小さく笑った。
「何が」
「何もかも」
「でも、みんな落ち着いてる」
それはそうだ。
列があって、読み上げる声があって、頷く人がいる。
それだけで、この雨宿りはただの避難じゃなくなっていく。
廃教会が、そのまま一夜の集会所になる。
たぶん、こうやって場所って意味を持つんだろう。
最初に来たのは、片腕を布で吊った男だった。
雨で冷えたのか、唇が少し紫になっている。目だけが忙しなく動いていた。
目が合う。
流れたのは、床板の上の場面だった。
濡れた靴下を脱いで、囲炉裏の前で両足を伸ばす。誰かが味噌の焦げた鍋をつつき、別の誰かが「そこは俺の芋だ」と箸で小突く。くだらない取り合いだ。なのに、湯気と笑い声と焼けた味噌の匂いだけで、腹の底がゆるむ。
男の喉が鳴る。
苦しみは来ない。
でも、温かいものの前で安心して口を開きたい、という欲は伝わる。
「……汁、あるか」
男が言う。
グレーテがすぐに「薄いのなら」と返す。
こういう反応の速さが、共同体っぽくて嫌だ。
次は若い女だった。
列に並んでいるあいだ、何度も入口のほうを見ていた。逃げる機会でも測っているのかと思ったが、違った。
流れたのは、坂道だった。
夕方、荷車を押していた娘が、荷崩れしそうになって立ち尽くす。後ろから来た年上の女が、何も言わず一緒に押す。二人で息を合わせる。上り切ったところで、娘が笑って、女が「今のは半分お前の仕事だよ」と肩を小突く。
そこにあるのは救済じゃない。
誰かと息を合わせたい欲だ。
一人で重いものを持つんじゃなく、誰かと同じ拍子で押したい、というやつだ。
女は目を伏せ、それから列の外にいる妹らしい子へ手を振った。
次々に違うものが流れる。
白いシーツを干す指先。
屋台で値切りに勝ってにやつく口元。
川に飛び込む寸前の掛け声。
誰かと肩をぶつけて笑う夜道。
悲しみも恐れも来ない。
でも、その向こうにあったはずの小さな快楽や、身を寄せたい欲求ばかりがこっちへ返ってくる。
だから余計に、境目が曖昧になる。
痛みなら、これは他人のものだと切れる。
欲望は切りにくい。
似た形をしてるからだ。
列の途中で、ふいにフランツと目が合った。
こいつは元から顔が整っている。
いや、整っているのは知っていた。でも、普段はただの無口な若い男だ。荷を運ぶし、薪も割るし、黙ってる時間のほうが長い。
そのはずなのに、目が合った瞬間、胸が妙に鳴った。
ほんの一瞬だ。
けれど、生々しかった。
濡れた前髪が額にかかって、火の反射が目の端に入る。喉が動く。長い指が椅子の背を押さえる。その一つ一つが、必要以上に気になる。
「は?」
自分で自分に引いた。
待て。
何で今こいつがそんなふうに見えるんだ。
男だぞ。
いや、別に男だからどうという話でもないのかもしれないが、少なくともこれは俺の通常運転ではない。
……たぶん。
すぐに否定する。
たぶん誰かと一瞬つながっただけだ。
この列のどこかで、誰かの視線がフランツへ向いていて、そのときめきが薄くこっちをかすめただけだ。
そう考えると、逆に少し落ち着く。
自分の欲じゃない。
借り物だ。
そう思えることが、最近はだんだん支えになっていた。
俺にはもう、自分の欲というもの自体が、ほとんどない。
腹が減るのも、眠くなるのも、誰かのそれを借りてるだけだ。
胸が騒ぐのも同じだ。
何か欲しいと思ったら、それは誰かのものを通してるだけだ、と割り切れる。
空っぽであることが、逆に安全柵みたいになっている。
それはそれでだいぶ終わってる気もするが、ほかにやりようがない。
「旬様」
グプタ4Oが淡々と言う。
「現在の自己認識には若干の境界揺らぎが見られます」
「知ってる」
「かなり多様な感情を通しすぎていますね」
「知ってるって」
「ざっくり言うと、いま少し誰でもあります」
そこで一拍置いて、あいつは続けた。
「そして、あなたは空っぽだ」
その言い方が、妙に怖かった。
並んでいる人間の顔が、急に少し遠く見える。
誰かの食欲、誰かの安堵、誰かのときめき、誰かの隣に寄りたい感じ。それをいくつも通しているうちに、自分の中心が薄くなる。
まるで、空いた器に順番に別の水を注がれているみたいだ。
そのたび色が変わる。
味も変わる。
でも器そのものには、何もない。
「……怖いこと言うな」
小さく返すと、グプタ4Oは珍しくやさしい声になった。
「ですが、旬様にとっては、それが救いでもあるのでしょう」
否定できなかった。
空っぽだから、借り物だとわかる。
借り物だと思えるから、自分のものじゃないと切れる。
もしこれで、自分にも強い欲があったら、もっとぐちゃぐちゃになっていた気がする。
リーゼへのあの逆流も。
さっき一瞬フランツに向いた妙な動揺も。
全部、自分の本心かもしれないと思い始めたら、たぶん立っていられない。
空っぽだからこそ、「これは誰かのだ」と思える。
思えるから、どうにかやり過ごせる。
救いっていうには、だいぶ歪んでる。
でも、たしかに救いだった。
列の最後のほうで、マルタがまた誰かに言っていた。
「順番があるから大丈夫だよ」
「並んでれば、そのうち前に出られるから」
別に深い意味なんてない。
この場の話だ。
今夜の列の話だ。
なのに、それを聞いた老人が、やけに安心した顔をしていた。
順番。
前に出られる。
見てもらえる。
意味なんて、その程度の骨組みで立ってしまう。
廃教会の中には、もうただの避難所以上の空気ができていた。
オットーが読み上げる。
マルタが言い直す。
人は並ぶ。
俺が見て、何かを返す。
それぞれが勝手に意味を受け取る。
ひどく危ういのに、ひどく自然だった。
「……まじで集会だな」
ぼそっと言うと、リーゼが肩をすくめる。
「昨日からそうじゃない?」
「言葉にするな」
「もうみんな思ってるよ」
それが一番嫌だ。
思われるだけならまだしも、たぶん俺自身も、少しそう思い始めている。
この場が、人を落ち着かせる仕組みになっていると。
俺が中心に置かれてしまっていると。
それを自覚するたび、少し吐き気がする。
同時に、誰かの安心が流れ込んできて、少し楽になる。
最悪の循環だった。
夜が更けるころには、長椅子に横になって眠る者が増えた。
泣いていた子は寝息を立て、片腕の男は汁を飲んだあと壁にもたれて目を閉じた。火の近くではオットーが紙をまとめ、マルタが字の読めない女に「明日また読んでやるよ」と言っている。
フランツは入口のところで見張りに立っていた。
さっきの一瞬のざわつきがまだ少し胸に残っていて、嫌になる。
でももう、否定する気もあまりなかった。
たぶん借りたものだ。
借りたものなら、そのうち抜ける。
それでいい。
そう思えること自体が、少し異常なんだろうけど。
「旬様」
グプタ4Oが最後に言った。
「自我の中心が希薄であることを、運用上の安定として受け入れ始めていますね」
「難しく言うな」
「つまり、空っぽなことに慣れてきています」
「……やめろ」
でも、それもたぶん本当だった。
怖い。
かなり怖い。
それでも、空っぽであることが、前より少しだけ救いに見えている。
それが、この夜いちばん嫌な発見だった。




