第6話 奇跡の重力
翌日には、療養所の前に列ができていた。
見間違いではない。
本当に列だ。
俺は窓の隙間から外を見て、しばらく黙った。昨日までせいぜい数人が出入りしていたはずの場所に、今日は荷車が何台も止まり、杖をついた老人や子どもを抱えた母親が順番待ちをしている。その後ろには、病人じゃなさそうな顔まで混じっていた。
「……増えてない?」
「増えていますね」
「患者だけじゃないよな、これ」
「見物人、寄進者、商人、巡礼気分の方々も含まれているようです」
「最後のやつまでいるのかよ」
人の噂ってのは、どこの世界でもやたら早い。
一晩で、こんなに。
いや、一晩だからこそかもしれない。奇跡の話は脚色されるほど速く広がる。
「あの方が涙を流させたらしい」
「熱病の子が眠ったそうだ」
「神の祝福では」
「いや、新しい聖者だ」
窓の外から飛び込んでくる断片的な声に、俺は頭を抱えた。
聖者でも何でもないんだけどな、と思う。
でも、そう思っているのは俺だけかもしれない。
人は「説明のつかない回復」を見た瞬間、すぐ話を大きくする。
その結果どうなるか。
「パンが足りません!」
廊下の向こうから、切実な声が飛んだ。
「水汲みの桶も足りないわ!」
「藁を増やせ、寝かせる場所がない!」
「荷車を通せ、道を空けろ!」
一気に、奇跡が現実になった。
人が来る。
来れば食う。
寝る。
待つ。
漏らす。
運ぶ。
片づける。
つまり、奇跡があっても、生活は誰かが回さなければならない。
その当たり前に、最初に気づいていたのが彼女だった。
「そこ、立ってるだけなら邪魔です」
いきなり言われて、俺は振り返った。
四十前後だろうか。地味な色のスカートに、きっちり布を巻いた髪。痩せてはいるが、弱そうには見えない女だった。目がよく動く。人の顔より先に、物資や動線を見ている感じがする。
彼女は俺を見るより早く、部屋の中を見渡した。
寝台の空き。
桶の数。
窓の位置。
出入りする人間の流れ。
それらを一瞬で数えているみたいだった。
「え、俺?」
「はい、あなたです。奇跡の人でしょう」
「その呼び方やめてほしいんだけど」
「呼び方はどうでもいいです。寝床が足りない。布も足りない。表の荷車は三台、うち一台は車輪が緩んでる。水場まで往復できる人手は今四人。明らかに足りません」
「すごい勢いで状況整理してるな……」
女は少しだけ眉を上げた。
「しないと回らないでしょう」
その通りすぎて何も言えない。
彼女の名はグレーテといった。
夫を病で亡くした寡婦らしい。だから療養所には何度も世話になっていて、物資の運び方も、人手がどこで詰まるかも、嫌というほど知っているのだという。
「泣きはしましたよ」
グレーテは淡々と言った。
「昨日、あんたの力を見たときはね。ああ、よかったって思った。そういう気持ちはちゃんとありました」
「……うん」
「でも、それでパンは増えません」
厳しい。
いや、正しい。
正しすぎてつらい。
「奇跡があっても、パンは誰かが運ばなきゃ回らないんです」
それはたぶん、この世界の真実の一つだった。
俺は何となく、自分のやっていることの延長線上に「みんな救われてよかったね」があるものだと思っていた。
でも現実は違う。
人が救われるほど、人が集まる。
人が集まるほど、寝床と飯と水と糞尿の処理が必要になる。
誰かの涙の陰で、誰かが桶を運んでいる。
その視点が、俺にはなかった。
「で、あなたはどこまで動けるんです」
グレーテが聞く。
「どこまで、って?」
「寝たきりではなさそうです。なら、ただ寝ているだけより、少しは手伝ってもらったほうがいい」
奇跡の中心人物に言う台詞じゃない。
でも、その雑さがありがたかった。
聖者扱いより、よほど呼吸がしやすい。
「何すればいい」
「まず、食べてください。倒れられると面倒です」
「そこから?」
「そこからです」
まったく反論できない。
俺が黙っていると、グプタ4Oが感心したように言う。
「非常に実務的ですね」
「お前もそう思うだろ」
「はい。感動耐性が高いというより、優先順位が明確です」
なるほど。確かにグレーテは、奇跡に酔っていない。
昨日の患者たちみたいに深く没入したわけでもなく、ただ現実の処理能力で立っている。
感動しないのではない。感動のあとに、すぐ次の仕事へ戻れる人間なんだろう。
たぶん、こういう人が共同体を支えている。
その日のうちに、療養所の空気はさらに変わった。
寄進を申し出る者が現れた。
パン屋が「いまなら売れる」と荷を増やした。
荷車を貸し出す農家が出た。
見物だけして帰る者もいれば、物珍しさから覗き込んで邪魔をする者もいる。
巡礼気分の連中まで混ざって、もはや療養所の前は市場に近かった。
「……これ、商売になってない?」
思わず呟くと、グプタ4Oが即答する。
「なっていますね」
「即答かよ」
「奇跡は集客力がありますから」
「集客力って言うなよ」
でも、まさにそれだった。
人が集まるところに金が回る。
金が回るところに人が増える。
その中心に、俺がいる。
善意で人を助けていたつもりなのに、気づけば経済圏の核みたいな位置に置かれつつある。
そんなつもり、まったくなかったのに。
一方で、療養所の中には露骨に面白くなさそうな顔も増えていた。
薬師たちだ。
それから、別のヒーラーたち。
もともとここでは、彼らが病や怪我に対処する側だった。薬草を調合し、祈りを捧げ、処置をして、対価を受け取る。それが仕事であり、立場であり、共同体の中での権威だったはずだ。
そこへ、俺みたいなよくわからない異邦人が現れて、泣かせて、食わせて、眠らせている。
しかも人が群がる。
寄進まで集まる。
面白いわけがない。
廊下の角で、小声が聞こえた。
「見世物だ」
「心を惑わせているだけだろう」
「病は治っていないじゃないか」
「なのに、皆あいつを見る」
聞こえないふりをしたが、全部聞こえていた。
俺は別に、誰かの客を奪おうとか、権威を壊そうとか思っていない。
ただ、目の前の人間に少しでも楽になってほしいだけだ。
でも、構造として見れば、それは完全に既得権益への侵入なんだろう。
善意でやっているかどうかなんて、外から見ればあまり関係ない。
結果として、誰の立場を削るかのほうが問題になる。
「……人助けって、そんなに単純じゃないんだな」
「社会的にはそうですね」
グプタ4Oが言う。
「救済も人助けも、常に歓迎されるわけではありません」
「お前、そういうことだけやけに冷静だな」
「構造の話ですから」
構造。
嫌な言葉だ。
でも当たっている。
療養所の前で、グレーテが人を怒鳴っていた。
「覗くだけなら帰って! ここは市じゃない!」
言いながらも、彼女は寄進の布を受け取り、水場へ走る子どもを振り分け、パンを運んできた商人に置き場を指示している。
奇跡の熱狂を、現実の手でどうにか形にしている。
あの人がいなかったら、たぶんもう崩れていた。
エーベルハルト神父も走り回っていた。
患者を見て、怒鳴られ、薬師となだめ合い、俺のところへ来ては「少し休んでください」と真顔で言う。
休めるわけがない。
人の視線が多すぎる。
目が合うたびに、物語が流れそうになる。
感情酔いはするし、でも接続していないとこっちはこっちで体調が落ちるし、もはやどうすれば適正運用なのか自分でもわからない。
「旬様」
グプタ4Oの声がした。
「状況は悪くありません」
「どこがだよ」
「必要とされています」
それは、そうだ。
それだけは否定できない。
療養所の中でも、外でも、俺を求める声がある。
見てほしい。
話したい。
少しでも楽になりたい。
そういう欲求が、周囲に満ちている。
前の世界では、一番縁遠かったものだ。
必要とされること。
役に立つこと。
誰かの中心に、一瞬でもなること。
それをいま、俺はこんな形で味わっている。
甘い。
かなり甘い。
だから危ない、ということにも、まだこの時点の俺はうまく気づいていなかった。
目の前の患者を一人ずつ楽にして。
療養所が回るように少し手伝って。
神父やグレーテに感謝されて。
それで十分だと思っていた。
でも実際には、その「十分」が、もう周りの秩序を壊し始めていたのだ。
俺はまだ、そのことを知らない。




