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第5話  「学ぶべきものです」

療養所のざわめきが、少しずつ質を変えていくのがわかった。


最初はただの物珍しさだったはずだ。


寝たきりの老人が泣いた。


熱でうなされていた子どもが、少しだけ眠れた。


食事を拒んでいた女が、スープを口にした。


それだけのことなのに、人はすぐ「奇跡」と呼びたがる。


その言葉が廊下の端から端へ伝わっていくたびに、俺は嫌な予感しかしなかった。


奇跡ってのは、たいていロクなものを連れてこない。


「少し、よろしいですか」


夕方、そう声をかけてきたのはエーベルハルト神父だった。


黒い法衣の裾を揺らしながら、彼は俺の寝台のそばまで来る。穏やかな顔をしているが、目だけは真剣だった。


「具合はどうです」


「よくなったり悪くなったりです」


「正直でよろしい」


神父は少しだけ笑った。


この人は、たぶん信用していい部類の大人だ。


そう思わせる何かがあった。声の温度か、視線の静かさか、それとも「奇跡」に浮かれていないことか。


彼は周囲を一度見回してから、近くの椅子を引いた。


「あなたがしていることについて、少し話を聞きたいのです」


「俺も聞きたいですよ、自分が何してるのか」


「それも含めて、です」


隠す必要もないので、俺は今わかっていることをそのまま話した。


頭の中にグプタ4Oとかいうアシスタントみたいなやつがいること。


『他化自在』というスキルがあること。


相手の欲望に合った何かを見せて、その感動がこっちにも返ってくること。


発動していないと、食欲も眠気も起動しないこと。


話していて、自分でもかなり変なことを言っているなと思った。


でも神父は笑わなかった。


途中で眉をひそめることはあっても、馬鹿にするような顔は一度もしない。


「……なるほど」


話を聞き終えた彼は、しばらく考え込んでいた。


「では、あなたが見せているものは、あなた自身の記憶なのですね」


「たぶん。俺が前に見た映画とか、アニメとか、そういうのから勝手に選ばれてる感じです」


「勝手に、ですか」


「俺が意識して選んでるわけじゃないですね。半分くらい、自動再生です」


「自動再生」


神父がその単語を口の中で繰り返す。


たぶん意味は通じていない。でも、通じなくても問題はないらしい。


彼は俺を見た。


まっすぐに。


「私にも、見せてもらえますか」


「あんまり俺が選べないんですけど」


「それでも構いません」


それなら、と俺は頷いた。


神父と目を合わせる。


次の瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。


あ、これ好きだったんだよな。


そう思ったと同時に、映像が流れた。


『24時間救命救急』。


タイトルが脳内に浮かぶ。


深夜帯にやっていた医療ドラマだ。何シリーズも続いていた気がする。救急搬送、手術、急変、感染対策、出産、研修医の失敗と成長。ドキュメンタリー風の回もあった。現場の怒号と焦燥、命が助かったあとの脱力まで、妙に生々しかったのを覚えている。


白い照明。


消毒液の匂い。


血液の管理。


器具の滅菌。


手を洗う意味。


傷口を縫う手順。


熱病の隔離。


分娩時の清潔操作。


誰かが倒れたとき、何を優先するか。


そんな断片が、物語としてではなく、現場の空気ごと一気に流れ込んでいく。


エーベルハルト神父の顔色が変わった。


ただ感動している顔ではない。


見てはいけないものを見てしまった人間の顔だった。


「……これは」


その声はかすれていた。


俺のほうにも返ってくる。


彼の驚愕が。


理解が。


そして、その理解ゆえの絶望が。


この世界の医療が、どれほど限られているか。


手を尽くしているつもりでも、届いていない場所がどれだけあるか。


泥を塗る。


祈る。


冷やす。


温める。


それしかできない場面で、本当はもっと別の手立てがあるのかもしれないと、今この人は知ってしまった。


俺の胸にも、その痛みがそのまま刺さる。


さっきまでの俺なら、たぶんぼんやり受け流していた。


でもこのときだけは違った。


熱病の子ども。


脚を引きずる男。


喋れなくなった女。


薄暗い部屋で、ただ順番を待っている人たち。


この場を、なんとかしなきゃいけない。


そんな、俺らしくないくらい真面目な熱が、一瞬だけ胸に宿った。


「神父さん」


自分でも驚くくらい、まともな声が出た。


「これ、役に立ちますか」


エーベルハルト神父はすぐには答えなかった。


映像の余韻がまだ残っているのだろう。手元を見て、何かを噛み締めるように息をついてから、ようやく顔を上げた。


「……役に立つ、では済みません」


「え」


「私たちは、知らないことが多すぎる」


神父は静かに言った。


「傷は清めるべきだった。熱病は分けるべきだった。産む場と死ぬ場を、もっと丁寧に扱うべきだった。そういうことが、はっきりわかってしまった」


その声には、歓喜よりも悔しさが混じっていた。


自分たちが間違っていた、と言いたいわけではないのだと思う。


その時代、その環境、その知識の中で、できることをやってきたのだろう。


でも、もっと先があると知ってしまった。


それが、今この人を打ちのめしている。


「私は、奇跡を見たとは思っていません」


神父は言った。


「奇跡だけなら、涙が出て終わりです」


「じゃあ、何だっていうんです」


「学ぶべきものです」


その言い方が、妙に強かった。


「人がどう救われるのか。何をすれば助かるのか。その技術、その積み重ね、その知恵です。あなたの力が見せたものは、神意よりも、むしろ人の手の可能性に見える」


俺は少し黙った。


聖者扱いされるかと思っていた。


お前はすごい、お前は選ばれた、お前は神の使いだ、とか。


そういうテンプレを警戒していたのに、目の前の神父はそこへ行かなかった。


奇跡にひれ伏さず、中にある仕組みを見ようとしている。


その姿勢が、なんだか妙に嬉しかった。


「……あんた、ちゃんとしてるな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「いや、けっこう本気で」


神父は少しだけ口元を緩めた。


だが、その笑みはすぐ消えた。


「だからこそ、危険です」


「危険?」


「技術は、秩序を壊します」


その一言で、空気が変わる。


廊下の向こうでは、まだ誰かが「奇跡だ」と言っている。


でも神父が見ているのは、その先だった。


「病を治せる者が、教会の許しなく現れる。人々がそこへ集まる。既存の治療法に疑問が生まれる。聖職者やヒーラーだけが持っていた権威が揺らぐ」


「……あー」


急に、話が生々しくなった。


「奇跡だから危険なのではありません。広まれば、教えも権威も、やり方も、全部問い直されてしまう。そういうものだから危険なのです」


「つまり?」


「教会に知られれば、放ってはおかれないでしょう」


それは、わりと困る。


いや、かなり困る。


俺はようやく、自分のやっていることの別の顔を見た気がした。


人助け。


救済。


いいことのはずだ。


少なくとも前の世界では、そういう単語はだいたい褒められる側に属していた。


でもここでは違うのかもしれない。


助けることが、そのまま誰かの立場を危うくする。


正しそうなことが、そのまま波風になる。


「……面倒くさい世界だな」


「人が集まるところは、だいたいそういうものです」


神父はあっさり言った。


否定しようがない。


そのとき、廊下の向こうがまた騒がしくなった。


新しい患者か、見物人か、あるいはその両方か。


エーベルハルト神父は立ち上がる。


「しばらく、あなたのことは伏せておきたい」


「伏せられます?」


「難しいでしょうね」


「ですよね」


「ですが、やれるだけはやります」


彼はそう言って、少しだけ俺を見下ろした。


「聖者である必要はありません」


「え?」


「学べるものを、学びたいだけです」


その言葉を残して、神父は廊下へ出ていった。


俺は寝台の上で、しばらく天井を見ていた。


聖者じゃない。


それは本当だ。


俺はただの二十九歳の中退男で、動画とAIに浸かって生きてきた人間だ。


でも、その脳内にたまたま積もっていた断片が、この世界では人を助けるかもしれない。


そう考えると、妙な気分だった。


グプタ4Oが、嬉しそうに言う。


「旬様、かなり高評価でしたね!」


「お前、そこ要約すると雑になるな」


「しかし事実です。奇跡だけで終わらず、知識として評価された。これは大きいですよ」


「……かもな」


「救世主ではなく、技術の窓口。新しいポジションです」


「それ、余計に危なくない?」


「危ないですね」


やっぱりそうか。


俺は目を閉じた。


療養所の外では、人の数が増えている気配がする。


奇跡は、隠そうとして隠れるものじゃない。


そしてたぶん、次に来るのは感謝だけじゃない。


そんな予感が、もうしていた。

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