第4話 療養所の奇跡
療養所は、思っていたよりずっと小さかった。
もっとこう、白い壁に清潔なベッドが並んでいて、医者がいて、薬瓶があって、みたいなものを想像していたのだが、現実はだいぶ違う。石造りの古い建物に、湿った空気と薬草の匂いがこびりついている。窓は小さい。廊下は暗い。布で仕切っただけの部屋がいくつも続いていて、どこからともなく咳と呻き声が聞こえてくる。
病院ってのは、どこの世界でも陰気くさいものらしい。
担架で運ばれながら、俺はぼんやりそんなことを思った。
「こちらです、急いで」
落ち着いた声がした。
迎えに出てきたのは、黒い法衣を着た五十代くらいの男だった。痩せ型で、目元には疲れが滲んでいるが、表情は穏やかだ。神父、という言葉がしっくりくる顔をしていた。
「私はエーベルハルトです。ここで治療を預かっています」
「どうも……」
「話はあとです。まずは休ませましょう」
そのまま俺は奥の部屋に運ばれた。
寝台に下ろされ、薄い布を掛けられる。天井は低い。壁際には木箱やら布やら、見たことのない器具やらが雑然と積まれていて、近代医療からはだいぶ遠い。
遠いどころか、かなり遠い。
隣の仕切りの向こうから、子どもの荒い呼吸が聞こえた。さらに別のほうからは、老人の咳。廊下の先では、誰かが痛みに耐えるような低い声を漏らしている。
熱病の子ども。
長く床に伏した老人。
怪我で働けなくなった男。
喪失で口を閉ざしたままの女。
見なくてもわかる。こういう場所には、いろんな「もう無理かもしれない」が集まってくる。
いつ、どこへ行っても、病院は陰気くさい。
そしてたぶん、その陰気さの大半は、建物じゃなくて、人間が抱えた諦めの匂いだ。
「旬様」
頭の中で、グプタ4Oがやけに明るく話しかけてくる。
「かなり多数の接続候補がいますね」
「候補って言い方やめろ」
「ですが事実です。視線、音声、気配。接触機会が豊富です」
病人をWi-Fiスポットみたいに言うな。
そう思った直後、部屋の入口から小さな顔がのぞいた。
熱っぽい顔をした男の子だった。年は十にも満たないだろう。母親らしい女がその肩を支えている。心配そうにこちらを見ていたが、男の子のほうは純粋な好奇心で俺を見ていた。
目が合った。
それだけで、流れ込んできた。
夜の雪原を、少年が一人で歩いている。
小さな体で、何度も転びながら。それでも前へ進む。離れ離れになった家族を探して。凍えながら、泣きながら、それでも信じて歩き続ける物語。
俺は思わず息を呑んだ。
何だ今の。
児童向けの冒険譚だ。タイトルは思い出せない。たぶん昔、テレビで流し見した映画か何かだ。でも、そのときの「寒さの向こうに帰る場所がある」という感覚だけは、妙に鮮明だった。
男の子の目がみるみる潤む。
隣の母親が驚いて、その顔をのぞき込む。
「どうしたの、マルク?」
男の子は何かを言おうとして、うまく言えず、代わりにぽろぽろ泣き始めた。
その涙と一緒に、今度は別のものが俺に返ってきた。
安心。
帰りたいという願い。
大丈夫かもしれない、という小さな希望。
胸の奥がじんわり温かくなる。
熱病そのものの苦しさは来ない。
痛みも、息苦しさも、こっちには流れ込まない。
来るのは、その向こうにある「救われた」という感情だけだった。
「……え」
思わず声が漏れた。
いま、助けたのか?
何をしたのか自分でもよくわからないまま、次は廊下の向こうの寝台から、老人がこちらを見ていた。
皺だらけの女だった。白く濁った目に、長く何かを見送り続けてきた人間の色がある。
また、目が合う。
今度は、静かな物語だった。
花の散る庭。
もういない夫の背中。
季節が何度巡っても、同じ家で、同じ記憶を抱えて生きる女の話。
失ったものは戻らない。けれど、消えないからこそ、一緒に生きていける。そういう種類の、派手さのない話だ。
老女の頬に、一筋だけ涙が落ちた。
その瞬間、俺の中にも追憶の余韻が残った。
懐かしいわけでもないのに、懐かしい。
誰の記憶でもないのに、喪失の重みだけが胸の底に沈む。
気づくと、俺まで少し泣いていた。
「何だこれ……」
「深層欲求への適合率が高いようですね」
グプタ4Oが解説する。
「対象は単に楽しいものを求めているわけではありません。整理されていない感情に、物語の形を与えられているのです」
「さらっと言うけど、わりとすごいことやってないか、俺」
「はい。かなりすごいです」
珍しく即答だった。
さらにそのあと、今度は腕に包帯を巻いた男が、壁にもたれてこっちを見ていた。
年は三十前後か。筋肉質だが、片脚を引きずっている。兵士崩れ、という言葉が似合う顔つきだった。
視線が合う。
すぐに流れた。
土煙。
折れた旗。
敗北のあと、もう一度立ち上がる男の熱血譚。
何度叩きのめされても、剣を取る理由を捨てない。仲間を失って、誇りも折れて、それでも最後には立ち上がる。暑苦しいくらいまっすぐな話だった。
元兵士の男が、ぎゅっと拳を握る。
その熱が、そのまま俺にも流れ込んできた。
悔しさ。
立ちたいという意志。
もう一度、自分を取り戻したいという衝動。
俺の指先にも力が入った。
寝台の上で、思わず拳を握り締める。
「うわ」
「いかがですか」
「暑苦しい」
「しかし有効そうです」
「それはそう」
感情の種類が、見る相手によって全然違う。
しかも厄介なことに、全部ちゃんと効く。
老女の涙は俺の胸を静かに湿らせた。
元兵士の再起は、こっちの背筋まで伸ばした。
その次に、廊下の角からこっそり様子をうかがっていた若い娘と目が合ったときには、もっと困った。
流れたのは、誰かに初めて選ばれる物語だった。
何でもない娘が、誰かに見つけられて、名前を呼ばれて、世界の真ん中に引き上げられるような、少女向けのときめきの話。
見覚えがある。というか、明らかに俺の守備範囲ではない。妹がいたら部屋の本棚に刺さってそうなやつだ。なんで俺の中にこんなライブラリがあるんだ。いつ読んだ。
娘はぽっと頬を赤らめて、口元を押さえた。
こっちにも返ってくる。
胸がきゅっとする。
いや、待て。
何でだ。
「待て待て待て」
俺は思わず頭を抱えた。
「俺は二十九歳の多浪中退男だぞ。なんで今こんな“ときめき”を感じてるんだ……」
「感情と属性は必ずしも一致しませんからね」
「そういう問題か?」
「対象の深層欲求を追体験しているのです。極めて健全な反応です」
「俺の健全が今すごい勢いで崩れてるんだけど」
娘のほうは恥ずかしそうに逃げていった。
俺だけが寝台の上でひどく混乱していた。
さっきまで老境の追憶に泣いていたと思ったら、次の瞬間には負け犬の再起に拳を握り、その直後には少女向けのときめきで胸が締めつけられている。
感情のジェットコースターにもほどがある。
なのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――気持ちがいい。
誰かが救われた瞬間の感動が、そのまま流れ込んでくる。
ありがとう。
よかった。
もう一度食べたい。
少し眠れそう。
明日も生きたい。
そういう、まっすぐな感情だけが、ひとり分ごとに俺の中へ溜まっていく。
痛みや苦しみは来ない。
そこに至るまでの絶望は見えない。
ただ、物語を受け取ったあとに残る、きれいな部分だけが来る。
それが何人分も重なると、どうなるか。
正直、かなりまずい。
「旬様、顔色がよくなっていますね!」
グプタ4Oが弾んだ声を出す。
「よくなってるっていうか、上がってるだけじゃないかこれ」
「彼らにとってはもう、救世主みたいなものですよ!」
「救世主」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
救世主。
そんな大げさな、と思う。
でも、目の前で泣いていた子どもが少し笑って、寝台の老人の目に生気が戻って、さっきまでうずくまっていた男の拳に力が入るのを見ると、否定しきれなかった。
病そのものが消えたわけじゃない。
熱は下がっていないかもしれない。
怪我が治ったわけでもない。
けれど、泣けるようになった。
食べたいと思えるようになった。
眠れるかもしれないと思えた。
それって、この世界では十分すぎるくらい大きいことなんじゃないか。
もしかして俺、すごいものを与えられたんじゃないか。
人を助けられる力なんじゃないか、これ。
そう思った瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
自分が必要とされる感覚。
誰かの役に立っている実感。
前の世界では、ずっと遠かったものだ。
それが今、こんな形で手の中にある。
「……悪くないな」
思わず呟いたときだった。
ぐらりと、視界が揺れた。
吐き気がこみ上げる。
喉の奥がひっくり返るみたいな感覚と、頭の芯がじんじんする痛みが一気に押し寄せてきた。
「うっ」
俺は寝台の端にしがみついた。
足元がふわふわする。
気持ち悪い。
なのに、妙に高揚している。
泣きたいような、笑いたいような、走り出したいような、丸くなって寝たいような、いろんな感情がいっぺんに押し寄せてきて、どれが自分のものなのか一瞬わからなくなる。
老女の追憶がまだ胸に残っている。
元兵士の熱が腕に残っている。
さっきの少女向けのときめきが、意味もなく心拍を速くしている。
輪郭が、ぼやける。
「ちょ、待て……俺、いま誰だ?」
「かなり興味深いですね」
グプタ4Oの声は、相変わらず落ち着いていた。
いや、興味深がってる場合じゃないだろ。
「旬様は現在、複数人分の強い情動を連続受信しています」
「知ってる! 知ってるけど、もうちょっと危機感持て!」
「ざっくり言うと、感情酔いです」
「ざっくり言うな!」
「少し自我が混ざっている可能性もあります」
「少しで済むかこれ!」
吐きそうなのに、気分はどこか浮いている。
最悪だ。
酒も飲んでないのに、感情だけで酔ってる。
しかも、他人の人生の断片が自分の中に引っかかって、完全には剥がれ落ちない。老女の涙の余韻で泣きたくなったかと思えば、次には兵士みたいに立ち上がりたくなって、その次には名前も知らない誰かに選ばれたいみたいな乙女じみた感情まで混ざる。
情報量が多すぎる。
「これ、使いすぎたらまずいんじゃないか……?」
「まずい可能性はありますね」
「そこは普通に認めるのかよ」
「ですが同時に、旬様の生存には有益です。欲求駆動の補填、精神活性、身体機能の維持。かなり効率的です」
効率のために自我を削るな。
そう言い返す元気もなくなって、俺はしばらく目を閉じた。
外では、誰かが「奇跡だ」と小声で言っていた。
それに続いて、「泣いたぞ」「あの子が笑った」「さっきまで何も食べなかったのに」と、ざわめきが少しずつ広がっていく。
嫌な予感がした。
奇跡、という言葉は、だいたい面倒を連れてくる。
でも、そのざわめきの中には、明らかに希望も混じっていた。
暗い療養所の空気に、ほんの少しだけ、別の色が差し込んでいる。
それは確かだった。
俺は薄く目を開けて、湿った天井を見上げた。
病気は消えていない。
怪我も治っていない。
世界は相変わらずしんどそうだ。
それでも、ここにいる人間は、さっきまでより少しだけ前を向いている。
もしそれが俺の力だというなら。
もしそれが、本当に人を立たせる力だというなら。
――そんなに悪い役じゃないかもしれない。
そう思った直後、また吐き気が込み上げてきた。
「やっぱ悪いかも……」
「旬様、評価がぶれていますね」
「うるさい……」
俺が呻いているあいだにも、療養所の外には人が集まり始めていた。




