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第3話 生きるには誰かが必要だ

リーゼの家に運び込まれてから、二日ほど世話になった。


二日、といっても正確な時間はよくわからない。この世界に時計があるのかも知らないし、俺の体は腹も減らなければ眠くもならないから、時間の感覚がひどく曖昧だった。


ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。


俺は、どう考えてもおかしかった。


「食べないの?」


向かいの席で、リーゼが遠慮がちに聞いてくる。


木の皿の上には黒パンと、豆と芋を煮たらしい薄いスープ。香りはしている、はずだ。たぶん。湯気も立っている。見れば食べ物だとわかる。


なのに、そこに「うまそう」がまるで発生しない。


腹が減っていないからだ。


それどころか、口に運ぶ理由すら薄い。食べなければならない、という知識だけがあって、欲求がついてこない。ゲームの説明文だけ読んで、実際のプレイ画面が表示されていないみたいな感覚だった。


俺はとりあえずパンをちぎって口に入れた。


もそもそしている。


……いや、たぶん、もそもそしているんだと思う。


味が薄い。というか、ほとんど感じない。


「やっぱり、どこか悪いんじゃ……」


リーゼが不安そうに眉を寄せる。


その表情を見て、俺は慌てて取り繕った。


「いや、食えないわけじゃない。たぶん、ちょっと疲れてるだけで」


「でも昨日も、その前も、ほとんど食べてない」


図星だった。


昨日も、確か似たような状態だった。食卓にはついても、何を口に入れても現実感がない。食うという行為が、ひどく遠い。


いまの俺は、たぶん生き物としての操作方法を失っている。


そう思ったときだった。


リーゼが小さく息をついて、少しだけ笑う。


「……無理しなくていいから。変な人だけど、悪い人じゃなさそうだし」


その言葉に、ほんのわずかに胸の内側が揺れた。


たぶん、『他化自在』がかすかにつながったんだと思う。


途端に、世界の解像度が変わった。


腹が鳴りそうになる。


スープの湯気が急に生々しくなって、焼いたパンの香ばしさが鼻に届く。いや、鼻に届いたというより、リーゼがそう感じた感覚がそのままこっちにも流れ込んできたのかもしれない。


とにかく、さっきまで死んでいた食欲が、いきなり起動した。


「……あ」


思わず声が漏れた。


「どうしたの?」


「いや、なんか、急に……」


俺はスープをすすった。


熱い。


塩気がある。


豆の甘みがちゃんとある。


さっきまでただの液体だったものが、急に「食べ物」になった。


うまい。


びっくりするくらいうまい。


「え、なにこれ」


「なにこれって、豆のスープだけど」


「いやそうじゃなくて、普通にうまいんだけど」


「……さっきまで、味しないみたいな顔してたのに」


してた。実際、ほぼ感じてなかった。


でもいまは違う。


俺がうまいんじゃない。


リーゼがうまいと感じる、その回路がこっちにも流れ込んできている。


「あー……これ、そういうことか」


「そういうこと?」


「いや、こっちの話」


グプタ4Oが、待ってましたとばかりに口を挟んだ。


「非常に興味深いですね。接続時にのみ、生理的駆動が回復しています」


「生理的駆動って言うな。もっとこう、わかりやすく」


「食欲や眠気といった基礎欲求です」


「それが、つながったときだけ戻る?」


「現時点では、その可能性が高いです」


俺はパンをかじりながら、嫌な汗をかいた。


うまい。


うますぎる。


それが逆に怖い。


だって、さっきまで俺はこれを食べ物として認識できていなかったのだ。リーゼとのあいだに軽く『他化自在』が通った瞬間だけ、急にこの世界に色が戻ったみたいに、味も温度も匂いも立ち上がった。


つまり。


「俺、一人じゃ食えないのか?」


「現時点の分析では、生理欲求は消失しています」


グプタ4Oの声は、相変わらず明るかった。


やたら丁寧で、聞き取りやすくて、それでいて内容は容赦がない。


「つまり、少し言いにくいのですが……」


嫌な前振りだな、と俺は思った。


こういうときろくなことを言わないんだ、この手のアシスタントは。


「ひとりだと、たぶん死にます」


「雑!!」


思わず声が出た。


リーゼがびくっと肩を揺らす。


「あ、ごめん。いや、なんでもない」


「ほんとに大丈夫?」


「大丈夫じゃないかもしれない」


わりと本気で。


グプタ4Oは気にせず続けた。


「他者の感情や欲求を取り入れ続けましょう。食事、睡眠、安心感、意欲。いずれも外部接続によって代替的に起動していると考えられます」


「言ってること、めちゃくちゃ怖いからな」


「しかし合理的です」


合理的でも嫌だよ。


俺はパンをもう一口かじった。


さっきより少し味が薄れている。接続が弱くなってきたのかもしれない。リーゼが食事に集中しなくなると、こっちの食欲も少しずつ引いていく。


なんだこれ。


俺は赤ん坊か。


いや、赤ん坊だってもっと自力で腹を空かせるだろ。


前世では誰ともつながれなかった男が、転生したら、誰かとつながっていないと食うことも寝ることもできない存在になっていた。


笑えない。


でも、あまりに出来すぎていて、ちょっと笑えてくる。


「異世界転生って、もっとこう、剣とか魔法とか、そういうのじゃないのかよ……」


「精神接続系スキルも、十分に当たりの部類では?」


「当たりの方向が怖いんだよ」


夜になって、俺は寝台に横になった。


眠気は来ない。


目を閉じても、眠る理由がない。疲れてはいる。体の芯はじわじわと削れている。でも、「眠い」が起動しないから、どうやって眠ればいいのかわからない。


隣室から物音がする。


リーゼの家族が小声で話している気配。俺のことだろう。見知らぬ男を拾ってきたのだ。不安にもなる。


やがて、リーゼが様子を見に来た。


「まだ起きてたの?」


「そっちは?」


「明日も朝早いから、もう寝るよ」


そう言って、彼女は寝台のそばに置いた水差しを気にしてくれる。


その、ささいな気遣いだけで、また胸の内側が少し温かくなった。


すると今度は、眠気が来た。


がくん、と。


頭が急に重くなる。


まぶたが落ちる。


「……え?」


「どうしたの?」


「いや、急に眠い」


「それ、いいことじゃないの?」


「たぶん、よくない意味でいいこと」


眠い。


これも俺の眠気じゃない。


リーゼが、もう休みたいと思っている。その感覚が、そのままこっちに流れ込んでいる。


つまり俺は、自分では飯も食えず、眠れもしない。


他人の食欲と眠気を借りて、ようやく人間の真似事ができているだけだ。


これはかなり駄目では?


翌朝、俺はさらにやつれていたらしい。


自覚は薄いが、リーゼが明らかに顔色を変えた。


「やっぱり病気だよ、これ」


「病気っていうか、仕様な気もするけど」


「仕様ってなに」


「なんでもない」


俺が軽口を叩く元気も、もうだいぶ怪しかった。


誰かと話していれば少しましになる。つながりがあれば、体の輪郭も保てる気がする。逆に、一人の時間が長くなると、また内側から空洞化していく。


リーゼは決心したように立ち上がった。


「療養所に連れていく」


「療養所?」


「町の外れにあるの。神父様がいて、病気の人とか怪我人を診てくれる」


「そんな本格的な」


「本格的じゃなくても、いまよりまし」


それはそうだ。


俺が反論できずにいると、リーゼは胸に手を当てて、少し集中するように目を閉じた。


次の瞬間、彼女はただ、少しよく通る声で言った。


「スキル『スピーカー』。ハイルマン家より療養所へ。急患です、意識あり、歩行困難。荷車を貸してください」


「……いや、待て」


俺は思わず止めた。


「今、喋っただけだぞ?」


リーゼはきょとんとした顔でこっちを見る。


「うん。だからスピーカーだけど」


「いや、意味がわからん。どこに向かって喋ったんだよ。相手いないじゃん」


「大丈夫。半径十キロの魔力共鳴器が拾ってくれるの。療養所にも届いてるはず」


「拾う?」


ますますわからない。


なんだその、町内放送と無線とスマートスピーカーを雑に混ぜたみたいな仕組みは。


俺が黙っていると、グプタ4Oが割って入った。


「ありふれていますが、社会インフラとしてはかなり有用なスキルですね。受信機能はなく、周囲の魔力共鳴器を一斉に作動させて音声を送ります」


「さらっと言うけど、かなりおかしいからな、それ」


「旬様の世界でいう拡声通信網に近いかと」


「近いけど違うだろ……」


リーゼは少し不安そうに眉を下げた。


「ほんとに具合悪いんだね。スピーカー知らないなんて」


「いや、そこは俺が悪いわけじゃない気がする」


「でも届くから、安心して」


安心の根拠が異世界すぎる。


そう思っているうちに、家の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「……届くの、早っ」


「近くに共鳴器あるから」


「共鳴器ってそんな雑に置いてあるもんなの?」


「村なら、だいたいどこにでもあるよ」


「インフラだ……」

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