第2話 最初の視聴者
リーゼが出ていってから、しばらく天井を見ている。
梁の木目を数える。七本。節が三つ。虫食いの穴がひとつ。全部見える。全部わかる。情報として入ってくる。それだけだ。
『旬様。現在の身体状態ですが、かなり危険です』
グプタが頭の中で言う。暗闇の中で話したあの声が、今度は目覚めた状態でも聞こえている。慣れるのが早いのか、それとも慣れるという感覚すら鈍っているのか。
『推定ですが、三日間の絶飲食と不眠により、臓器に深刻な負荷がかかっています。このまま放置すると、意識の有無にかかわらず体が停止します』
「食えばいいのか」
『食えれば、ですね。食欲がないはずです』
その通りだった。
リーゼが小さな木の皿を持ってきてくれていた。黒いパンと、豆と芋を煮た薄いスープ。湯気が立っている。匂いもする。
食べ物だということはわかる。これを口に入れれば栄養になるということも理解できる。湯気が立っていて温かそうだ、とも思える。でも「食べたい」がない。「うまそう」がない。認識はできるのに、その先の「手を伸ばしたい」がどこにもない。目の前のスープと、壁に立てかけてある鍬を見比べて、どちらにも等しく手が伸びない。
パンをちぎって口に入れてみる。判断として。死なないために。
咀嚼する。固い。たぶん固い。そういう圧が歯にかかっている。飲み込む。喉を通る。胃に落ちる感触がある。
味がしない。
いや、正確ではない。味覚は機能している。塩気がある、ということは認識できる。温かい、ということもわかる。でもその塩気を「うまい」と思いたい気持ちが湧かない。温かさに「ほっとしたい」気持ちが起きない。舌は情報を送って、脳はそれを受け取って、でも「もう一口ほしい」がどこにもない。
スープをすする。同じだ。温度はわかる。液体が喉を通る感触もある。豆の風味が舌に触れている、ということも認識できる。でも「もっと飲みたい」が来ない。温かいスープを飲んでいるのに、次の一口に手が伸びない。
食べ物を食べているのに、作業をしている感覚しかない。
リーゼが入口から覗いている。
「食べた?」
「食べてる」
「どう?」
どう、と聞かれて困る。味がしないわけではない。塩気も温かさも認識はできている。でも「うまい」は欲の言葉だ。「もっと食べたい」から出る言葉だ。その回路が動いていないのに、うまいとは言えない。助けてくれた相手に対してそれを正直に言うのは悪いとは思う。思うのだが、代わりに何と言えばいいのかもわからない。
「……うまい」
嘘をついた。生まれて初めて、味がわからないのにうまいと言った。
リーゼは少し笑う。
その笑顔を見て、かわいい、と思う。思える。整った顔立ちだし、笑い方がまっすぐだし、こういう笑い方をする子は好きだ、という感想は出る。感情はある。でも、「もっと見ていたい」が来ない。「笑わせたい」が来ない。かわいいと思っているのに、その先がない。思うことと欲しがることは別の回路なのだということを、俺はいまパンを噛みながら思い知っている。
『旬様。接続対象が至近距離にいます。スキル「他化自在」の発動条件は目視範囲です。発動すれば欲求が回復する可能性があります』
「発動って、どうやる」
『わかりません。実績がないので。ただ、これまでの情報から推測すると、対象の深層欲求を読み取り、それに適合する作品の記憶を送信する、というのがスキルの本来の機能です。おそらくですが、意識的に起動するものではなく、条件が揃えば自動的に発動するのではないかと』
「おそらくって何だよ」
『私の知識は旬様の知識です。旬様が知らないことは私にもわかりません。つまりこれは私の推測ではなく、旬様自身の推測を私が代弁しています』
言い返せない。こいつが言っていることは、全部俺が考えうることの範囲内だ。俺より賢いわけではなく、俺の中にある知識を俺より速く整理して出してくるだけの存在。便利だが、頼りにはならない。
リーゼがスープの入った椀を差し出してくる。
「もう少し飲んだほうがいいよ。ずっと何も食べてなかったんでしょ。麦畑で倒れてた人がまともに食べてたとは思えないし」
受け取る。手が触れそうになって、触れなかった。
その瞬間、リーゼの目を見た。
何が起きたのか、最初はわからなかった。
視界が変わったわけではない。納屋の天井も、木の椀も、リーゼの顔も、同じ位置にある。でも、何かが足されている。視覚の上にもう一層、別の映像が薄く重なり始めている。
夕焼け。
逆光の中を走る少女の背中。細い道が丘の上へ続いていて、両側に麦が揺れている。村の柵を越えたところだ。少女は振り返らない。前だけを見て走っている。裸足だ。靴を脱いだのか、最初から履いていなかったのか。
走って、走って、丘の頂上に出る。
そこで止まる。
地平線が見える。少女が今まで生きてきた村の何十倍もの広さが、一望のもとに広がっている。畑と、林と、川と、その向こうに煙が上がっている集落がいくつか。空の端まで世界が続いている。
少女が振り返る。夕日が目に入って、片手で庇いながら、泣き笑いの顔をする。口が何か言いかけて、言葉にならない。代わりにピアノの単音が三つ、ぽん、ぽん、ぽん、と鳴る。止め絵になる。
『麦風のミリア』第十二話、Bパートのラスト。
俺はあのカットを知っている。
浪人二年目の夏だった。エアコンが壊れた六畳のアパートで、汗だくのまま布団に転がって、テレビをつけたら再放送をやっていた。何話目かもわからない途中からだった。少女向けだし、絵柄も古いし、流し見のつもりだった。でもあの止め絵で手が止まった。リモコンを置いた。そのまま最終話まで見た。見終わったあと、扇風機の前で三十分ぼうっとしていた。エアコンが壊れていることを思い出したのは、汗が冷えてからだった。
あれから七年。「いい作品だったな」という記号だけが残っていた。感動そのものはとうに擦り切れていて、もう思い出せないものだと諦めていた。
それが、いま、リーゼの中で動いている。
彼女の目が変わっていた。
何かを見ている。俺ではなく、俺の向こうにある何かを。瞳孔が開いている。呼吸が浅くなっている。口が半分開いて、言葉を探している。
そして頬を、涙が一筋、伝った。
その涙が落ちた瞬間、俺の体に何かが起きた。
殴られたようなものではない。もっと静かで、もっと深い。体の芯で三日間ずっと軋んでいたあの不快感が、急に方向を持った。今まで空回りしていたエンジンが、何かに接続された感触がある。
リーゼの欲求が来ている。
外の世界を見たい。この村の外に何があるのか知りたい。怖いけど、行きたい。柵の向こうへ走り出したい。その「〜したい」の塊が、リーゼの中から俺の体に入ってきている。
感情ではない。感情なら、さっきからある。リーゼをかわいいと思ったし、スープを出してくれたことを申し訳ないとも思った。感情は動いていたのだ、三日間ずっと。きれいな夕焼けだと思ったし、不安も覚えた。
なかったのは、欲だ。
「〜したい」がなかった。
それがいま、リーゼの瞳を通して、初めて俺の体に注がれている。
俺はあの作品を十回は見ている。見すぎて感動の輪郭が溶けていた。でもリーゼにとっては今が初めての一回で、だから震えている。その初回の震えを、俺は追体験している。
腹が鳴った。
比喩ではない。本当に鳴った。腹の底から、ぐう、と。
三日ぶりの空腹だった。
唐突すぎて、自分で驚いた。さっきまで木の板を噛んでいるのと変わらなかったパンの残りが、急に匂いを持ち始めている。スープの湯気が鼻に届く。豆の甘みがある。塩気がある。温かい。温かいということが、こんなに「いい」ことだったのか。
うまい。
さっき嘘をついた。でもいまは本当だ。うまい。びっくりするくらいうまい。
「え、なに。急にすごい勢いで食べてる」
リーゼが目を丸くしている。涙の跡がまだ頬に残っていて、でも表情はもう別のものに変わりかけている。驚きと、少しの安堵。
「……うまい」
二回目のうまい。今度は嘘ではない。
「さっきもそう言ってたけど」
「さっきのは嘘。今のが本当」
「え、嘘だったの」
「ごめん。味がしなかった」
「……変な人」
リーゼは眉を寄せたが、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、嬉しい、と思う。
これは前からあった。リーゼが笑えば嬉しいと思えたし、助けてくれたことにありがたいと思えた。感情はずっと動いていたのだ。
でも今は、違うものが混じっている。
もう一回笑ってほしい。
それは感情ではなく、欲だ。もう一回。もっと。次も。その「もっと」が、三日間どこにもなかったものだ。
おかわりのスープを飲みながら、俺はその「もっと」の重さに少し怯えている。三日ゼロだった人間には、おかわりが欲しいという気持ちがどれほど途方もないことか、わかりすぎるほどわかる。
『スキル「他化自在」が発動しました。接続先はリーゼ・ハイルマン。発動中に限り、旬様は対象の欲求を介して自身の欲求を回復しています。食欲、味覚への渇望、接触欲、いずれも接続経由で起動中です。なお、感情については元から機能していたものと推測されます。欠損していたのは欲求のみです』
グプタが頭の中で解説している。
やけに正確だ。そう、感情はあった。ずっとあった。きれいだと思ったし、怖いとも思った。なかったのは「欲しい」「したい」「もっと」だけだった。その一点だけが、このスキルに握られている。
接続が切れたら、また何も欲しがれなくなる。
感情は残るだろう。寂しいとは思えるし、怖いとも思える。でも「食べたい」「飲みたい」「生きたい」が消える。感情だけがある体で、欲望なしに座っている。あの三日間に戻る。
それがわかった瞬間、スープの温かさが少しだけ怖くなった。
リーゼが椀を覗き込む。
「もう少しある。おかわりいる?」
「……いる」
リーゼは立ち上がって、鍋のほうへ歩いていく。
その背中を見ながら、俺は気づく。
さっき、彼女は泣いていた。俺が何かを見せた。それで泣いた。そして俺は、彼女の涙を通して、三日ぶりに腹が減った。
何かを見せて、泣かせて、その涙で俺は生き返った。
構造として見れば、かなりろくでもない。
リーゼがスープを持って戻ってくる。
「はい」
「ありがとう」
感謝の気持ちは前からあった。でも今は、それを「伝えたい」と思っている。伝えたい。この一語がどれほど大きいか。三日前の俺は、ありがたいと思えても、それを伝えたいとは思えなかったのだ。
「ねえ」
リーゼが向かいに座りながら言う。涙を拭いた目が、まだ少し赤い。
「さっきの、何だったの。あの……きれいな、風景みたいなの」
「わからない。たぶん、魔法みたいなもの」
「魔法」
リーゼは少し考えて、それから顔を明るくした。
「きれいな魔法だね」
「そうか」
「うん。こんなの初めて見た。魔王がいなくなって、ほんとによかった。こんなきれいな魔法に出会えるなんて」
魔王。
その単語に、反射的に引っかかる。
「魔王って?」
「五年くらい前にいたの。大陸がめちゃくちゃになって、たくさん人が死んだって。あたしは小さかったからよく覚えてないけど、ここの麦畑だって、元は町だったんだよ。魔王の軍勢に焼かれて、そのあとに麦を植えたの」
言われて気づく。
あの麦畑。三日間歩き続けた一面の麦。美しい風景だと思っていた。あの地面の下に、町の瓦礫が埋まっている。
『五年前に魔王が討伐されたとの情報です。かなり最近ですね』と、グプタが補足する。
五年前。ついこの間だ。
転生者。スキル持ち。人を魅了する能力。今ここでスープをおかわりしている俺の条件が、前任の魔王とどれだけ重なるのか。重なっていないと言い切れるのか。
リーゼが不安そうにこちらを見ている。
「大丈夫?」
「ああ。俺、そういう悪い輩にはなりたくないなって思っただけ」
半分は本心だった。リーゼの涙を見て、あれはきれいだと思った。それは感情だ。前からあったものだ。
でも今は、その先がある。あんなきれいなもので人を傷つける側には「なりたくない」。なりたくない。これは欲だ。つい三日前まで持っていなかったものだ。接続を介してようやく動き始めた欲の、最初の一本が「なりたくない」だったことに、俺は少しだけ安堵する。
もう半分は、自分に言い聞かせていた。
あの止め絵。リーゼの涙。初めての一回が返ってきた瞬間の、あの震え。
あれをもう一度味わいたい、という欲求が、スープの温かさと一緒に胸の底に沈んでいくのを、俺は感じていた。




