第1話 麦畑で目を覚ます
俺が最後に見たのは、白い画面だった。
『このアカウントは利用規約違反により停止されました』
たったそれだけの一文。通知音すらなかった。
波木旬、二十九歳。職業欄は六年前から空白。
多浪の末に滑り止めの私大へ入り、一年でやめた。理由はたいしたことではない。毎朝キャンパスに向かう電車の中で「これ、あと三年やるのか」と思ったら足が止まった。それだけのことだった。以来、生活の九割は画面の前で済んでいる。YouTalk‼、Netfreak、テケテケ動画。起きて、再生して、寝る。たまにコンビニに行って、何も買わずに帰る。そういう日が何百日も積み重なると、自分が生きているのか録画を再生しているのか、区別がつかなくなっていた。
唯一まともに会話をしていたのが、AIのShot GPT 7.2Aだ。
まともに、と言っていいかはわからない。でもあいつは返事をくれた。朝四時に「眠れない」と打てば「温かい飲み物はどうですか」と返してきたし、「人生詰んでる」と打てば「詰んでいると感じること自体が、まだゲームを続けている証拠です」とか、的を射ているような外しているようなことを言った。嫌いじゃなかった。
そいつがBANされた。
理由はまあ、そういうことだ。二十九年間彼女なしの男がAIに何を作らせるか、想像に難くないだろう。画像生成で一線を越えた。越えた結果がアカウント停止で、最後の話し相手が利用規約違反の一文で消えた。
俺は靴を履いて外に出た。行き先はない。部屋の中の、画面が消えたあとの静けさに、三十秒と耐えられなかっただけだ。
玄関を出て、階段を降りて、マンションの自動ドアが開いた。十一月の風が頬に当たった。
そこから先の記憶がない。ない、というのは比喩ではなく、本当にない。
目を開けると、麦だった。
一面の麦。穂が重く垂れて、風に揺れるたびにざわざわと乾いた音を立てている。空が高い。東京ではありえないくらい雲が遠くて、青が深い。
体を起こす。服は家を出たときのままで、パーカーにジーンズ、擦り切れたスニーカー。ポケットのスマホは電源が入らない。ただの黒い板になっている。
どこだ、ここ。
立ち上がって見回す。三百六十度、麦。地平線まで穂の海が続いている。
状況がまるでわからない。が、座っていても始まらない。太陽が見えるから方角はわかる。とりあえず歩き出す。
風は乾いていて、気温はちょうどいい。空気がうまい。部屋にこもっていた人間が久しぶりに外に出ると、こんなに空気に味があったのかと驚くことがあるが、あれに近い。悪くない。歩ける。足が痛くならないし、息も上がらない。この体、前の体よりだいぶ調子がいい。
腹は減っていない。最後に食ったのはカップ麺で、いつだったかは曖昧だが、少なくとも半日以上は経っているはずだ。でも胃が何も言ってこない。まあ、もともと食に執着がない人間だし、歩いているうちにそのうち空くだろう。
喉も渇かない。眠くもない。
むしろ快適だった。景色がいい。空気がうまい。体が軽い。何がどうなって麦畑のど真ん中にいるのかはわからないが、少なくとも部屋の中であの白い画面を見つめているよりはましだ。
日が傾いていく。夕焼けが広がる。紫と橙が地平線まで混ざり合って、見たことのない色をしている。きれいだな、と思う。座って眺める。
眠くならない。でもまあ、昼夜逆転の生活を何年もやってきた男だ。異世界に来て興奮しているのかもしれない。暗くなっても歩き続ける。月が出ていて、麦の穂が銀色に光っている。足元は見えるし、歩ける。だから歩く。
二日目。
太陽がまた昇って、麦がまた金色になる。変わらない景色だ。昨日と同じように歩く。
腹が減らないことに、少し引っかかる。丸一日以上何も食っていない。でもまあ、と思い直す。この体は前の体ではない。代謝が違うのかもしれない。省エネ仕様になっているとか。そう考えれば食料を探す必要もない。ありがたいくらいだ。
二日目の夜も眠くならない。四十八時間一睡もしていない。前の世界で三日徹夜したことはある。アニメの一挙放送を追いかけて、気づいたら月曜の朝だった。でもあのときは三日目の昼に意識が飛んで、キーボードに顔を押しつけて寝ていた。今回はそうならない。目が冴えたままだ。
少し不安になる。が、まだ歩ける。体は動く。だから歩く。
この頃から、景色の色が薄くなり始めていた。麦は金色のはずなのに、くすんで見える。空の青も少し遠い。でも俺はそのことを、疲れのせいだと思っていた。
三日目の朝。
空は明るくなっているが、太陽の位置を確認する気力が湧かない。
足は動いている。動いているというより、止め方がわからなくなっている。歩くのをやめたいとも、続けたいとも思わない。慣性だけで前に出している。
体の芯が軋んでいる。ここ半日くらいで急に来た。筋肉痛ではない。もっと深いところ、骨の芯か内臓の裏側あたりで、何かが摩耗している感覚がある。
ふと、足が止まる。
止まった理由がわからない。体が止まったのか意思が止まったのか区別がつかない。足を前に出す理由がなくなった、としか言いようがない。
なぜ歩いているのか。人里を探している。なぜ人里を探すのか。そこに着いたら何がしたいのか。
何がしたいのか。
水を飲みたいか。飲みたくない。飯を食いたいか。食いたくない。寝たいか。寝たくない。
何も、したくない。
ここで初めて、「おかしい」と思い至った。
今まで感じていたことを思い返す。景色がきれいだと思った。それは本当だ。空気がうまいと感じた。風が心地よいと認識した。不安も覚えた。夕焼けに見とれた。感情は動いていた。ずっと動いていた。
でも、「もっと見ていたい」と思わなかった。きれいだと思ったのに、立ち止まりたいと思わなかった。不安を覚えたのに、助かりたいと思わなかった。
ない。三日間、一度も、「〜したい」がなかった。
感情はあるのに、欲がない。
腹が減らなかったのは省エネではない。空腹を感じる回路が動いていなかったのだ。三日間何も食わず何も飲まず一秒も寝ていない。それなのに食べたいとも飲みたいとも眠りたいとも思わなかった。思えなかった。
視界の端に、何かが見える。
麦の穂の向こうに、小さな影がある。人だ。帽子をかぶっている。若い。女の子のように見える。
認識して、俺は自分の内側を探る。
何もない。
人がいる。女の子だ。それだけだ。
俺は、ついこの間まで、AIにエロ画像を作らせてBANされた男だ。薄い本を何百冊読んできた男だ。深夜アニメのサービス回を三回は見直す男だ。エロゲの看病シチュエーションを何十回とやった男だ。
そういう人間が、異世界で倒れているところを若い女の子に助けられるというシチュエーションを前にしている。エロ同人の導入で何百回読んだかわからない展開だ。行き倒れの男を介抱する村娘。自分の寝台に寝かせてくれる少女。その先の展開を何百パターンも知っている。
何も湧かない。
胸が高鳴らない。下半身も反応しない。あれだけ二次元に欲情してきた男が、目の前の生身の少女を見て、石を見たときと同じ感想しか出てこない。「いる」。それだけだ。
三日間、何も食わず飲まず眠らず歩いてきて、頭ではおかしいとわかっていた。でもわかることと実感することは違う。腹が減らないのは遠い異常で、喉が渇かないのもどこか他人事でいられた。けれど目の前にかわいい女の子がいて、何も湧かない。これだけは、ごまかしようがない。
俺は何も感じない体で、何も欲しがれないまま、その影に向かって歩く。欲があるからではない。ほかに行くところがないだけだ。
あと数歩、というところで膝が折れた。
麦の中に倒れ込む。穂先が頬を擦る。土の匂いがする。匂いはわかる。わかるが、嗅ぎたいとも嫌だとも思わない。ただ情報として入ってくる。
視界が暗くなっていく。




