第36話 死神、動く
大神官ヨハン・マイスナーの死が帝都へ届いたとき、最初に起きたのは嘆きではなかった。
動員の話だった。
誰が兵を出す。
どの街道を押さえる。
教会領から何人、王領から何人、地方貴族にどこまで負担させる。
そういう話が、祈りの言葉より先に卓の上へ広がる。
人は大きな災いを前にすると、まず数を数えたがる。
帝都の会議室は、その夜ずっとざわついていた。
司教たちが言う。
「包囲すべきです」
王国から来た使者が言う。
「猶予を与えるほど根を張る」
地方の将軍が、机を拳で叩いた。
「まだ城一つだろう! 今なら潰せる!」
その誰もが、理屈としては正しかった。
享楽圏は広がっている。
黒い廃城を中心に、人と物が集まり、周辺の村や街から逃亡者と見物人を吸い続けている。大神官が死んだ。魔王の成立まで報告に載った。ここで力を見せなければ、教会も王権も軽んじられる。
だから、大軍を出す。
その発想は自然だった。
自然で、そして最悪だった。
会議室の隅にいたアルベルトが、ようやく口を開いたのは、その自然がほとんど決定に変わりかけたころだった。
「大軍は駄目だ」
声は低かった。
だが、その一言だけで、部屋のざわめきが切れた。
勇者アルベルト。
その名は、もはや誰にとっても伝説だった。
けれど彼自身は、伝説じみた姿をしていない。旅で擦り切れた外套に、よく手入れされた剣。痩せてはいるが弱そうではなく、老いてはいるが遅そうでもない。何より、あらゆるものを見てきた人間特有の、冷えた静けさがあった。
将軍が眉をひそめる。
「何を言う。数で押さねば――」
「数は餌になる」
アルベルトは遮った。
言葉に、ほとんど感情が乗っていない。
それが逆に重かった。
「奴は兵を殺して増やすのではない。欲しがらせて増やす」
誰かが息を呑む。
教会側の書記が、震える手で筆を止めた。
アルベルトは卓の上の地図を見ようともしなかった。
見るまでもないのだろう。
見ているのは地図ではなく、人間の壊れ方だ。
「他化自在は苦痛を共有しない。だから本能が拒まない。兵は負けるのではなく、気持ちよく寝返る」
部屋の中の空気が、じわりと冷えた。
「寝返った兵は、その時点で武器になる。剣を持つ者は剣で、弓を持つ者は弓で、自軍を斬る。求める者、執着する者、持つ者から足を取られる。兵を送り込めば送り込むほど、向こうへ兵を与える」
将軍の顔色が変わる。
王国の使者が思わず反論した。
「だが、享楽圏の兵力は現状そこまでではない。軍備を増強する様子もない。ならば今のうちに」
「その理屈で兵を送れば、向こうの兵力になる」
アルベルトは言った。
その言葉には、仮定の響きがなかった。
経験からしか出ない断定だった。
「前の魔王もそうだった」
その一言で、部屋の中の何人かが目を伏せた。
魔王討伐の時、アルベルト以外は全員死んだ。
噂ではそうなっている。
そしてたぶん、それは噂ではなく事実なのだ。
「大軍は駄目だ」
アルベルトはもう一度言った。
「数が多いほど、崩れた時の被害が大きい。多くの欲望を抱えた集団ほど、あの場では脆い」
「では、放置しろと?」
今度は司教が問うた。
怒りより、怯えが先に出た声だった。
アルベルトは、そこでようやく相手の顔を見た。
「いや」
短く答える。
「魔王だ」
部屋が、完全に静まった。
誰もその言葉を口にしなかった。
いや、できなかった。
それを今ここで、勇者本人の口から断言される重さに、みんなようやく気づいたのだ。
「奴は今のところ何も悪いことはしていない」
アルベルトは続けた。
「だが、それこそが問題なのだ」
誰かが小さく、「何を」と漏らす。
勇者は、視線を少しだけ落とした。
「魔王になるほか道のないものを、真の魔王になってから止めるのでは遅い」
その言葉だけが、机の上へ重く落ちた。
誰もすぐには反論できなかった。
享楽圏は、まだ世界を焼いていない。
軍を率いて侵略もしていない。
王座を要求したわけでもない。
ただ、人が流れ、戻れなくなり、そこにいる者たちが少しずつ外の秩序を軽く見るようになっているだけだ。
だがアルベルトには、それがわかるのだろう。
何も悪いことをしていない段階こそ、いちばん止めにくく、いちばん危ういのだと。
会議は結局、まとまらなかった。
大軍派は顔をしかめ、慎重派は勇者の言葉にすがり、教会側は大神官を失った直後の混乱で即断を避けた。
その空白を、アルベルトは待たなかった。
夜明け前には、もう帝都を出ていた。
伴う者は少ない。
十にも満たない。
どれも選び抜かれた顔だった。腕が立つだけではない。命令に酔わない者。名誉に酔わない者。欲を持たぬ、とは言えないまでも、それに呑まれにくい者。壊れたとき、自軍を壊し返しにくい者。
少数精鋭。
突破口を開くには、それでいい。
いや、それしかない。
山道に入るころ、まだ若い騎士が並んできた。
「本当にこれだけで行くのですか」
アルベルトは歩みを止めない。
「多いほど死ぬ」
「ですが、これでは……」
若い騎士はそこで言い淀んだ。
足りない、と言いたいのだろう。
その通りだった。
足りない。
たぶん、この人数でも多いのだ。
アルベルトは横目でその若者を見た。
悪くない目をしている。恐れているが、逃げようとはしていない。持っているものはまだ多い。正義も、期待も、生き残る未来も。そういうものが多い人間ほど、あの城では危うい。
「お前たちは門を割るためにいる」
アルベルトは言った。
若い騎士が顔を上げる。
「その先は」
アルベルトは答えなかった。
答えなくても、半分は伝わったのだろう。騎士の顔が少し強ばる。
それでも、若いからこそ聞いてしまう。
「最後まで行ける者は、いますか」
そこで初めて、アルベルトは足を止めた。
朝の光はまだ弱く、山道には薄い霧が残っている。木々の隙間から、遠い空が白く見えた。
勇者はその白さをしばらく見ていた。
それから、静かに言う。
「おそらく」
少しだけ間が空く。
「私だけだ」
若い騎士は言葉を失った。
脅しではない。
悲壮でもない。
ただ、計算の結果を口にしただけみたいな声音だった。
それが、いっそう重い。
アルベルトはまた歩き出した。
枯葉を踏む音が、朝の山にひどく乾いて響く。
彼は知っている。
持つ者は足を取られる。
求める者は引かれる。
執着する者は、そこを開かれる。
快楽で懐柔される敵に対して、普通の兵は弱い。強さや数ではなく、欲を持つという当たり前の人間性そのものが弱点になる。
だから大軍は出せない。
だから少数で行く。
それでも、最後まで行けるのはたぶん一人だけだ。
それを知ったうえで、進む。
死神と呼ばれるようになったのは、そういう歩き方をするからなのかもしれない、と、若い騎士はその背を見ながらぼんやり思った。
アルベルトは振り返らない。
道は細くなり、霧は少しずつ晴れていく。
その先に黒い廃城があり、そこで待つものが魔王であると、彼はもう疑っていなかった。




