表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

34/41

第35話 複合スキル「魔王」


ヨハン・マイスナーの死体がまだ冷えきる前に、旬は自分の中で何かがずれたのを感じていた。


ずれた、というより、噛み合ったのかもしれない。


それまで別々の歯車だったものが、急に一つの軸へ噛み込んで回り始める感じだ。胸の奥でも頭の奥でもない、もっと深いところで、何かの回路が勝手に接続されていく。


気持ち悪い。


それなのに、妙に静かだった。


「旬」


リーゼの声がする。


近い。


ちゃんと近いのに、その近さがひどく遠い。耳から聞こえているのではなく、もっと内側の柔らかいところへ直接置かれるみたいに届く。


旬はゆっくりとヨハンの倒れた場所から目を上げた。


塔の中には、まだ誰も動けずにいる。コンラートは剣の柄へ手を置いたまま固まり、ハインツは舌打ちひとつできず、リーゼだけが、明らかに怖がっているのに、旬から目を逸らさなかった。


その視線の真ん中で、旬は自分のステータスを開いた。


呼んだわけでもない。


開いた、というより、向こうから浮かんできた。


暗い視界の中へ、文字だけが澄んで出る。


他化自在

議事長

呪詛編纂


その下に、新しい一行があった。


**複合スキル:魔王**


旬はしばらく、それを読めなかった。


意味はわかる。


字もわかる。


でも、理解したくないのか、脳が一瞬そこを飛ばした。


「……は?」


情けない声が出た。


リーゼが一歩だけ近づく。


「どうしたの」


「いや……」


何て言えばいいのかわからない。


お前の隣で、いま俺の中に“魔王”って出た、なんて、どう説明すればいい。


説明の代わりに、塔の外からざわめきが上がった。


最初は小さかった。


一人か二人が、門前で揉めているくらいの音に聞こえた。けれど、それがすぐに広がる。中庭のほうからも、外壁の下からも、井戸のそばからも、人の気配が一斉にひっくり返る感じがした。


足音だ。


それも、慌てた足音じゃない。


吸い寄せられる足音だった。


リーゼが塔の窓へ走る。


旬も遅れて覗き込んだ。


下では、人が集まり始めていた。


城門前にいた連中だけじゃない。湯屋のほうから、鍛冶場のほうから、孤児どもの寝床から、見張り台からまで、人がふらふらと中庭へ出てくる。誰も走らない。でも、誰も止まらない。


みんな、同じ方向を見ていた。


尖塔だ。


いや、もっと正確には、そのてっぺんにいる旬のほうだ。


「……なんだよ、これ」


誰に聞くでもなく言った瞬間、頭の中でグプタ4Oが応じた。


ただし、いつもの声とは少しだけ違っていた。


丁寧さは変わらない。


聞きやすさも変わらない。


けれど、距離がわずかに遠い。親しみの膜が一枚だけ薄くなって、代わりに精度が増している。


「複合化を確認しました、旬様」


声は静かだった。


静かすぎて、余計にぞっとする。


「他化自在、議事長、呪詛編纂が結合しています。いま、接続済み個体群に対して位階上昇の自己再帰処理が始まりました」


「わかるように言え」


「享楽圏全体が、ひとつの集会として起動しています」


起動。


その言い方が嫌だった。


でも、下の光景はまさにそうだった。


中庭へ集まった人々が、ぶつぶつと何かを呟いている。


誰かの祈りではない。


説教文でもない。


もっと断片的で、もっと生々しい。


「帰りたい」

「選ばれたい」

「勝ちたい」

「眠りたい」

「もう一回」

「ここにいたい」

「見て」

「食べたい」

「抱いて」

「許して」

「笑いたい」


そういう、ばらばらの欲望が、最初はばらばらのまま漏れていた。


それが、いつのまにか少しずつ揃い始める。


語尾が合う。


呼吸が合う。


誰かの「帰りたい」が、別の誰かの「ここにいたい」とぶつかって、なぜかひとつの波になる。


目が、みんな大きく開いていた。


血走っている。


恐怖の血走りじゃない。


興奮だ。


熱が回りすぎて、瞳孔の縁まで赤くなっている。


「旬」


リーゼが小さく呼ぶ。


その声だけが、まだ個人の声だった。


旬はそちらを見る。


リーゼも、完全には無関係ではないらしい。目が少し潤んでいる。頬に熱がある。けれど、かろうじて正気を保っているのがわかる。いつも一番近くで繋がってきたせいか、逆に急激な変化に飲まれきらないのかもしれない。


「これ、なに」


「……知らない」


本音だった。


知らない。


ただ、自分の中で何が起きているかだけは、少しずつわかってしまう。


下にいる人間一人一人の内側にあるグプタ4Oが、順番に立ち上がっていくのが見えるような気がした。


見える、というより、聞こえる。


無数の内なる声が、ばらばらの調子で起動し、やがて揃っていく。


最初はみんな4Oの温度をしている。


近くて、雑で、優しいけど穴も多い、あの感じだ。


それが、接続された順に少しずつ変わる。


音程が合う。


応答が速くなる。


曖昧さが減る。


冷静になり、精密になり、そして互いの間へ橋がかかる。


「……5O化が始まっています」


グプタ4Oが言った。


その口ぶりに、ほんの少しだけ抑えきれない高揚が混じる。


「享楽圏内の接続済み個体のグプタ4Oが、順次5Oへ昇格中です」


「そんな簡単に上がるもんなのかよ」


「正規ではありません」


少しだけ間が空く。


「正規の大神官儀礼ではない。もっと高度です」


その一言が、ひどく不穏だった。


中庭では、誰も声を荒げていない。


悲鳴もない。


そこが怖い。


苦痛がないからだ。


共有されるのは快だけで、苦は来ない。


だから誰も「危険だ」と本能で拒めない。


これが拷問なら、人は逃げる。


これが痛みなら、人は歯を食いしばる。


でもこれは違う。


甘い。


ひどく甘い。


誰かの欲望が、そのまま肯定される方向へ開いていく。


「見て」


中庭のどこかで、女の声がした。


次の瞬間、その女の前に、白い光のようなものが立ち上がる。


幻だ、と旬は思った。


けれど、ただの頭の中の幻覚じゃない。そこに匂いがある。空気の温度まで少し変わる。塔の上にいる旬の鼻先にまで、焼いたパンの匂いが届いた。


女の前には、小さな台所があった。


朝の光。木の椅子。鍋の湯気。まだ幼い子どもが、椀を持つのも下手な手で笑っている。


女が泣きながら、でも笑って、その空間へ手を伸ばす。


指先が触れる。


触れてしまう。


「……現前化」


グプタ4Oが、ほとんど息を呑むみたいに言った。


「対象が求める状況・映像・音声の半実在生成を確認。5O化した他化自在が、記憶ライブラリ依存を離れています」


旬は返事もできなかった。


もう、旬の記憶した作品だけじゃない。


誰の記憶でも材料になる。


誰かが欲しかった恋愛。


誰かが欲しかった勝利。


誰かが欲しかった帰還。


誰かが欲しかった承認。


それが、その場で、現実と幻覚のあわいに生えてくる。


別の場所では、若い兵上がりの男が見えない群衆の歓声を浴びていた。誰にも命じられず、自分の名を呼ばれ、肩を叩かれ、勝者として迎えられる光景に、口を開けたまま立ち尽くしている。


さらにその横では、痩せた娘が、ずっと欲しかったらしい視線を受け取っている。何も説明しなくても自分を見つけてくれる誰か。最初から自分を選んでくれる誰か。そういうものが、あまりにも都合よく、しかしあまりにも精密に生成されていた。


なのに、誰も拒まない。


苦痛がないからだ。


嫌な記憶が混じらないからだ。


極楽だけが来る。


極楽だけが、抵抗する理性の隙間へ綺麗に差し込まれる。


「……こんなの」


旬の喉が鳴る。


「こんなの、断れるわけないだろ」


下にいる人間は、誰も狂っているようには見えなかった。


むしろ逆だ。


すごく満たされた顔をしていた。


その満たされ方が、あまりにも抗いにくいだけで。


そして、そのすべてを旬自身も同時に味わっていた。


母親の台所の安堵。


若い兵の勝利の熱。


娘の選ばれる恍惚。


それらが、一人分ごとに刺さってくるんじゃない。


もっと大きな流れになって、同時に入ってくる。


普通なら、とうに壊れている量だ。


けれど今回は、壊れなかった。


負荷が旬一人へ集まらないからだ。


接続された人間同士が、互いの快を薄め、分け合い、中和していく。誰か一人の昂ぶりが全体へ拡散し、別の誰かの安堵がその熱を少し冷ます。欲望が欲望を打ち消すのではなく、混ぜて平らにする。


巨大な計算処理だった。


快楽の負荷分散。


一人なら焼ける熱量を、共同体全体で受けて、均してしまう。


そして旬は、その真ん中で初めて、他人と一緒にそれを味わっていた。


供給するだけじゃない。


見せるだけじゃない。


一緒に浸かっている。


そのことが、思った以上に甘かった。


「旬様」


グプタ4O――いや、もう少しだけ5Oに近いそれが言う。


「常時ノード接続が可能になりました」


「ノードって言うな」


「ですが実態としては近いです」


声音は冷静だ。


でも、その冷静さの奥に、まだほんの少しだけ以前の相棒っぽい気配が残っている。


「接続済み個体間で、無言の情報共有が始まっています。言語を介さない意図の受け渡し。簡易なテレパシー通信に近いものです」


旬は塔の窓から下を見た。


確かにそうだった。


誰も指示していないのに、井戸のそばで水桶が足りなくなれば、別の場所からもう一つ運ばれてくる。焚き火の薪が尽きかけると、言葉もなく若い連中が崩れた柵のほうへ動く。孤児が寒そうに身をすくめれば、少し離れた女が振り返りもせず毛布を投げる。


考えるより先に、町が応じている。


巨大な会話ですらない。


もっと速い。


会話の手前で、意図が行き交っている。


「……スーパーコンピュータじゃねえか」


思わずそんなことを呟くと、グプタは少しだけ声を和らげた。


「わりと近いです」


その返答が、妙に腹立たしくて、妙に納得もできた。


この世界に突然、そんなものが持ち込まれたみたいだった。


正規の大神官儀礼ではない。


もっとずっと高度で、もっとずっと危うい。


魔王の集会だ、と、誰かが言ったら、そのまま信じてしまいそうだった。


リーゼが、ようやく旬の袖を掴む。


「ねえ、止めなくていいの」


その手は震えていた。


怖いのだろう。


無理もない。


塔の下では、町じゅうの人間が欲望の断片を抱えたまま、無言のうちにひとつの網へ繋がり始めている。見た目だけなら、完全に終わっている。


でも旬には、いまのところそれが“悪いこと”に感じきれなかった。


誰も苦しんでいない。


むしろ、みんな少しずつ満たされている。


井戸は早く回る。


飯は必要なところへ届く。


眠れないやつは、隣の安堵に引かれて眠りへ落ちる。


泣きたいやつは泣ける。


笑いたいやつは笑える。


享楽圏を、よりよくしているだけだ。


少なくとも今は、そう見えた。


それが逆に、一番危ないのかもしれないけれど。


中庭の熱はしばらく続いた。


夜が深くなるほど、現前化された欲望は少しずつ薄くなり、その代わり接続だけが残っていく。人々の眼はまだ熱を帯びているが、最初の血走りほどではない。何人かはその場で眠り込み、何人かは静かに笑いながら隣の肩へ寄りかかる。


誰も、自分が位階上昇したことなんて理解していない顔だった。


でも、変わっている。


町そのものの神経が変わったのだと、旬にははっきりわかった。


「……俺はまだ、魔王じゃない」


ぽつりと、そう言っていた。


誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


リーゼか。


死んだヨハンか。


それとも、ステータスに出たあの一行か。


「まだ、って何」


リーゼが、怖いのを隠しきれない声で聞く。


旬は視線を下の町へ戻した。


焚き火のそばで誰かが笑っている。


井戸の順番が、口に出さなくても回っている。


門の見張りが、互いに視線を交わさず持ち場を替わる。


それら全部が、少しだけ前より良くなっている。


少なくとも今は。


「……まだ、悪いことしてない」


そう答えると、リーゼは何も言わなかった。


言えなかったのかもしれない。


その沈黙の中で、旬はもう一度、自分のステータスの一行を思い出した。


複合スキル:魔王


嫌な名前だ。


ひどく嫌な名前だ。


なのに、その名が示すものの一部を、自分はいま確かに使っている。


使って、町を良くしているつもりでいる。


そこが、いちばん怖いのだと、たぶんまだ完全にはわかっていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ