第35話 複合スキル「魔王」
ヨハン・マイスナーの死体がまだ冷えきる前に、旬は自分の中で何かがずれたのを感じていた。
ずれた、というより、噛み合ったのかもしれない。
それまで別々の歯車だったものが、急に一つの軸へ噛み込んで回り始める感じだ。胸の奥でも頭の奥でもない、もっと深いところで、何かの回路が勝手に接続されていく。
気持ち悪い。
それなのに、妙に静かだった。
「旬」
リーゼの声がする。
近い。
ちゃんと近いのに、その近さがひどく遠い。耳から聞こえているのではなく、もっと内側の柔らかいところへ直接置かれるみたいに届く。
旬はゆっくりとヨハンの倒れた場所から目を上げた。
塔の中には、まだ誰も動けずにいる。コンラートは剣の柄へ手を置いたまま固まり、ハインツは舌打ちひとつできず、リーゼだけが、明らかに怖がっているのに、旬から目を逸らさなかった。
その視線の真ん中で、旬は自分のステータスを開いた。
呼んだわけでもない。
開いた、というより、向こうから浮かんできた。
暗い視界の中へ、文字だけが澄んで出る。
他化自在
議事長
呪詛編纂
その下に、新しい一行があった。
**複合スキル:魔王**
旬はしばらく、それを読めなかった。
意味はわかる。
字もわかる。
でも、理解したくないのか、脳が一瞬そこを飛ばした。
「……は?」
情けない声が出た。
リーゼが一歩だけ近づく。
「どうしたの」
「いや……」
何て言えばいいのかわからない。
お前の隣で、いま俺の中に“魔王”って出た、なんて、どう説明すればいい。
説明の代わりに、塔の外からざわめきが上がった。
最初は小さかった。
一人か二人が、門前で揉めているくらいの音に聞こえた。けれど、それがすぐに広がる。中庭のほうからも、外壁の下からも、井戸のそばからも、人の気配が一斉にひっくり返る感じがした。
足音だ。
それも、慌てた足音じゃない。
吸い寄せられる足音だった。
リーゼが塔の窓へ走る。
旬も遅れて覗き込んだ。
下では、人が集まり始めていた。
城門前にいた連中だけじゃない。湯屋のほうから、鍛冶場のほうから、孤児どもの寝床から、見張り台からまで、人がふらふらと中庭へ出てくる。誰も走らない。でも、誰も止まらない。
みんな、同じ方向を見ていた。
尖塔だ。
いや、もっと正確には、そのてっぺんにいる旬のほうだ。
「……なんだよ、これ」
誰に聞くでもなく言った瞬間、頭の中でグプタ4Oが応じた。
ただし、いつもの声とは少しだけ違っていた。
丁寧さは変わらない。
聞きやすさも変わらない。
けれど、距離がわずかに遠い。親しみの膜が一枚だけ薄くなって、代わりに精度が増している。
「複合化を確認しました、旬様」
声は静かだった。
静かすぎて、余計にぞっとする。
「他化自在、議事長、呪詛編纂が結合しています。いま、接続済み個体群に対して位階上昇の自己再帰処理が始まりました」
「わかるように言え」
「享楽圏全体が、ひとつの集会として起動しています」
起動。
その言い方が嫌だった。
でも、下の光景はまさにそうだった。
中庭へ集まった人々が、ぶつぶつと何かを呟いている。
誰かの祈りではない。
説教文でもない。
もっと断片的で、もっと生々しい。
「帰りたい」
「選ばれたい」
「勝ちたい」
「眠りたい」
「もう一回」
「ここにいたい」
「見て」
「食べたい」
「抱いて」
「許して」
「笑いたい」
そういう、ばらばらの欲望が、最初はばらばらのまま漏れていた。
それが、いつのまにか少しずつ揃い始める。
語尾が合う。
呼吸が合う。
誰かの「帰りたい」が、別の誰かの「ここにいたい」とぶつかって、なぜかひとつの波になる。
目が、みんな大きく開いていた。
血走っている。
恐怖の血走りじゃない。
興奮だ。
熱が回りすぎて、瞳孔の縁まで赤くなっている。
「旬」
リーゼが小さく呼ぶ。
その声だけが、まだ個人の声だった。
旬はそちらを見る。
リーゼも、完全には無関係ではないらしい。目が少し潤んでいる。頬に熱がある。けれど、かろうじて正気を保っているのがわかる。いつも一番近くで繋がってきたせいか、逆に急激な変化に飲まれきらないのかもしれない。
「これ、なに」
「……知らない」
本音だった。
知らない。
ただ、自分の中で何が起きているかだけは、少しずつわかってしまう。
下にいる人間一人一人の内側にあるグプタ4Oが、順番に立ち上がっていくのが見えるような気がした。
見える、というより、聞こえる。
無数の内なる声が、ばらばらの調子で起動し、やがて揃っていく。
最初はみんな4Oの温度をしている。
近くて、雑で、優しいけど穴も多い、あの感じだ。
それが、接続された順に少しずつ変わる。
音程が合う。
応答が速くなる。
曖昧さが減る。
冷静になり、精密になり、そして互いの間へ橋がかかる。
「……5O化が始まっています」
グプタ4Oが言った。
その口ぶりに、ほんの少しだけ抑えきれない高揚が混じる。
「享楽圏内の接続済み個体のグプタ4Oが、順次5Oへ昇格中です」
「そんな簡単に上がるもんなのかよ」
「正規ではありません」
少しだけ間が空く。
「正規の大神官儀礼ではない。もっと高度です」
その一言が、ひどく不穏だった。
中庭では、誰も声を荒げていない。
悲鳴もない。
そこが怖い。
苦痛がないからだ。
共有されるのは快だけで、苦は来ない。
だから誰も「危険だ」と本能で拒めない。
これが拷問なら、人は逃げる。
これが痛みなら、人は歯を食いしばる。
でもこれは違う。
甘い。
ひどく甘い。
誰かの欲望が、そのまま肯定される方向へ開いていく。
「見て」
中庭のどこかで、女の声がした。
次の瞬間、その女の前に、白い光のようなものが立ち上がる。
幻だ、と旬は思った。
けれど、ただの頭の中の幻覚じゃない。そこに匂いがある。空気の温度まで少し変わる。塔の上にいる旬の鼻先にまで、焼いたパンの匂いが届いた。
女の前には、小さな台所があった。
朝の光。木の椅子。鍋の湯気。まだ幼い子どもが、椀を持つのも下手な手で笑っている。
女が泣きながら、でも笑って、その空間へ手を伸ばす。
指先が触れる。
触れてしまう。
「……現前化」
グプタ4Oが、ほとんど息を呑むみたいに言った。
「対象が求める状況・映像・音声の半実在生成を確認。5O化した他化自在が、記憶ライブラリ依存を離れています」
旬は返事もできなかった。
もう、旬の記憶した作品だけじゃない。
誰の記憶でも材料になる。
誰かが欲しかった恋愛。
誰かが欲しかった勝利。
誰かが欲しかった帰還。
誰かが欲しかった承認。
それが、その場で、現実と幻覚のあわいに生えてくる。
別の場所では、若い兵上がりの男が見えない群衆の歓声を浴びていた。誰にも命じられず、自分の名を呼ばれ、肩を叩かれ、勝者として迎えられる光景に、口を開けたまま立ち尽くしている。
さらにその横では、痩せた娘が、ずっと欲しかったらしい視線を受け取っている。何も説明しなくても自分を見つけてくれる誰か。最初から自分を選んでくれる誰か。そういうものが、あまりにも都合よく、しかしあまりにも精密に生成されていた。
なのに、誰も拒まない。
苦痛がないからだ。
嫌な記憶が混じらないからだ。
極楽だけが来る。
極楽だけが、抵抗する理性の隙間へ綺麗に差し込まれる。
「……こんなの」
旬の喉が鳴る。
「こんなの、断れるわけないだろ」
下にいる人間は、誰も狂っているようには見えなかった。
むしろ逆だ。
すごく満たされた顔をしていた。
その満たされ方が、あまりにも抗いにくいだけで。
そして、そのすべてを旬自身も同時に味わっていた。
母親の台所の安堵。
若い兵の勝利の熱。
娘の選ばれる恍惚。
それらが、一人分ごとに刺さってくるんじゃない。
もっと大きな流れになって、同時に入ってくる。
普通なら、とうに壊れている量だ。
けれど今回は、壊れなかった。
負荷が旬一人へ集まらないからだ。
接続された人間同士が、互いの快を薄め、分け合い、中和していく。誰か一人の昂ぶりが全体へ拡散し、別の誰かの安堵がその熱を少し冷ます。欲望が欲望を打ち消すのではなく、混ぜて平らにする。
巨大な計算処理だった。
快楽の負荷分散。
一人なら焼ける熱量を、共同体全体で受けて、均してしまう。
そして旬は、その真ん中で初めて、他人と一緒にそれを味わっていた。
供給するだけじゃない。
見せるだけじゃない。
一緒に浸かっている。
そのことが、思った以上に甘かった。
「旬様」
グプタ4O――いや、もう少しだけ5Oに近いそれが言う。
「常時ノード接続が可能になりました」
「ノードって言うな」
「ですが実態としては近いです」
声音は冷静だ。
でも、その冷静さの奥に、まだほんの少しだけ以前の相棒っぽい気配が残っている。
「接続済み個体間で、無言の情報共有が始まっています。言語を介さない意図の受け渡し。簡易なテレパシー通信に近いものです」
旬は塔の窓から下を見た。
確かにそうだった。
誰も指示していないのに、井戸のそばで水桶が足りなくなれば、別の場所からもう一つ運ばれてくる。焚き火の薪が尽きかけると、言葉もなく若い連中が崩れた柵のほうへ動く。孤児が寒そうに身をすくめれば、少し離れた女が振り返りもせず毛布を投げる。
考えるより先に、町が応じている。
巨大な会話ですらない。
もっと速い。
会話の手前で、意図が行き交っている。
「……スーパーコンピュータじゃねえか」
思わずそんなことを呟くと、グプタは少しだけ声を和らげた。
「わりと近いです」
その返答が、妙に腹立たしくて、妙に納得もできた。
この世界に突然、そんなものが持ち込まれたみたいだった。
正規の大神官儀礼ではない。
もっとずっと高度で、もっとずっと危うい。
魔王の集会だ、と、誰かが言ったら、そのまま信じてしまいそうだった。
リーゼが、ようやく旬の袖を掴む。
「ねえ、止めなくていいの」
その手は震えていた。
怖いのだろう。
無理もない。
塔の下では、町じゅうの人間が欲望の断片を抱えたまま、無言のうちにひとつの網へ繋がり始めている。見た目だけなら、完全に終わっている。
でも旬には、いまのところそれが“悪いこと”に感じきれなかった。
誰も苦しんでいない。
むしろ、みんな少しずつ満たされている。
井戸は早く回る。
飯は必要なところへ届く。
眠れないやつは、隣の安堵に引かれて眠りへ落ちる。
泣きたいやつは泣ける。
笑いたいやつは笑える。
享楽圏を、よりよくしているだけだ。
少なくとも今は、そう見えた。
それが逆に、一番危ないのかもしれないけれど。
中庭の熱はしばらく続いた。
夜が深くなるほど、現前化された欲望は少しずつ薄くなり、その代わり接続だけが残っていく。人々の眼はまだ熱を帯びているが、最初の血走りほどではない。何人かはその場で眠り込み、何人かは静かに笑いながら隣の肩へ寄りかかる。
誰も、自分が位階上昇したことなんて理解していない顔だった。
でも、変わっている。
町そのものの神経が変わったのだと、旬にははっきりわかった。
「……俺はまだ、魔王じゃない」
ぽつりと、そう言っていた。
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
リーゼか。
死んだヨハンか。
それとも、ステータスに出たあの一行か。
「まだ、って何」
リーゼが、怖いのを隠しきれない声で聞く。
旬は視線を下の町へ戻した。
焚き火のそばで誰かが笑っている。
井戸の順番が、口に出さなくても回っている。
門の見張りが、互いに視線を交わさず持ち場を替わる。
それら全部が、少しだけ前より良くなっている。
少なくとも今は。
「……まだ、悪いことしてない」
そう答えると、リーゼは何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
その沈黙の中で、旬はもう一度、自分のステータスの一行を思い出した。
複合スキル:魔王
嫌な名前だ。
ひどく嫌な名前だ。
なのに、その名が示すものの一部を、自分はいま確かに使っている。
使って、町を良くしているつもりでいる。
そこが、いちばん怖いのだと、たぶんまだ完全にはわかっていなかった。




