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第34話 ギャンタス


きっかけが何だったのか、旬にはよくわからなかった。


ヨハンの「祈りでそれをやった。あなたは欲望でやっている」という言葉か。


それとも、自分の中にあった「同類だ」という嫌な確信か。


あるいは、その両方が重なったのか。


とにかく、気づいたときには『他化自在』が開いていた。


無意識だった。


意図していない。


敵を折ろうとか、感動させようとか、そういう計算は一切なかった。


ただ、刺さるものが勝手に浮いた。


ヨハンに向けて。


流れたのは、宇宙だった。


黒い宇宙に、青白い円筒都市がゆっくり回っている。窓の外では、無数の機影が火花みたいに交差する。巨大な兵器の中で、子どもみたいに若い操縦士たちが、ヘルメット越しに誰かの声を聞く。


『軌道戦士ギャンタス』。


古い長編だった。


シリーズものだったか、劇場版の再編集だったか、そのへんは曖昧だ。旬も全部を正確に覚えているわけではない。ただ、いくつかの場面だけが異様に強く残っていた。


人と人が、わかりあうための技術を持ちながら、巨大な構造の中で互いを部品にしていく話。


最初にヨハンへ流れたのは、会議室だった。


戦場じゃない。


冷たい照明の下、若い士官が膨大な損耗表を前に立っている。彼は真面目で、目の下に隈があって、本気で仲間を死なせたくないと思っている。


だから、彼は同期文を書き換える。


操縦士たちの神経同調を高めるための文言を。


恐慌を抑え、無駄な判断の揺れを減らし、敵味方の識別を滑らかにするために。


少しだけ語順を変える。


少しだけ感情を整える。


少しだけ、祈りの角度を揃える。


その結果、部隊の損耗は減る。


生還率は上がる。


若い士官は安堵する。


よかった、これで少しは少ない犠牲で済む、と。


ヨハンの肩が、わずかに動いた。


そこへ次の場面が流れる。


今度は操縦席だ。


敵同士の機体が、戦場でほんの一瞬だけ共振する。互いの視界の端へ、相手の人生が差し込む。海辺で笑っている妹。硬いパンをちぎる母の手。戦う理由の小ささ。怖さ。帰りたさ。


わかる。


敵が、何を怖がっているのか。


何を守りたいのか。


どうしてここにいるのか。


わかってしまう。


なのに、戦闘は止まらない。


止まらないどころか、共振したからこそ一瞬の判断が早くなり、機体はより正確に相手のコアを撃ち抜く。


理解は、和平にならない。


理解の直後に、殺し合いの精度が上がる。


そこにある理不尽さが、『ギャンタス』の一番嫌なところだった。


さらに、次の場面。


さっきの若い士官は、もう若くない。


階級章だけが増え、机の上の損耗表も、昔よりずっと整っている。彼はもう名前で人を呼ばない。部隊番号で呼ぶ。同期率で並べる。誰を前へ出し、誰を後ろへ回せば、全体として最も損害が少ないかを、迷いなく言えるようになっている。


善意のまま、完成してしまっている。


人を救うために効率を磨いた結果、人をもっと運用できるようになってしまう。


その構図が、物語の中であまりにも鮮明だった。


ヨハンの目に、初めて明確な揺れが出た。


そして、とどめみたいに最後の断片が流れた。


戦争の終盤。


巨大兵器の中枢で、二人の男が通信越しに向き合う。


一人は、敵も味方ももう区別のつかないほど多くの死を見た操縦士。


もう一人は、システムを整え続けてきた側の人間だ。


二人は、ほとんど同時にわかってしまう。


自分たちは、わかりあえる。


見てきたものが違うだけで、根は同じだ。


少ない犠牲で済ませたいと思った。


守りたいものがあった。


巨大な構造に巻き込まれ、その中で最適化を選び続けた。


だから、最後の一瞬だけ、言葉が届く。


「なぜ、そこまでわかりあえるのに」


そう言いかけたところで、通信の向こうの誰かが撃たれる。


あるいは、自分が撃つ。


わかりあえそうで、わかりあえない。


理解の直前で、人は死ぬ。


それが、その物語のいちばん深い傷だった。


ヨハンが、息を呑んだ。


涙が落ちた。


でも、その涙は美しい話に打たれた人間のものじゃない。


自己認識が間に合いすぎてしまった人間の涙だった。


「……なんという、愚かな」


小さな声だった。


旬には、その意味がすぐにはわからない。


え、と思った。


今の、ちょっと重めのロボ大河だろ。


何でそんなに刺さるんだ。


そんな認識しか追いつかない。


なのにヨハンの顔は、明らかにもう別のところへ行っていた。


彼は、自分を見ていた。


人を導くつもりで、人を並列化してきたこと。


祈りを尊いものとして扱いながら、祈りの運用効率ばかり見ていたこと。


善意で制度を磨き、その結果、人を資源として配置できるようになってしまったこと。


旬の享楽による最適化を見て崩れたのではない。


旬を通じて、自分自身の醜い構造を、物語の形で見せられたのだ。


「待て」


旬が言った。


本気で、待てと思った。


別に殺すつもりなんてない。


ただ、刺さるものが出ただけだ。


でもヨハンは、その声を聞いていないみたいだった。


彼は胸元から万年筆を抜いた。


黒い胴軸。


先端が、灯りを鈍く返す。


その動きがあまりにも滑らかで、旬は一拍遅れた。


「おい」


リーゼが息を呑む。


コンラートが一歩踏み出す。


けれど、間に合わない。


ヨハンはためらわなかった。


万年筆を、自分の胸元へ突き立てた。


乾いた、嫌な音がした。


旬の理解がそこへ追いつかない。


え、何で。


なんで急に自分を刺すんだ。


「……っ」


ヨハンの膝が崩れる。


法衣の黒さの中へ、もっと濃い染みが広がる。毒だ、と、ハインツが舌打ちした。筆に仕込んでいたのか。そう考えるのが一番早かった。


「なんで」


旬の声は、自分でも驚くほど薄かった。


「今の、そんな……」


そんなに、だった。


別に世界を壊す兵器を渡したわけじゃない。


ただ、戦争ロボの長い話の断片を見せただけだ。


でも他化自在ってのは、そういう理屈じゃない。


殴らなくても、人を壊せる。


人生の一番脆いところへ、物語の形でぴたりと刺されば、それで終わる。


理不尽だった。


救うつもりで使っても、壊れるときは壊れる。


その現実が、いま目の前で、あまりにも物理的な形を取っている。


リーゼが、旬のほうを見た。


ヨハンが何を見て、何に絶望したのかまではわからない顔だ。


でも、ひとつだけはわかっている。


この力は、人を救うだけじゃなく、人を壊せる。


それが、その顔に出ていた。


ヨハンは床へ片膝をついたまま、苦しそうに息をした。


それでも視線だけは、まだ旬から逸れなかった。


「……同胞として」


途切れ途切れに、そう言う。


「これ以上……祈りも、欲望も……」


最後まで言葉にはならなかった。


体が傾ぐ。


その瞬間、旬の頭の奥で、何か重いものがずれた。


今までにない感覚だった。


広がるんじゃない。


繋がる。


人を束ねるほうへ、何か大きな骨組みが開く感覚。


グプタ4Oが、この瞬間だけ妙に静かだった。


「継承を確認しました」


いつもの軽さがない。


「対象スキル……議事長」


ほんの少し間が空く。


「付随記述系に、呪詛編纂の運用痕跡を検知」


旬は意味を理解するより先に、足元のヨハンを見た。


ヨハン・マイスナーは、そのまま前へ倒れた。


動かない。


塔の中が、ひどく静かになる。


下から聞こえていた広場のざわめきまで、一瞬遠のいた気がした。


「……なあ」


旬がようやく絞り出した声は、かすれていた。


「俺、そんなつもりじゃなかったんだけど」


誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


リーゼは答えない。


コンラートも、ハインツも、答えようがない顔をしている。


物理の刃だけが、まだ人を殺せる。


たしかにそうだ。


けれど、その刃へ自分から手を伸ばさせるところまで含めるなら、他化自在はやっぱり十分に人を壊すのだ。


旬は、自分の喉の奥が少し冷たくなるのを感じた。


議事長。


呪詛編纂の痕跡。


新しく入ってきたそれらの意味を、まだ頭が処理しきれない。


ただひとつだけ、はっきりしている。


わかりあえそうで、わかりあえない相手だった。


そして、その断絶の仕方は、最悪のかたちで終わった。


塔の窓の外で、風が荒れ地を撫でていた。


享楽圏はまだ、下で笑っている。


その笑い声が、今はひどく遠かった。

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