第33話 わかりあえそうで、わかりあえない
ヨハン・マイスナーは、尖塔の上へ通されても、少しも見上げる気配を見せなかった。
大げさな礼もない。
威圧もない。
ただ、そこが会う場所として一番妥当だと知っている人間みたいに、静かに立っている。
塔の窓からは、荒れ地の向こうまで見えた。下では門前の市がまだ動いている。夕方の鍋の匂い。桶を運ぶ声。湯屋の湯気。広場では子どもがまだ何か真似事をしていて、たまに笑いが上がる。
享楽圏は、今日もちゃんと生きている。
その生きている町を背にして、旬はヨハンと向き合っていた。
リーゼが壁際に寄る。
コンラートとハインツは階段口の近くに立ったままだ。二人とも一歩も油断していない。ヨハンもそれを見ているはずなのに、まるで気にしていない。
「座りますか」
ヨハンが言った。
「立ってるほうが楽だ」
旬が返す。
ヨハンは小さくうなずいた。
その仕草が、妙にまともだった。
「報告は読んでいます」
彼はそう言って、塔の下を一度だけ見た。
「病人が眠れるようになった。泣けなかった者が泣けるようになった。働く気力を失った者が、再び働き始めた。ここが、抑圧された土地に対する解放として機能していることも、わかっています」
頭ごなしには否定しない。
そこが、かえって嫌だった。
ヨハンの口ぶりには、断罪の勢いがない。むしろ認めている。事実として、ここで起きた救済を。
「でも止めに来た」
旬が言うと、ヨハンはまっすぐこちらを見た。
「ええ」
「なんでだよ」
ヨハンは少しだけ、考える時間を置いた。
「私は、この世界へ来たとき――」
そこまで言って、一瞬だけ言葉を選び直す。
「……いえ。若い頃、まだ何も持っていなかった頃、自分の理屈をこの世界へ通そうとして失敗しました」
旬は黙っていた。
リーゼがほんの少しだけ眉を上げる。
ヨハンは続けた。
「だから郷に入っては郷に従え、と学んだのです。この世界の仕組みに師事し、それを使って少しでも傷を減らすほうが正しい、と」
その声に、飾ったところはなかった。
「私は祈りを束ねました。位階上昇を効率化し、失敗を減らし、犠牲を減らそうとした。少ない信徒で、少ない乱れで、より安全に昇華できるよう整えた」
ヨハンは、自嘲するように口元をわずかに動かした。
「善意でした。本気で」
旬はそこで、ようやく口を開いた。
「でも、中央教会を強くした」
「ええ」
「王も地方も、お前らの儀礼に依存するようになった」
「ええ」
「人を助けるためじゃなく、人を並べるための仕組みになった」
そこで初めて、ヨハンの目に、薄い疲れが浮いた。
それは怒りじゃない。
認めざるを得ない人間の疲れだ。
「……その通りです」
その一言に、旬の胸の奥が少しだけ軋んだ。
この男は、わかっている。
自分が制度を改善したつもりで、その実、支配を完成させたことを。
それでも、その改善の最初に善意があったことまで否定しきれないことを。
「だったら同じだろ」
旬の声が少し強くなる。
「教会だって同じだ。祈りを束ねて、位階に変えて、人を並べてきたじゃないか」
リーゼが壁際で息をひそめる。
ハインツは腕を組んだまま、何も言わない。
ヨハンはすぐに返さなかった。
返せない、のほうが近かった。
「……ええ」
やがて、そう言った。
「同じです」
その認め方が、あまりにも素直で、逆に旬のほうが少し怯んだ。
「だからこそ、わかるのです」
ヨハンはそこで、初めて少しだけ声を低くした。
「あなたが見始めているものが、人ではなく、欲望の型になってきていることが」
その一言が、痛いところへまっすぐ入った。
旬は眉をひそめる。
否定したい。
でも、否定しきれない。
最近の自分が、人の人生そのものより、“刺さる感情の型”で先に見始めていることを、もう少し前からうっすら自覚していたからだ。
眠れない者にはこれ。
承認が欲しい者にはこれ。
悔しさを抱えた者にはこれ。
外へ出たい者にはこれ。
個別の人間の前に、棚が見える。
それは便利だ。
でも、人を部品みたいに見る入口でもある。
ヨハンは、そこまで見ていた。
「この世界を破壊しないでくれ」
静かな声だった。
祈りにも命令にも聞こえない。
ただ、長い回り道の末にそこへ来た人間の声だった。
「あなたが見ているのは、人より欲望だ」
塔の外では、広場でまた笑い声が上がった。
子どもの甲高い声。
誰かが転んだらしい、どっと受ける笑い。
その音が、妙に遠い。
「欲望は強い。鋭い。人を動かすには十分すぎる。しかし、人そのものではない」
ヨハンは続ける。
「祈りも同じでした。祈りだけを見れば、人は整う。整いすぎる。やがて、祈る者ではなく、祈りの効率だけが残る」
その言葉は、ほとんど自分に向けていた。
旬にもわかった。
この男はいま、俺を裁きながら、自分の傷もえぐっている。
「世界は人でできている」
ヨハンが言う。
「欲望だけで見れば、世界は壊れます」
旬の中で、何かがざらりと動いた。
たしかにそうかもしれない。
享楽圏は、欲望をよく見ている。
笑いたい、眠りたい、選びたい、選ばれたい、勝ちたい、愛されたい。
その願いを、きれいに拾ってしまう。
その結果、人はここへ流れ込む。
戻れなくなる。
それを、ただの解放だと言い切れないことくらい、もう自分でもわかっている。
だからこそ、腹が立った。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
思わず声が荒くなる。
「外へ戻せって? また我慢して、また並ばされて、また教会の都合のいい祈りへ戻れって?」
「そうは言いません」
「言ってるようなもんだろ」
「違います」
そこだけ、ヨハンの声が少し鋭くなった。
初めてだった。
「私はあなたのしてきたことを、すべて否定しているのではない」
「でも止める」
「ええ」
また、そこへ戻る。
理解し合えそうで、決定的に戻る場所が違う。
そこがたまらなく嫌だった。
「あなたは救った」
ヨハンは言う。
「だが同時に、人が自分を選ぶ前に、欲望の最適解を与え始めている」
旬の喉が、少し乾く。
図星だ。
図星だから、痛い。
「私は祈りでそれをやった。あなたは欲望でやっている」
塔の中の空気が、少しだけ冷える。
リーゼも、コンラートも、そこまではわからない顔をしている。
でも旬にはわかる。
この男は、正反対じゃない。
方向の違う同類だ。
旬は欲望を最適化し、人を集めた。
ヨハンは祈りを最適化し、人を束ねた。
だからこそ、一番よくわかる。
そして、一番嫌悪する。
「……最悪だな」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
ヨハンは答えなかった。
ただ、その沈黙が肯定に近かった。
しばらく、誰も喋らなかった。
塔の下の笑い声だけが続く。
それが、いまこの場では異様に遠い。
「旬様」
頭の中で、グプタ4Oが珍しく弱い声を出した。
「かなり本質的な対立ですね」
旬は内心でうなずく。
本当にそうだった。
「どちらも部分的に正しく、どちらも危険です」
そこで少し間を置く。
「……少し難問です」
グプタ4Oが、こんなふうに自信を落とすのは珍しかった。
だから逆に、不穏だった。
旬はヨハンを見た。
この男は敵だ。
でも、ただの敵じゃない。
理解できる側の匂いがする。
理解できてしまうからこそ、嫌だ。
わかりあえそうなのに、絶対に同じ道には立てない。
その感じが、ひどく嫌なかたちで胸に残った。
そして、その残り方が、次の瞬間、別のかたちで開いた。




