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第32話 侵入



ヨハン・マイスナーは、護衛を連れてこなかった。


朝の光がまだ白い時間、城門の前に現れたのは、黒に近い法衣の老人が一人だけだった。馬もいない。従者もいない。手にあるのは、使い込まれた杖と、胸元へ差した万年筆だけ。


それなのに、門番の空気は一瞬で変わった。


敵だ、と、誰もがすぐわかった。


弓を持つ若い見張りが、反射で弦を張る。門脇の槍持ちが半歩前に出る。ハインツが壁にもたれていた背を起こし、コンラートが門の影からゆっくり姿を見せた。


たった一人なのに、数で押せる気がしない。


その感じが、まず気味悪かった。


ヨハンは足を止め、城門を見上げた。


欠けた翼の古い神のレリーフを一度だけ見てから、穏やかな顔で視線を下ろす。笑ってはいない。威圧もしていない。なのに、「この男は状況をもう理解している」と思わせる目だった。


「どちら様だ」


コンラートが先に問う。


短い声だった。牽制も警告も混ぜた声だ。


老人は杖を軽く地へつき、答えた。


「ヨハン・マイスナー」


その名を知っていた者は、その場には少なかった。


少なくとも門番の大半は、ただの高位聖職者のひとりだと思っただろう。だが、名を知らなくてもわかるものはある。身についた静けさ。言葉を選ぶ速度。自分がどこへ立てば、相手が一番よく聞くかを知っている人間の立ち方。


ハインツが鼻で笑う。


「偉い坊主が、わざわざ一人で何しに来た」


ヨハンは怒らない。


むしろ、少しだけ相手を立てるように視線を向けた。


「話をしに来たのです」


「そのまま通すと思うか?」


「思いません」


即答だった。


そこに嫌味はない。ただ、現実を一つ置くみたいな声だった。


「ですが、通したほうが事態は早く進む」


ハインツの眉がぴくりと動く。


「いまは斬り合いより、会わせたほうが整合的です」


その言い方が、妙に耳へ残った。


整合的。


そんな言葉を門前で使う人間は普通いない。いないのに、なぜか意味だけはすっと入ってくる。そうかもしれない、と思ってしまう。ここで無理に押し返すより、一度会わせたほうが、あとが読みやすい。少なくとも、この男が一人で来た以上、いま斬り合いを始めるほうが段取りとして不自然だ。


誰も命じられていない。


脅されてもいない。


なのに、一瞬だけ、通したほうが筋がいい気がする。


それが、ぞっとするほど自然だった。


コンラートが剣の柄へ手をかける。


本能で危険を察している顔だった。理屈の手前で、この男を門の内側へ入れるのはまずいとわかっている顔。


その動きを見て、ヨハンは初めて少しだけ口元を動かした。


「物理の刃だけが、まだ人を殺せる」


静かな一言だった。


だが、その一言で空気がまた変わる。


槍も弓も、握っている者の手の中で急に重みを持つ。


物理の刃だけが、まだ人を殺せる。


高位の聖職者がそんなことを口にするのは、どこか不釣り合いだ。もっと神秘や断罪の言葉を使いそうなものなのに、この男は一番下の現実から話し始めた。


スキルは派手でも、最後は刃物だ。


血が出るのはそっちだ。


死ぬのもそっちだ。


それを、この男は知りすぎている。


支配する側にいるくせに、最後の現実を知っている。


そこが怖かった。


「だから、柄から手を離さなくていい」


ヨハンは続けた。


「それでも、私を通したほうが早い」


ハインツが低く舌打ちする。


「気に入らねえな」


「ええ」


ヨハンはあっさり認めた。


「そう感じるのが普通です」


認め方まで、きれいすぎる。


ルカが門の内側から顔をのぞかせ、「誰だよあいつ」と小さく呟く。マルタがその頭を引っ込める。周囲の見張りまで、全員が少しずつ自分の判断を奪われていくみたいな居心地の悪さを感じていた。


強制ではない。


そこが最悪だった。


通せ、と命じられたわけじゃない。


従わなければ死ぬとも言われていない。


ただ、自分で「そのほうが筋がいい」と思わされる。


最適化された誘導。


呪詛編纂だ、と、コンラートは理屈ではなく肌で悟った。


「……下がれ」


コンラートがまず、見張りにだけ言った。


それはヨハンを通すという意味ではなかった。焦って矢を放つな、という意味だった。


だが、その一言でまた半歩、門は開いた気がする。


ハインツが横目で睨む。


「お前、通す気か」


「まだ通していない」


コンラートの声は硬い。


「だが、ここで射るより、中で囲んだほうがましだ」


その判断が、自分のものかどうか、言った本人が一番わからなくなっている顔だった。


「ほらな」


ヨハンがそう言ったわけではない。


ただ、言われたような気がした。


そこがまた気味悪い。


「リーゼを呼べ」


コンラートが短く言う。


ルカがそのまま駆ける。城壁の中へ、足音がばたばた消える。


その頃、旬は尖塔にいた。


下から駆け上がってくる足音だけで、ただ事ではないとわかった。リーゼが息を切らせたまま塔の入口へ顔を出す。


「来た」


「誰が」


リーゼは一瞬だけ言葉を選んだ。


「……たぶん、いちばん偉い側の人」


その説明の雑さに、逆に現実味があった。


旬は立ち上がる。胸の奥で、嫌な感覚が先に動く。


ただ偉いだけのやつじゃない。


報告の文面や、クラウスの視線とは違う、もっと近い嫌さだ。


「門番が、変なの」


リーゼが続ける。


「敵だってわかってるのに、会わせたほうが早いって、みんなちょっと思いかけてる」


その一言で、旬の背筋が冷えた。


ああ、わかる。


それはたぶん、ただの威圧でも、説得でもない。


“分かる側”の匂いがする。


こっちの構造を、言葉の手前で理解していて、最初の一手から最適な形を選んでくる相手。


人を真正面から折るのでもなく、喜ばせるのでもなく、「そのほうが筋がいい」と自分で思わせるやり方を知っている相手。


旬は窓から下を見た。


門前に立つ黒衣の男は、小さく見える。けれど、そこだけ風の流れが変わったみたいに、周囲の注意が全部集まっていた。


「……嫌だな」


ぽつりと出た本音に、グプタ4Oがすぐ反応する。


「非常に興味深い来訪者です」


「お前、嬉しそうだな」


「応答様式に高い最適化傾向が見られます。かなりこちら側ですね」


その言い方に、旬は眉をひそめる。


こちら側。


確かに、そういう感じはする。


人の欲望に触れる方向ではない。


でも、人の判断を整え、話の筋を先回りし、最短距離で場を支配する感覚は、どこか近い。


グプタ4Oが、ほんの少しだけ声色を変えた。


「……すみません、ちょっと私も気になります」


その一言だけ、妙に相棒みたいで、こんな場面じゃなければ少し笑えたかもしれない。


いまは無理だった。


旬は深く息を吸い、吐く。


下では、コンラートとハインツがまだ門前で睨み合っている。ヨハンは動かない。追い立てもしない。ただ、通るべき時が来るのを知っている顔で待っている。


その待ち方まで、嫌だった。


「行く」


旬が言うと、リーゼは何も聞かなかった。


ただ短くうなずいて、先に階段のほうへ身を向ける。


尖塔を降りる足音が、石に反響する。


下へ行くほど、人の気配が濃くなる。


門前の空気の硬さまで伝わってきて、旬は改めて思った。


この相手は、ただ偉いだけじゃない。


ただ正しいだけでもない。


こっちがどう動くかを、動く前からかなり知っている。


その匂いがした。


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