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第28話 飽き


最初にそれを言ったのは、見物人じゃなかった。


もう何日も城にいる若い連中のひとりだった。


門前の列が少し短くなった昼下がり、俺はいつものように椅子へ座って、人を一人ずつ見ていた。眠れない男、食えない老婆、何となく前へ出てきた娘。欲望の形を拾って、断片を流して、少し楽になった顔を見送る。


それ自体は、前と変わらない。


変わったのは、そのあとだ。


列の後ろで待っていた若い男が、前の奴の顔を見て、拍子抜けしたみたいに言った。


「……前のほうが刺さったな」


周りの何人かが、ああ、という顔をする。


小さい声だったのに、やけに耳へ残った。


俺は次の相手へ目を向けながら、聞こえないふりをした。


でも、その日はそれで終わらなかった。


夕方には別の女が、友達らしい相手に笑いながら言った。


「また似たような感じだった」

「ね。悪くないんだけどさ」

「もっと違うのはないのかねえ」


悪くない。


その言い方が、妙に客っぽくて嫌だった。


享楽圏の人間は、ここで初めて、飽きという贅沢に触れ始めていた。


禁欲圏では、そもそもそんな問題は起きない。


娯楽が少ないからだ。


来るものを受け取るしかない。比べるほどの数もない。次はもっと違うものを、なんて言い出す前に、次そのものが来ない。


でも、ここは違う。


感動が供給される。


泣く場面がある。


笑う場面がある。


胸がざわつく瞬間がある。


それを何度も味わううちに、人は初めて比較を始める。


前のほうが強かった。


今回はちょっと薄い。


もっと違うやつが見たい。


もっと濃いところだけ欲しい。


そういう言葉が、門前に少しずつ混じり始める。


嫌な兆候だった。


とくに嫌だったのは、物語そのものじゃなく、気持ちよかった箇所だけが抜き出され始めたことだ。


オットーが書き起こした言葉は、もう完全に独り歩きしていた。


「あの人が言った言葉」として、紙に写され、壁に貼られ、夜には誰かが読み上げる。


でも、それを受け取る側は、前後を欲しがらない。


「泣いたあとに腹が減るのは普通だ」


その一行だけが、やたら人気になる。


その言葉がどんな相手に向けて、どんな場面で出たのかは、どうでもいい。


一行だけで効くから、それだけ回る。


「そこで言うな」とみんなで叫ぶ夜と、あまり変わらない。


断片だけが強くなる。


全体は、置いていかれる。


ルカなんか、もう隠そうともしなかった。


「先生、あの場面だけもう一回やってくれよ」


「どの場面だよ」


「ほら、あれ。振り返って、ちょっと間があって、それで言うやつ」


「雑すぎてわからん」


「だからさ、一番おいしいとこ!」


その言い方に、ぞっとした。


おいしいところ。


そこだけを、もう一回。


そこだけを、何度でも。


物語じゃない。


気持ちよさのピークだけを切り抜いて、再生したがっている。


誰かが泣いた理由も、そこへ至るまでの蓄積も、あとに残る余韻も、どうでもいい。


一番効いた瞬間だけ欲しい。


その欲しがり方が、ひどく見覚えあって嫌だった。


まるで連載小説が、物語全体じゃなく、“今週の気持ちいい部分”だけで読まれているみたいだった。


先の展開でも、積み重ねでもない。


今週いちばんざわついたとこ。


今週いちばんスカッとしたとこ。


そこだけ切り取って、はい消費、次、みたいな。


前の世界で、俺はたしかにそういうものを見てきた。


見てきたし、たぶん消費してもいた。


だから余計に、今ここでそれをやられると気持ち悪い。


「旬様」


頭の中で、グプタ4Oが、また妙に前向きな声を出した。


「需要の成熟ですね」


「言い方」


「初見衝撃の飽和に伴い、利用者は差別化と高密度な快楽を求め始めます。かなり自然です」


「利用者って言うな」


「ざっくり言うと、目が肥えてきました」


客みたいに言うな、と本気で思った。


でも、こいつの言っていること自体は間違っていないのが腹立たしい。


人は慣れる。


初めて見たときには震えたものも、三度、五度と触れれば、今度は差分を欲しがる。もっと尖ったもの、もっと自分向けのもの、もっと“そこだけ”気持ちいいもの。


享楽圏は、ついにその段階へ入り始めていた。


夜、門前へ下りると、その空気がもっとはっきり見えた。


見世物小屋の前では、旅芸人が一番受ける台詞だけを集めて並べている。話の筋なんてない。ただ、拍手が起きる順に、笑いが取れる順に、強い言葉を置いていく。見ている側も、それで満足そうに笑う。


別の一角では、若い連中が「あの場面」をそれぞれ勝手に真似していた。


正確じゃない。


でも、正確である必要はないらしい。


「あそこが好き」という反応を共有できれば、それでいい。


反応の共有そのものが快楽になっている。


作品はもう、丸ごと愛されるんじゃない。


気持ちいい断片として再生産される。


そして、その再生産のほうが、元の形より広がる。


それを高いところから見下ろしていると、胸の奥が少し寒くなった。


楽しいのは、わかる。


本当に。


みんなが笑っていて、前よりずっと自由だ。


誰かの台詞を真似しても怒られない。


好きな場面だけ叫んでもいい。


そういう町は、たしかに魅力がある。


でも、その魅力の育ち方が、だいぶ嫌な方向へも向いている。


「先生、次の人」


リーゼに呼ばれて振り向く。


俺はまた椅子へ座り、門前の列を見る。


前へ出てきた男の目には、もう最初の頃みたいな切実さだけじゃなく、少しの期待と、少しの選り好みが混じっていた。


何が来るんだろう。


前より強いのが来るだろうか。


自分にぴったりのやつが来るだろうか。


そういう、贅沢な顔だ。


享楽圏が成熟していくというのは、たぶんこういうことなんだろう。


飢えが満たされたあとに、好みが出る。


好みが出たあとに、飽きが来る。


飽きが来たあとに、人はもっと濃いものを欲しがる。


その流れの先が、なんとなく見えてしまって、旬は少しだけ目を伏せた。


ここはまだ、広がっている最中だ。


人は増える。


笑いも増える。


市も広がる。


でも、その真ん中で、もう最初の飢えだけでは回らなくなり始めている。


飽きは、豊かさの印だ。


同時に、次の渇きの始まりでもある。


そのことが、たまらなく嫌だった。


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