第27話 巡礼都市
城のまわりに、匂いが増えた。
最初は煙の匂いだけだったはずだ。
湿った薪が燃える匂い。薄い豆の煮込み。汚れた布を煮る湯気。そういう、生き延びるための匂い。
それが、いつのまにか変わっていた。
焼いた肉の脂。
甘く煮詰めた果実。
香草を刻む匂い。
湯屋から流れてくる熱い湯気と、安い石鹸の匂い。
門前へ降りるたび、鼻に入ってくるものが少しずつ増えていく。
「あれ、なんだ」
尖塔の窓から見下ろして、俺は思わず呟いた。
昨日までなかった場所に、布を張った屋台が三つ並んでいる。片方では串を焼いていて、もう片方では雑な木椀に甘い粥みたいなものを注いでいる。真ん中の屋台では、色の違う布切れを並べて、若い女が客と値段でもめていた。
その向こうには、粗末な板で囲った湯屋までできている。湯屋っていうか、樽と布で無理やり囲った風呂場だ。でも湯気が立っている。笑い声まで聞こえる。
さらにその脇では、旅芸人らしい一団が、昼間から綱を張っていた。子どもがその周りをうろうろして、マルタに耳を引っぱられている。
「……早すぎるだろ」
本当にそう思った。
廃城へ流れ込んできたのは、ついこのあいだだ。そこから少し寝床が整って、門前に列ができて、夜になると真似事みたいな見世物が始まって。
それだけだったはずなのに、気づけば町になりかけている。
仮の寄り合い所じゃない。
ちゃんと、人が“ここで暮らすつもり”の顔をし始めている。
グレーテが言っていた。
寝る場所が決まると、人は次に湯を欲しがる。湯ができると、今度は靴を直したくなる。靴が直ると、鍋を買いたくなる。鍋が手に入ると、今度は味を選びたくなる、と。
たしかにそうだった。
城下町にはもう、選ぶ余地がある。
パンが一種類じゃなくなった。
薄い汁も、塩気の強いものと、妙に草臭いものがある。串焼きだって、同じ肉じゃないらしい。焦げ目の濃いやつを好む連中もいれば、香草をまぶしたやつを喜ぶ連中もいる。
たったそれだけの違いで、人は嬉しそうにする。
食い物を選べる、というだけで。
見下ろしていると、門前の広場を若い連中が駆け抜けていくのが見えた。誰かが持ち込んだらしい太鼓を叩いて、それに合わせて二人が意味もなくくるくる回る。うまくもない。揃ってもいない。なのに、それを見た周りが笑う。手を叩く。真似する。
誰かが何かを演じても怒られない。
たぶん、外ではそれだけで十分珍しいんだろう。
だから人が来る。
病人だけじゃない。
悩みを抱えた者だけでもない。
商売人が来る。
旅芸人が来る。
見物客が来る。
流れ者が来る。
ただ面白いことが見たい若者まで来る。
「先生、そこにいたのか」
下から声がした。
フランツだった。肩に木箱を担いでいる。
「何だそれ」
「釘と蝶番。鍛冶場が足りないって」
「もう鍛冶場まであるのかよ」
「二つ」
平然と言いやがる。
「一つは農具直し。もう一つは包丁と針先の仕事。城壁の内側じゃ足りねえって、門前にもう一つ増やすらしい」
門前に鍛冶場。
湯屋。
簡易宿。
見世物小屋。
孤児の居場所までできていた。
孤児の居場所というのは、アンネリーゼとマルタが勝手にそう呼んでいるだけで、実際には外壁沿いの一角を布で囲っただけだ。けれど、そこには昼になると子どもが集まり、誰かしらが飯を食わせ、文字とも絵ともつかないものを地面に書かせている。
町ってのは、こうやってできるのか、と、妙に遠い気持ちで見ていた。
誰かが命じたわけじゃない。
でも、必要なものから順番に生える。
必要なものが増えると、今度はそれを目当てに人が増える。
そして人が増えると、また別の必要が生える。
繰り返しだ。
「禁欲圏から、また来たよ」
今度はリーゼが塔へ上がってきた。
息を弾ませながらも、いつもの顔で木皿を俺へ渡す。今日は黒パンじゃなく、少し柔らかい白っぽいパンが混じっていた。
「何だこれ」
「粉を挽ける人が来たの」
「そういう問題なのか」
「そういう問題だよ」
リーゼは窓辺に寄って、下を見た。
「今朝来たのは、職人二人と、見物客三人と、たぶん家出した若いのが四人。あと、商売しに来たのが一組」
「見物客まで住みつくのか」
「見て、面白かったら残るんじゃない?」
軽く言う。
でも、たぶんそうだ。
ここに来る理由は、もう“救われたい”だけじゃない。
ここにいたい。
それだけの人間が増えている。
広場の笑い声のそばにいたい。
夜ごと始まる見世物を見たい。
湯を浴びたあとに、雑な飯を選んで食いたい。
誰かが勝手に演じて、勝手に受けているのを眺めていたい。
そういう欲で人が留まる。
それは、ある意味で病や絶望より強いのかもしれない。
外から見れば、享楽圏はずいぶん魅力的に映るだろう。
抑圧された世界の中で、ここだけは笑い声がある。
ここだけは、食い物を選べる。
ここだけは、誰かが変な真似をしても、その場で殴られたり連れていかれたりしない。
そりゃ人も吸い寄せられる。
自然だ。
そして、自然であることが、逆にいちばん怖い。
「旬様」
グプタ4Oが、やけに晴れやかな声で言った。
「おめでとうございます」
「何がだよ」
「旬様の周辺共同体は、カリスマ依存型から都市型複合体へ移行しつつあります。かなり順調です」
「すごい嫌な祝辞だな」
「なお、今後の課題は衛生、治安、ブランド管理です」
ブランド管理。
その一言に、思わず顔をしかめる。
「言うな」
「何をでしょう」
「ブランド管理って言い方」
「しかし実態としては近いです」
「近くても言うな」
でも、わかってしまうのが最悪だった。
享楽圏は、もう一つの噂になっている。
笑っていい町。
食い物が選べる町。
病人が眠れて、旅芸人が稼げて、妙な真似をしても即座に咎められない町。
そういう“らしさ”ができ始めると、それ自体が人を呼ぶ。
だったらたしかに、管理したいと思う人間も出るだろう。
まったくもって面倒だ。
ふと、下の広場で小さなどよめきが起きた。
覗くと、新しく来た旅芸人が、見世物小屋の前で口上を始めている。やたら滑舌がいい。身振りも大きい。子どもが寄り、若い娘が笑い、隣では商人が片手で串を返しながら客を呼んでいる。
みんな楽しそうだった。
本当に。
食っている。
笑っている。
踊っている。
その熱が、ここまで薄く上がってくる。
でも俺は、その輪の中にいない。
俺が見せた断片は、もう人の手を離れて町の遊びになっている。
それ自体は良いことだ。
たぶん。
俺を経由しなくても、誰かが誰かを笑わせるなら、それはたぶん健全だ。
なのに、そこへ俺だけが入れない。
供給した側だからだろうか。
あるいは、入ろうとした瞬間に、また誰かの欲や熱狂が流れ込んできて、自分の楽しさがどこにあるのかわからなくなるからだろうか。
どちらにせよ、俺は高いところから見ているだけだった。
観客ですらない。
演者でもない。
ただ、供給源の近くに置かれたまま、町が自走し始めるのを見ている。
その感じは、思ったより寂しい。
「降りないの?」
リーゼが聞いた。
「何しに」
「見物」
「俺が行ったら、見物にならないだろ」
それはそう、とリーゼが苦笑する。
もう、俺が広場へ降りると空気が変わる。
列ができる。
視線が集まる。
何かを求められる。
ただの見物客ではいられない。
そのことを、最近はみんな知っている。
俺自身も知っている。
それが、また少し嫌だった。
広場では、旅芸人が大げさに転んで、子どもたちが腹を抱えていた。屋台の前では、若い男がどの串にするか本気で悩んでいる。風呂屋のほうからは、湯気と一緒に馬鹿みたいに大きな笑い声が流れてきた。
ここは、たしかに魅力的だ。
俺でさえそう思う。
だからこそ、外から人が吸い寄せられるのも自然だ。
そして、その魅力の真ん中にいながら、俺だけがその外にいる。
「……変な話だな」
思わずそう呟くと、リーゼが隣で静かに言った。
「あなたが一番最初に、ここをただの休む場所だと思ってたからじゃない」
「今もそう思ってるよ」
「でも、みんなはそうじゃない」
その通りだった。
俺にとっては、ここはもともと人混みから少し離れて休むための城だった。
けれど今、下で笑っている連中にとっては違う。
町だ。
いや、もっと強い。
来てよかったと思える場所だ。
そうなった時点で、もう休憩所ではいられない。
享楽圏は、本物の都市の顔を持ち始めていた。
その輪郭を、俺は尖塔の上から見ている。
見ているだけだ。
それが、いちばんはっきりした一日だった。




