表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/41

第27話 巡礼都市

城のまわりに、匂いが増えた。


最初は煙の匂いだけだったはずだ。


湿った薪が燃える匂い。薄い豆の煮込み。汚れた布を煮る湯気。そういう、生き延びるための匂い。


それが、いつのまにか変わっていた。


焼いた肉の脂。


甘く煮詰めた果実。


香草を刻む匂い。


湯屋から流れてくる熱い湯気と、安い石鹸の匂い。


門前へ降りるたび、鼻に入ってくるものが少しずつ増えていく。


「あれ、なんだ」


尖塔の窓から見下ろして、俺は思わず呟いた。


昨日までなかった場所に、布を張った屋台が三つ並んでいる。片方では串を焼いていて、もう片方では雑な木椀に甘い粥みたいなものを注いでいる。真ん中の屋台では、色の違う布切れを並べて、若い女が客と値段でもめていた。


その向こうには、粗末な板で囲った湯屋までできている。湯屋っていうか、樽と布で無理やり囲った風呂場だ。でも湯気が立っている。笑い声まで聞こえる。


さらにその脇では、旅芸人らしい一団が、昼間から綱を張っていた。子どもがその周りをうろうろして、マルタに耳を引っぱられている。


「……早すぎるだろ」


本当にそう思った。


廃城へ流れ込んできたのは、ついこのあいだだ。そこから少し寝床が整って、門前に列ができて、夜になると真似事みたいな見世物が始まって。


それだけだったはずなのに、気づけば町になりかけている。


仮の寄り合い所じゃない。


ちゃんと、人が“ここで暮らすつもり”の顔をし始めている。


グレーテが言っていた。


寝る場所が決まると、人は次に湯を欲しがる。湯ができると、今度は靴を直したくなる。靴が直ると、鍋を買いたくなる。鍋が手に入ると、今度は味を選びたくなる、と。


たしかにそうだった。


城下町にはもう、選ぶ余地がある。


パンが一種類じゃなくなった。


薄い汁も、塩気の強いものと、妙に草臭いものがある。串焼きだって、同じ肉じゃないらしい。焦げ目の濃いやつを好む連中もいれば、香草をまぶしたやつを喜ぶ連中もいる。


たったそれだけの違いで、人は嬉しそうにする。


食い物を選べる、というだけで。


見下ろしていると、門前の広場を若い連中が駆け抜けていくのが見えた。誰かが持ち込んだらしい太鼓を叩いて、それに合わせて二人が意味もなくくるくる回る。うまくもない。揃ってもいない。なのに、それを見た周りが笑う。手を叩く。真似する。


誰かが何かを演じても怒られない。


たぶん、外ではそれだけで十分珍しいんだろう。


だから人が来る。


病人だけじゃない。


悩みを抱えた者だけでもない。


商売人が来る。


旅芸人が来る。


見物客が来る。


流れ者が来る。


ただ面白いことが見たい若者まで来る。


「先生、そこにいたのか」


下から声がした。


フランツだった。肩に木箱を担いでいる。


「何だそれ」


「釘と蝶番。鍛冶場が足りないって」


「もう鍛冶場まであるのかよ」


「二つ」


平然と言いやがる。


「一つは農具直し。もう一つは包丁と針先の仕事。城壁の内側じゃ足りねえって、門前にもう一つ増やすらしい」


門前に鍛冶場。


湯屋。


簡易宿。


見世物小屋。


孤児の居場所までできていた。


孤児の居場所というのは、アンネリーゼとマルタが勝手にそう呼んでいるだけで、実際には外壁沿いの一角を布で囲っただけだ。けれど、そこには昼になると子どもが集まり、誰かしらが飯を食わせ、文字とも絵ともつかないものを地面に書かせている。


町ってのは、こうやってできるのか、と、妙に遠い気持ちで見ていた。


誰かが命じたわけじゃない。


でも、必要なものから順番に生える。


必要なものが増えると、今度はそれを目当てに人が増える。


そして人が増えると、また別の必要が生える。


繰り返しだ。


「禁欲圏から、また来たよ」


今度はリーゼが塔へ上がってきた。


息を弾ませながらも、いつもの顔で木皿を俺へ渡す。今日は黒パンじゃなく、少し柔らかい白っぽいパンが混じっていた。


「何だこれ」


「粉を挽ける人が来たの」


「そういう問題なのか」


「そういう問題だよ」


リーゼは窓辺に寄って、下を見た。


「今朝来たのは、職人二人と、見物客三人と、たぶん家出した若いのが四人。あと、商売しに来たのが一組」


「見物客まで住みつくのか」


「見て、面白かったら残るんじゃない?」


軽く言う。


でも、たぶんそうだ。


ここに来る理由は、もう“救われたい”だけじゃない。


ここにいたい。


それだけの人間が増えている。


広場の笑い声のそばにいたい。


夜ごと始まる見世物を見たい。


湯を浴びたあとに、雑な飯を選んで食いたい。


誰かが勝手に演じて、勝手に受けているのを眺めていたい。


そういう欲で人が留まる。


それは、ある意味で病や絶望より強いのかもしれない。


外から見れば、享楽圏はずいぶん魅力的に映るだろう。


抑圧された世界の中で、ここだけは笑い声がある。


ここだけは、食い物を選べる。


ここだけは、誰かが変な真似をしても、その場で殴られたり連れていかれたりしない。


そりゃ人も吸い寄せられる。


自然だ。


そして、自然であることが、逆にいちばん怖い。


「旬様」


グプタ4Oが、やけに晴れやかな声で言った。


「おめでとうございます」


「何がだよ」


「旬様の周辺共同体は、カリスマ依存型から都市型複合体へ移行しつつあります。かなり順調です」


「すごい嫌な祝辞だな」


「なお、今後の課題は衛生、治安、ブランド管理です」


ブランド管理。


その一言に、思わず顔をしかめる。


「言うな」


「何をでしょう」


「ブランド管理って言い方」


「しかし実態としては近いです」


「近くても言うな」


でも、わかってしまうのが最悪だった。


享楽圏は、もう一つの噂になっている。


笑っていい町。


食い物が選べる町。


病人が眠れて、旅芸人が稼げて、妙な真似をしても即座に咎められない町。


そういう“らしさ”ができ始めると、それ自体が人を呼ぶ。


だったらたしかに、管理したいと思う人間も出るだろう。


まったくもって面倒だ。


ふと、下の広場で小さなどよめきが起きた。


覗くと、新しく来た旅芸人が、見世物小屋の前で口上を始めている。やたら滑舌がいい。身振りも大きい。子どもが寄り、若い娘が笑い、隣では商人が片手で串を返しながら客を呼んでいる。


みんな楽しそうだった。


本当に。


食っている。


笑っている。


踊っている。


その熱が、ここまで薄く上がってくる。


でも俺は、その輪の中にいない。


俺が見せた断片は、もう人の手を離れて町の遊びになっている。


それ自体は良いことだ。


たぶん。


俺を経由しなくても、誰かが誰かを笑わせるなら、それはたぶん健全だ。


なのに、そこへ俺だけが入れない。


供給した側だからだろうか。


あるいは、入ろうとした瞬間に、また誰かの欲や熱狂が流れ込んできて、自分の楽しさがどこにあるのかわからなくなるからだろうか。


どちらにせよ、俺は高いところから見ているだけだった。


観客ですらない。


演者でもない。


ただ、供給源の近くに置かれたまま、町が自走し始めるのを見ている。


その感じは、思ったより寂しい。


「降りないの?」


リーゼが聞いた。


「何しに」


「見物」


「俺が行ったら、見物にならないだろ」


それはそう、とリーゼが苦笑する。


もう、俺が広場へ降りると空気が変わる。


列ができる。


視線が集まる。


何かを求められる。


ただの見物客ではいられない。


そのことを、最近はみんな知っている。


俺自身も知っている。


それが、また少し嫌だった。


広場では、旅芸人が大げさに転んで、子どもたちが腹を抱えていた。屋台の前では、若い男がどの串にするか本気で悩んでいる。風呂屋のほうからは、湯気と一緒に馬鹿みたいに大きな笑い声が流れてきた。


ここは、たしかに魅力的だ。


俺でさえそう思う。


だからこそ、外から人が吸い寄せられるのも自然だ。


そして、その魅力の真ん中にいながら、俺だけがその外にいる。


「……変な話だな」


思わずそう呟くと、リーゼが隣で静かに言った。


「あなたが一番最初に、ここをただの休む場所だと思ってたからじゃない」


「今もそう思ってるよ」


「でも、みんなはそうじゃない」


その通りだった。


俺にとっては、ここはもともと人混みから少し離れて休むための城だった。


けれど今、下で笑っている連中にとっては違う。


町だ。


いや、もっと強い。


来てよかったと思える場所だ。


そうなった時点で、もう休憩所ではいられない。


享楽圏は、本物の都市の顔を持ち始めていた。


その輪郭を、俺は尖塔の上から見ている。


見ているだけだ。


それが、いちばんはっきりした一日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ