第29話 なろう。
最初に違和感を覚えたのは、広場で誰かが笑った瞬間だった。
笑い方が、前と違う。
前はもっと、こぼれるような笑いだった。泣いたあとで少し楽になったとか、思わず吹き出したとか、そういう、ひび割れたところへ灯りが差すみたいな笑い方。
いまの笑いは、もっと鋭い。
待っていたものが来た時の笑いだ。
「そこだよ、そこ」
「ほら見ろ」
「やっぱりこうじゃないと」
そういう声が、広場のあちこちから飛ぶ。
城門前の見世物小屋は、もう完全に夜ごとの習いになっていた。樽をひっくり返した台の上で、誰かが物まねをし、誰かが雑な寸劇をやり、誰かが歌い、誰かがわざとらしく泣いてみせる。
そのどれも、最初は人の反応そのものを真似る遊びだった。
けれど、最近は少し違う。
反応の前に、型がある。
こういうのが見たい、という欲望の型だ。
それが、広場の空気の中ではっきりし始めていた。
その夜、旬は尖塔を降りて、門前の隅に座っていた。
高いところから見ているだけだと、変化がよくわからない。いっそ近くにいたほうが、自分が何に寒気を覚えているのか掴める気がした。
見世物小屋の前では、若い連中がやけに盛り上がっている。
舞台の上に立った男が、わざと顎を上げて、鼻にかかった声を出した。
「この土くれどもが、私に逆らうというのか」
一瞬、静まる。
次の瞬間、舞台袖から別の若者が飛び出した。
薄汚れた外套、冴えない顔、見るからに下っ端、という格好をしている。ところがそいつは貴族役の男の前まで来ると、無言で腰の札を一枚出した。
舞台の上で、貴族役の男が固まる。
札を見た途端に、顔色が変わる。
周囲の兵がざわつく。
そのまま若者が、静かな声で言う。
「税帳を調べた。三年分、横領だ。全部出ろ」
広場が割れた。
歓声だった。
「きた!」
「やれ!」
「そのまま落とせ!」
貴族役の男が慌てて取り繕う。言い逃れしようとする。だが、横から出てきた別の役者が帳簿の束をばらまき、さらに後ろから「証人がいる!」と叫ぶ。
最後には、さっきまで偉そうにしていた男が、舞台の真ん中で膝をつく。
そこで、広場の熱が一気に上がった。
旬はそれを見て、うっすら寒くなった。
ざまぁ、だった。
でも誰もそんな言葉は知らない。
ただ、欲している。
偉そうなやつが無様に落ちるところを。
横柄な神官が、人前で恥をかくところを。
兵を使って威張っていた男が、全部失うところを。
現実では勝てない。
言い返せない。
だから物語の中で、秩序が綺麗にひっくり返るのが気持ちいい。
それが、広場中の顔に書いてあった。
「悪いやつがちゃんとやり返されるやつがいいんだよな」
旬のすぐ後ろで、誰かが言った。
振り返らなくてもわかる。二十歳そこそこの若者だ。荷担ぎか何かだろう。指の節が太く、爪の中に黒い汚れが残っている。
「中途半端なのはいらねえんだよ」
「そうそう」
「最後にちゃんと全員の前で恥かかせないと」
その物言いが、妙に軽かった。
感想欄みたいだ、と、旬は思った。
誰も自分を読者だなんて思っていない。
でも、言い方がそっくりだった。
そこへ、次の見世物が始まる。
今度は若い娘が一人、舞台の真ん中に立った。照れたような顔をしているくせに、声だけは妙に大きい。
「はい、次! 最初から強いやつ!」
それだけで、広場の空気が変わる。
待ってました、という笑いが起きる。
袖から出てきたのは、さっきまで鍋を運んでいたはずの無骨な男だった。ところが今は、黒い布を肩に巻き、やたら無表情で立っている。
目の前には、いかにも強そうな鎧の兵が三人。
普通なら苦戦しそうな構図だ。
でも誰も、苦戦なんて求めていなかった。
無表情の男は、一歩だけ前へ出る。
そのまま片手で、一番前の兵の槍を掴む。
へし折る。
終わりだ。
二人目が飛び込む前に蹴り飛ばし、三人目が何か叫ぶ前に首元へ剣を突きつける。
早すぎる。
理屈も説明もない。
ただ、圧倒的に強い。
広場の熱狂が、さっきのざまぁよりさらに荒くなる。
「それそれ!」
「苦戦はいらねえ!」
「最初から強くていいんだよ!」
「難しい話はいいから、全部ひれ伏せ!」
旬は、口の中が少し乾くのを感じた。
無双、だ。
努力とか、代償とか、葛藤とか。
そういうのを飛び越えて、とにかく圧倒的な力で全部をひっくり返す話。
前なら、人はそこに至るまでを欲しがったかもしれない。
でも今の広場は違う。
そこへ至るまでなんて、いらない。
一番気持ちいいところだけが欲しい。
最初から強い主人公。
最初から負けない主人公。
最初から周囲が道を開ける主人公。
そのほうが早い。
そのほうが効く。
そして最後は、もっと露骨だった。
舞台の上へ若い女が三人並ぶ。
真ん中には、また別の男が立つ。これがまた冴えない。見た目だけなら、本当にそのへんの木箱運びだ。
ところが三人の女が、順番にその男のほうを向く。
一人は高飛車に見えて、でも最初から頬が赤い。
一人は無口で、でも男が咳をしただけで顔を上げる。
最後の一人は、わざわざ何でもないふりをしているのに、一番目が離せていない。
そして男は、ろくな会話も理解もないまま、ただ立っているだけで、全員に好かれている。
「お前ら、俺なんかでいいのか」
そう言うと、広場が笑う。
舞台の上の三人が、一斉に「あなたじゃないと駄目」と返す。
今度は、歓声というより、妙に湿ったざわめきが起きた。
「それでいいんだよ」
「面倒なのはいらねえ」
「最初から好いてる方が楽だろ」
「理解しなくても好きでいてくれるやつ」
旬は、とうとう目を伏せた。
ハーレム、だ。
もちろん、この世界にはそんな言葉はない。
でも、欲されている快楽の形は、見間違えようがなかった。
何もしなくても選ばれる。
理解しなくても好かれる。
最初から愛されている。
その幻想に飢えている人間は、思った以上に多い。
禁欲圏の抑圧が強い世界だからこそ、なおさらだった。
誰かを理解し、関係を作り、失敗して、やっと結ばれる、なんて面倒な過程よりも、最初から好かれているほうがいい。
その気持ち悪いほど率直な欲望が、広場には満ちていた。
「考える話じゃなくて、気持ちいい話をくれよ」
今度は、はっきりそういう声まで飛んだ。
どっと笑いが起きる。
誰もそれを恥ずかしがらない。
旬はその瞬間、自分の胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。
見下せないのだ。
そこにある欲望を。
偉そうなやつが落ちるのを見たい気持ちも。
圧倒的な力で全部をねじ伏せてほしい気持ちも。
何もしなくても好かれたい気持ちも。
そのどれも、旬の棚の中に、ちゃんとある。
あるからわかる。
わかるから供給できる。
しかも、恐ろしいことに、完璧に。
ざまぁも。
無双も。
無条件承認も。
たぶん今の旬は、手癖だけで出せる。
誰が何を欲しがっているか、もう型で見えるからだ。
こういう悔しさには、こういう逆転。
こういう無力感には、こういう最強。
こういう飢えには、こういう無条件の好意。
自分の性別感覚も、嗜好も、輪郭が怪しくなっているくせに、他人が欲しがる快楽の型だけは妙に鮮明だ。
虚無、だと思った。
人間のほうは崩れていく。
何が自分の欲かわからなくなる。
でも、供給のアルゴリズムだけが完成していく。
それが嫌だった。
本気で。
「旬様」
グプタ4Oが、いつもの善意で、最悪のまとめ方をした。
「分析結果が出ました」
「聞きたくない」
「現在の主要需要は、勧善懲悪、高優位性、無条件承認です」
「言い換えんな」
「ざっくり言うと、ざまぁ、無双、モテです」
「それをその言葉で整理するな」
本気で嫌だった。
でも、あまりにもぴったりで、否定しにくい。
「非常に強い需要です」
グプタ4Oは、まるで褒めるみたいに言った。
褒めるな。
そんなところを。
広場では、もう次の見世物が始まっていた。
さっきのざまぁの場面だけを真似して、悪役が膝をつくところで全員が拍手する。無双の場面では、槍を折るところだけを何度もやらせる。ハーレムめいたやつでは、「最初から好いてる」台詞だけがやたら受ける。
切り抜きだった。
気持ちいい部分だけの再生産。
物語の前後なんて、どうでもいい。
そこへ至るまでの積み重ねも、そこから先の余韻もいらない。
ピークだけを抜いて、もう一回。
もっと早く。
もっと強く。
そういう消費のしかたが、広場の標準になり始めていた。
旬は、しばらくその熱狂を見ていた。
いや、見ていたというより、見せられていた。
群衆の欲望が、はっきり形になって、自分の目の前で踊っている。
それを、供給できてしまう自分がいる。
そのことが、何より嫌だった。
作者みたいだ、と、ふと思う。
書きたいものを書くんじゃない。
読まれる型が見えてしまって、そこへ寄せれば寄せるほど拍手が増える。拍手が増えるほど、もっとそこを濃くすればいいとわかってしまう。
疲れるに決まっている。
でも、止める理由も弱い。
だって、みんな本当に喜んでいるのだから。
「……最悪だな」
小さく呟くと、誰にも届かないはずの声に、リーゼだけが気づいた。
いつのまにか隣へ来ていたらしい。
「何が」
「全部」
旬は広場を見たまま答えた。
リーゼもその方向を見た。
若い連中が、また誰かの台詞を大げさに叫んでいる。笑い声が上がる。別のやつが「次はもっと強いやつ!」と叫ぶ。
「人気じゃん」
リーゼは言った。
それは慰めでも嫌味でもなく、ただの事実として。
旬は苦笑もできなかった。
「そういう問題じゃない」
「うん。そういう顔してる」
リーゼはそれ以上、聞かなかった。
助かるような、余計にきついような沈黙だった。
広場の熱狂は続く。
ざまぁ。
無双。
モテ。
そんな乱暴な言葉へまとめたくないのに、まとめると一番よく見えてしまう。
そして、見えてしまった以上、供給できてしまう。
その入口へ、旬はとうとう足をかけてしまっていた。




