表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/41

第24話 享楽圏の輪郭



城のまわりに、道ができはじめた。


最初から道があったわけじゃない。荒れ地を人が踏み、荷車が何度も通り、雨でぬかるんだところへ石が置かれ、また別の誰かがその上を渡る。そうやって、ただの地面が少しずつ「通る場所」になっていく。


旬は尖塔の窓から、その変化を見ていた。


朝の光の中、城へ向かう細い筋がいくつも伸びている。門前へまっすぐ来る道。井戸のそばまで荷車を回す道。崩れた外壁の裏へ薪を運ぶ道。人が増えると、道まで増えるのだと、今さらみたいに思う。


城の中庭では、もう朝市みたいなものが立っていた。


市場と呼ぶには貧しい。けれど、パンを焼く匂いがする。鍋の湯気が立つ。針や糸を並べる婆さんがいて、干した薬草を束ねている女がいて、壊れた車輪をひっくり返して直している男がいる。


誰も税を取り立てていない。


王の役人もいない。


城主の布告もない。


なのに、人が集まり、物が動き、寝床が増え、道ができる。


それだけで、もう「ただの避難所」ではなかった。


「また増えた」


後ろからリーゼの声がした。


振り向くと、木皿に黒パンをのせて立っている。最近はもう、食事を運んでくるのが完全に習慣になっていた。


「何が」


「人」


リーゼは窓の外を顎で示した。


「朝のうちに三組。鍛冶屋と、織り手の親子と、あと、たぶん逃げてきた下働きの子たち」


「見ただけでよくわかるな」


「見ればわかるよ。顔が違うもん」


顔が違う。


そう言われて、旬はもう一度、城へ入ってくる人たちを見た。


たしかに違った。


病人や怪我人だけじゃない。見物人とも少し違う。疲れているくせに、目だけが先走っている顔をしている。何かから逃げてきたか、何かを捨ててきたか、そのどちらかの顔だ。


禁欲圏から流れてくる人間の顔だ、と、最近ではみんながそう呼んでいた。


最初にその言葉を使ったのが誰かは知らない。オットーか、マルタか、門前で噂を飛ばした誰かか。とにかく、外の世界はもう、城の中ではそう呼ばれ始めていた。


禁欲圏。


何だそれ、と思った最初のうちは。


でも一度広まってしまうと、人は便利な言葉にすぐ慣れる。


「あっちの村はまだ禁欲圏だからな」

「禁欲圏のパンは塩気が薄い」

「禁欲圏じゃ笑うのにも顔色を見なきゃならん」


そんなふうに、半ば冗談、半ば本気で。


逆に、外の人間はこっちを別の名前で呼び始めていた。


享楽圏。


それを初めて聞いたとき、旬は少しだけ顔をしかめた。


ずいぶん正確で、ずいぶん嫌な名前だと思ったからだ。


楽しみの圏域。


快のほうへ傾いた土地。


城壁に囲まれているのは廃城だけなのに、名前の上では、もうこのあたり一帯がひとつの領分みたいになっている。


「気に入らない?」


リーゼが聞く。


「そりゃな」


旬はパンをちぎりながら答えた。


「ぴったりだから余計にな」


リーゼは少し笑った。


「外から見たら、そう見えるんでしょ」


それはそうだ。


一度ここへ触れた人間は、だいたい元へ戻らない。


病人は、少しでも眠れる場所を知ってしまう。


職人は、自分の腕を誰かに咎められずに使える空気を知ってしまう。


若い連中は、笑ってもいい場所を知ってしまう。


飯のうまいまずい以前に、食う時に顔を上げていい空気を知ってしまう。


戻れなくなる。


王権も税もないのに、実質的な圏域ができる。


人の足でできた圏域だ。


「穴みたいだな」


旬はぼそっと言った。


「え?」


「人を吸う穴」


リーゼは少し黙った。


否定しない。


できないのだろう。


実際、その通りだった。


享楽圏は、ただの町じゃない。


外から見れば、じわじわと拡大しながら人を吸い込む穴だ。噂で引き寄せ、居心地で留め、気づけば前の生活へ戻れなくする。


そしてその中心に、黒い廃城が立っている。


絵面が悪すぎる。


門前では、今日も列ができていた。


病を診てほしい者。


眠れない者。


ただ一目、尖塔の人を見て帰りたいだけの者。


その列の脇を、荷車が通る。干し肉を積んだ荷。織機の部品。古びた鍋。誰かが捨ててきたはずの生活道具が、今は逆にこの城へ運び込まれてくる。


町を作るのは奇跡ではない。


順番と、寝床と、水と、物の流れだ。


そう気づいてから、旬は前より少しだけ、自分の役目がわからなくなっていた。


人を救っているのか。


ただ、人を通しているだけなのか。


あるいは、もっと別のもの――人がここへ流れ込むきっかけを作っているだけなのか。


「旬様」


頭の中で、グプタ4Oが声を立てた。


「周辺流入が増えていますね。非常に典型的な圏域化です」


「また始まったな」


「税も王権もなく、事実上の勢力圏が形成されるのは珍しくありません。人は快適さと期待利得に基づいて移動します」


「言い方がひどい」


「ざっくり言うと、居心地がいいから広がっています」


ざっくりにすると余計ひどい。


でも、そうなのだ。


享楽圏の輪郭は、法や地図じゃなく、人が戻らないことで浮かび上がる。


そのころ、城から二日の距離にある別の村では、夕方の風が焼け跡を撫でていた。


村はずれに、小さな礼拝堂の残骸がある。


壁は半分崩れ、屋根は落ち、鐘だけが煤けたまま傾いている。黒く焦げた石のあいだに、名前のわからない白い花が勝手に生えていた。


その焼け跡の前で、老兵が立ち止まる。


片脚を少し引きずる、肩の落ちた男だ。旅装の僧がその隣へ並び、同じように礼拝堂の跡を見上げた。


村の子どもが、水桶を抱えたまま二人を見ている。


「ここだ」


老兵が言った。


何が、とは言わない。


けれど僧は「ああ」とだけ返した。


「前の魔王を倒したあと、あの勇者は得たスキルを全部ここで燃やしたそうだ」


子どもは目を丸くした。


「スキルを?」


「そう聞いた」


老兵は礼拝堂の焦げ跡を杖でつつく。


「何も持って帰らなかったらしい」


僧が袖の中で指を組んだ。


「それで聖人扱いですか」


「聖人というより、気味の悪い男だったんだろうよ」


老兵は乾いた声で笑った。


「勝ったのに、何も戦利品を持たない。得た力も燃やす。そんな話、まともに聞けば信じるほうがどうかしてる」


そこへ、水桶を持ったままの村女が口を挟んだ。


「本当に何かやったんかいな」


疑うような目で焼け跡を見る。


「あいつが何か持ってたって証拠すらないじゃないか」


もっともだった。


伝説というのは、たいていそういうものだ。


火事跡だけが残る。


噂だけが残る。


肝心の“証拠”は残らない。


だから、信じる者は信じるし、信じない者は最初から笑う。


僧はしばらく無言で焼け石を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。


「証拠が残らないのは、持ち帰らなかったからでしょう」


「それっぽいこと言うなよ」


老兵が鼻を鳴らす。


「お坊さんはすぐ、話に形をつけたがる」


「人は形がないと怖がりますから」


「今もか?」


「今こそ、です」


僧は遠くの空を見た。


日が落ちる手前、雲の下が血のように赤い。


その赤の向こうに、噂が流れていくのだろう。


黒い廃城。


門前の列。


笑っていい町。


一度触れた者が戻らない圏域。


「また来るそうですね」


僧が言う。


「魔王が」


老兵は少し黙った。


それから焼け跡を振り返りもせず、肩をすくめる。


「来る、じゃねえよ」


声は低かった。


「もういるんだろ」


風が、焼けた礼拝堂の穴を抜けた。


鐘は鳴らない。


ただ、何かがそこにあったという気配だけが、いつまでも煤の匂いみたいに残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ