第24話 享楽圏の輪郭
城のまわりに、道ができはじめた。
最初から道があったわけじゃない。荒れ地を人が踏み、荷車が何度も通り、雨でぬかるんだところへ石が置かれ、また別の誰かがその上を渡る。そうやって、ただの地面が少しずつ「通る場所」になっていく。
旬は尖塔の窓から、その変化を見ていた。
朝の光の中、城へ向かう細い筋がいくつも伸びている。門前へまっすぐ来る道。井戸のそばまで荷車を回す道。崩れた外壁の裏へ薪を運ぶ道。人が増えると、道まで増えるのだと、今さらみたいに思う。
城の中庭では、もう朝市みたいなものが立っていた。
市場と呼ぶには貧しい。けれど、パンを焼く匂いがする。鍋の湯気が立つ。針や糸を並べる婆さんがいて、干した薬草を束ねている女がいて、壊れた車輪をひっくり返して直している男がいる。
誰も税を取り立てていない。
王の役人もいない。
城主の布告もない。
なのに、人が集まり、物が動き、寝床が増え、道ができる。
それだけで、もう「ただの避難所」ではなかった。
「また増えた」
後ろからリーゼの声がした。
振り向くと、木皿に黒パンをのせて立っている。最近はもう、食事を運んでくるのが完全に習慣になっていた。
「何が」
「人」
リーゼは窓の外を顎で示した。
「朝のうちに三組。鍛冶屋と、織り手の親子と、あと、たぶん逃げてきた下働きの子たち」
「見ただけでよくわかるな」
「見ればわかるよ。顔が違うもん」
顔が違う。
そう言われて、旬はもう一度、城へ入ってくる人たちを見た。
たしかに違った。
病人や怪我人だけじゃない。見物人とも少し違う。疲れているくせに、目だけが先走っている顔をしている。何かから逃げてきたか、何かを捨ててきたか、そのどちらかの顔だ。
禁欲圏から流れてくる人間の顔だ、と、最近ではみんながそう呼んでいた。
最初にその言葉を使ったのが誰かは知らない。オットーか、マルタか、門前で噂を飛ばした誰かか。とにかく、外の世界はもう、城の中ではそう呼ばれ始めていた。
禁欲圏。
何だそれ、と思った最初のうちは。
でも一度広まってしまうと、人は便利な言葉にすぐ慣れる。
「あっちの村はまだ禁欲圏だからな」
「禁欲圏のパンは塩気が薄い」
「禁欲圏じゃ笑うのにも顔色を見なきゃならん」
そんなふうに、半ば冗談、半ば本気で。
逆に、外の人間はこっちを別の名前で呼び始めていた。
享楽圏。
それを初めて聞いたとき、旬は少しだけ顔をしかめた。
ずいぶん正確で、ずいぶん嫌な名前だと思ったからだ。
楽しみの圏域。
快のほうへ傾いた土地。
城壁に囲まれているのは廃城だけなのに、名前の上では、もうこのあたり一帯がひとつの領分みたいになっている。
「気に入らない?」
リーゼが聞く。
「そりゃな」
旬はパンをちぎりながら答えた。
「ぴったりだから余計にな」
リーゼは少し笑った。
「外から見たら、そう見えるんでしょ」
それはそうだ。
一度ここへ触れた人間は、だいたい元へ戻らない。
病人は、少しでも眠れる場所を知ってしまう。
職人は、自分の腕を誰かに咎められずに使える空気を知ってしまう。
若い連中は、笑ってもいい場所を知ってしまう。
飯のうまいまずい以前に、食う時に顔を上げていい空気を知ってしまう。
戻れなくなる。
王権も税もないのに、実質的な圏域ができる。
人の足でできた圏域だ。
「穴みたいだな」
旬はぼそっと言った。
「え?」
「人を吸う穴」
リーゼは少し黙った。
否定しない。
できないのだろう。
実際、その通りだった。
享楽圏は、ただの町じゃない。
外から見れば、じわじわと拡大しながら人を吸い込む穴だ。噂で引き寄せ、居心地で留め、気づけば前の生活へ戻れなくする。
そしてその中心に、黒い廃城が立っている。
絵面が悪すぎる。
門前では、今日も列ができていた。
病を診てほしい者。
眠れない者。
ただ一目、尖塔の人を見て帰りたいだけの者。
その列の脇を、荷車が通る。干し肉を積んだ荷。織機の部品。古びた鍋。誰かが捨ててきたはずの生活道具が、今は逆にこの城へ運び込まれてくる。
町を作るのは奇跡ではない。
順番と、寝床と、水と、物の流れだ。
そう気づいてから、旬は前より少しだけ、自分の役目がわからなくなっていた。
人を救っているのか。
ただ、人を通しているだけなのか。
あるいは、もっと別のもの――人がここへ流れ込むきっかけを作っているだけなのか。
「旬様」
頭の中で、グプタ4Oが声を立てた。
「周辺流入が増えていますね。非常に典型的な圏域化です」
「また始まったな」
「税も王権もなく、事実上の勢力圏が形成されるのは珍しくありません。人は快適さと期待利得に基づいて移動します」
「言い方がひどい」
「ざっくり言うと、居心地がいいから広がっています」
ざっくりにすると余計ひどい。
でも、そうなのだ。
享楽圏の輪郭は、法や地図じゃなく、人が戻らないことで浮かび上がる。
そのころ、城から二日の距離にある別の村では、夕方の風が焼け跡を撫でていた。
村はずれに、小さな礼拝堂の残骸がある。
壁は半分崩れ、屋根は落ち、鐘だけが煤けたまま傾いている。黒く焦げた石のあいだに、名前のわからない白い花が勝手に生えていた。
その焼け跡の前で、老兵が立ち止まる。
片脚を少し引きずる、肩の落ちた男だ。旅装の僧がその隣へ並び、同じように礼拝堂の跡を見上げた。
村の子どもが、水桶を抱えたまま二人を見ている。
「ここだ」
老兵が言った。
何が、とは言わない。
けれど僧は「ああ」とだけ返した。
「前の魔王を倒したあと、あの勇者は得たスキルを全部ここで燃やしたそうだ」
子どもは目を丸くした。
「スキルを?」
「そう聞いた」
老兵は礼拝堂の焦げ跡を杖でつつく。
「何も持って帰らなかったらしい」
僧が袖の中で指を組んだ。
「それで聖人扱いですか」
「聖人というより、気味の悪い男だったんだろうよ」
老兵は乾いた声で笑った。
「勝ったのに、何も戦利品を持たない。得た力も燃やす。そんな話、まともに聞けば信じるほうがどうかしてる」
そこへ、水桶を持ったままの村女が口を挟んだ。
「本当に何かやったんかいな」
疑うような目で焼け跡を見る。
「あいつが何か持ってたって証拠すらないじゃないか」
もっともだった。
伝説というのは、たいていそういうものだ。
火事跡だけが残る。
噂だけが残る。
肝心の“証拠”は残らない。
だから、信じる者は信じるし、信じない者は最初から笑う。
僧はしばらく無言で焼け石を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「証拠が残らないのは、持ち帰らなかったからでしょう」
「それっぽいこと言うなよ」
老兵が鼻を鳴らす。
「お坊さんはすぐ、話に形をつけたがる」
「人は形がないと怖がりますから」
「今もか?」
「今こそ、です」
僧は遠くの空を見た。
日が落ちる手前、雲の下が血のように赤い。
その赤の向こうに、噂が流れていくのだろう。
黒い廃城。
門前の列。
笑っていい町。
一度触れた者が戻らない圏域。
「また来るそうですね」
僧が言う。
「魔王が」
老兵は少し黙った。
それから焼け跡を振り返りもせず、肩をすくめる。
「来る、じゃねえよ」
声は低かった。
「もういるんだろ」
風が、焼けた礼拝堂の穴を抜けた。
鐘は鳴らない。
ただ、何かがそこにあったという気配だけが、いつまでも煤の匂いみたいに残っていた。




