第22話 リーゼの役目
リーゼは、たぶん誰より先に気づいていた。
俺が前より笑わなくなったことに。
いや、笑わなくなったというより、笑う場所がおかしくなった。
誰かの感情が通ったときだけ、急に反応する。
門前で、見知らぬ男の安堵が流れてきたとき。
泣けなかった女の胸がほどけたとき。
若い兵の中にあった、どうしようもなく俗な「食いたい」「帰りたい」「楽になりたい」が強く刺さったとき。
そういう瞬間だけ、俺の顔は動くらしい。
逆に、自分のままの時間には、何も動かない。
中庭で誰かが喧嘩しても、門の外に風が鳴っても、焚き火の匂いがしても、俺の感情は少し遅れているみたいだった。
それを、リーゼは見ていた。
その夜、俺はまた尖塔の上にいた。
人混みから離れたくて上がっただけなのに、いまではすっかり“そういう場所”になってしまっている。高いところ。見下ろすところ。呼ばれたら降りるところ。
正直、居心地はよくない。
でも下にいると、目が合いすぎる。
誰かの欲が流れ込みすぎる。
だから結局、ここへ逃げる。
足音がした。
軽い。
慣れた足音だ。
「持ってきた」
リーゼが木の盆を抱えて顔を出した。
豆の煮込み、黒パン、少しぬるくなった湯。いつもの、城で食う飯だ。豪華さはない。でも、誰かがちゃんと運んでくるだけで、食い物は急に生活になる。
「……悪い」
「ほんとにそう思ってる?」
「少しは」
「なら食べて」
リーゼは塔の壁際に盆を置いた。
俺はそれを見下ろした。
手を伸ばせば届く。
食べればいい。
でも、その“食べればいい”が、最近ちょっと遠い。
腹は減る。
たぶん。
でも、その減り方が、自分のものなのか、近くにいる誰かのものなのか、前より曖昧だ。
リーゼが隣に座る。
いつもの距離だ。
見上げるでもなく、拝むでもなく、ただ隣に来て、足を投げ出す。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
その感覚すら、最近は信用しにくいのだが。
しばらく黙ったまま、俺はパンをちぎった。
固い。
でも、噛める。
味もする。
たぶんリーゼが一緒にいるからだ。
それに気づくと、少し嫌になる。
嫌になるが、同時に助かる。
最悪の相互依存だ。
「ねえ」
リーゼが言った。
「最近、ほんとに変」
「雑だな」
「雑でいい。前のほうが、まだ笑ってた」
笑ってたかな、と思う。
思い出そうとしたが、すぐには出てこない。
代わりに浮かぶのは、誰かの笑いだ。門前の職人の笑い。馬小屋で吹き出した老婆の笑い。鍋の前で腹を鳴らした老人の顔。そういうのばかりだ。
俺のやつが、薄い。
「最近さ」
気づくと、自分から口を開いていた。
リーゼが何も言わず、続きを待つ。
この沈黙の置き方が、ずるいと思う。
「自分が何を見て嬉しいのか、わからない」
言ってから、少し喉が詰まる。
でも、そこで止めると余計に嫌だった。
「いや、それだけじゃないな……」
塔の外は暗い。
荒れ地の向こうに、火の気はない。
城壁の下では、人の声が小さく混ざっている。誰かが桶を運び、誰かが咳をして、誰かが寝返りを打つ。そういう音が下のほうに沈んでいる。
俺は木椀を膝に置いたまま、ぽつりと続けた。
「たぶん、誰をどう好きなのかも、そのうち分からなくなる」
リーゼが少しだけ息を止めたのがわかった。
でも、茶化さない。
冗談にも逃がさない。
そこがありがたいようで、しんどい。
「俺さ、もう、自分の感情がどこからどこまで自分のなのか、判定しづらいんだよ」
言葉にしてしまうと、思ったより情けなかった。
でも本当だ。
他人のときめきが通る。
親愛が通る。
依存が通る。
誰かと一緒にいたいとか、見てほしいとか、置いていかれたくないとか、そういうのが何度も何度も入ってくる。
そのたびに胸が少し動く。
動くから、余計にわからなくなる。
「リーゼのことも」
そこで一度、言葉が止まった。
言わなくていい気もした。
でも、ここまで来ると、かえって濁すほうが卑怯だった。
「大事だとは思う」
リーゼは黙っている。
月明かりが少しだけ横顔にかかっていた。
「でも、それが俺の気持ちなのか、流れ込んだ誰かのものなのか、わからなくなる」
そこまで言って、やっと本題に触れた気がした。
怖いのはそこだ。
リーゼを大事に思っている気はする。
それはたぶん本当だ。
でも、じゃあそれは何の種類の感情だ、と問われると、急に足場がなくなる。
俺自身にはそういう欲望なんてない、と思っていた。
ずっと、無いほうが楽だった。
空っぽで、借り物だけで動いていると思えたほうが、整理がつく。
でも最近は違う。
むしろ、何かが戻りつつある気がする。
欲とか、親しさとか、何かを選ぶ感じとか、そういう人間っぽいやつが、薄く、でも確かに。
だから余計にわからない。
これは俺のものか。
それとも、ずっと通してきた他人の残りか。
自分が無ではなくなってきているような気がするからこそ、どこからが誰のものなのかわからない。
「……気持ち悪いだろ」
半分、自嘲のつもりで言った。
リーゼはすぐには答えなかった。
慰めない。
大丈夫とも言わない。
ただ、少し考えるみたいに、足元の石を見た。
それから顔を上げる。
「別に」
「別にって」
「気持ち悪くない」
「いや、でもかなり面倒だぞ、これ」
「面倒なのは知ってる」
リーゼの声は静かだった。
でも、逃がさない強さがある。
「でも、それ、あなたが何もないんじゃなくて、あるってことだよ」
俺は顔をしかめた。
「いや、だから、その“ある”が誰のものかわからないって話を」
「分からなくなってるだけでしょ」
「だから、それが困るんだって」
「うん。でも、無いんじゃない」
あまりにもあっさり言うので、少し腹が立つ。
腹が立つが、その断言の仕方に、変な救いもある。
リーゼは本気で、俺に人間的な欲や感情があると信じて疑っていない。
俺が「自分は無だ」と言っても、そもそもそこを認めない。
あなたが認めようとしてないだけだ、とでも言いたげな顔をする。
「あなた、自分のことそういうふうに片づけたがるけど」
「片づけたがる?」
「空っぽだとか、借りてるだけだとか」
リーゼは少しだけ身を乗り出した。
「でも、それで全部説明つくなら、そんなふうに困らないでしょ」
言われて、言葉が止まる。
たしかにそうだ。
本当に全部が借り物なら、ここまで引っかからない。
全部が外から来たものなら、もっと切り分けられる。
でも実際には、切れない。
混ざる。
混ざるということは、こっち側にも何かがあるのかもしれない。
その可能性が、いちばん怖い。
「旬」
リーゼが俺の名を呼ぶ。
それだけで、少しだけ胸が落ち着いた。
最悪だった。
安心した。
たぶん。
いや、待て。
これも本当に俺か?
さっきまでの話の流れで、リーゼの側の何かが少し流れただけじゃないのか?
そう考えた瞬間、安心の足場がまた怪しくなる。
俺は思わず笑いそうになった。
笑えない話なのに、構造があまりにも嫌すぎて、少し笑うしかない感じだ。
「何」
リーゼが眉をひそめる。
「いや……」
俺は木椀を見下ろしたまま言う。
「いまちょっと安心したんだけど、それすら俺のものか怪しいなって思って」
リーゼは黙った。
呆れたのかと思ったが、そうじゃなかった。
「じゃあ、何回でも確認すればいい」
「確認?」
「あなたが何思ってるか」
その言い方が、妙に当たり前だった。
救うとか、導くとか、そういう大げさな響きがない。
ただ、確認する。
人間として、最後までそこにいるかを見ていく。
たぶんリーゼは、最初からその役なんだろう。
俺を救うんじゃない。
神にも教祖にもせず、最後まで「人間としてそこにいるか」を確認し続ける側。
それが、この城の中ではかなり貴重だった。
「……面倒な役だな」
「知ってる」
「やめてもいいぞ」
「やめない」
即答だった。
その即答に、また少し胸が静かになる。
だからやめろって。
そういうのが、一番困るんだよ。
でも困る、と思う時点で、何かはあるのかもしれない。
それが自分のものか、まだわからないとしても。
下のほうで、遠く人の声がした。
門番の交代だろうか。槍の石突きが石床を叩く音が、かすかに塔まで上がってくる。
リーゼは俺の木椀を指でつついた。
「冷める」
「わかってる」
「食べなよ」
「はいはい」
パンをもう一口かじる。
固い。
でも、今はちゃんと味がした。
豆の塩気もわかる。
そのことに少しだけ安心して、すぐに、その安心すら怪しいと思い直す。
本当に面倒くさい。
「旬様」
食事が終わって、リーゼが下へ降りたあとで、グプタ4Oがこっそり口を開いた。
最悪のタイミングを、ちゃんと待っていたらしい。
「現在の旬様は、多数の他者感情を経由して自己認識の基準値が揺らいでいます」
「言い方」
「とても人間的ですね」
「お前、そのまとめ方たまに腹立つな」
「ざっくり言うと、何が本音か少し分からなくなっています」
俺は尖塔の壁に背を預けた。
夜風が少し冷たい。
「……わかってるよ」
「なお」
グプタ4Oは少しだけ間を置いた。
「わからなくなっているからこそ、あるようになった、と錯覚している可能性もあります」
それがいちばん嫌な言い方だった。
そうかもしれない。
本心や欲望が戻ってきているんじゃなくて、境界が揺れてるだけかもしれない。
混線しているだけかもしれない。
でも逆に言えば、混線していることと、何かが戻っていることは、同時に起きていてもおかしくない。
そう思った瞬間、また足場が悪くなる。
何なんだよ、ほんとに。
俺は目を閉じた。
リーゼの声が、まだ少し耳に残っている。
何回でも確認すればいい。
その言葉だけが、嫌なくらいまっすぐだった。
確認する。
たぶん今の俺に必要なのは、結論よりそっちなんだろう。
自分に何があるのか。
どこまでが借り物で、どこからが自分なのか。
すぐにはわからない。
でも、わからないままでも、確認し続けることはできる。
それを少しだけ救いだと思ってしまった時点で、もうだいぶ人間っぽいのかもしれなかった。




