表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/41

第22話 リーゼの役目



リーゼは、たぶん誰より先に気づいていた。


俺が前より笑わなくなったことに。


いや、笑わなくなったというより、笑う場所がおかしくなった。


誰かの感情が通ったときだけ、急に反応する。


門前で、見知らぬ男の安堵が流れてきたとき。


泣けなかった女の胸がほどけたとき。


若い兵の中にあった、どうしようもなく俗な「食いたい」「帰りたい」「楽になりたい」が強く刺さったとき。


そういう瞬間だけ、俺の顔は動くらしい。


逆に、自分のままの時間には、何も動かない。


中庭で誰かが喧嘩しても、門の外に風が鳴っても、焚き火の匂いがしても、俺の感情は少し遅れているみたいだった。


それを、リーゼは見ていた。


その夜、俺はまた尖塔の上にいた。


人混みから離れたくて上がっただけなのに、いまではすっかり“そういう場所”になってしまっている。高いところ。見下ろすところ。呼ばれたら降りるところ。


正直、居心地はよくない。


でも下にいると、目が合いすぎる。


誰かの欲が流れ込みすぎる。


だから結局、ここへ逃げる。


足音がした。


軽い。


慣れた足音だ。


「持ってきた」


リーゼが木の盆を抱えて顔を出した。


豆の煮込み、黒パン、少しぬるくなった湯。いつもの、城で食う飯だ。豪華さはない。でも、誰かがちゃんと運んでくるだけで、食い物は急に生活になる。


「……悪い」


「ほんとにそう思ってる?」


「少しは」


「なら食べて」


リーゼは塔の壁際に盆を置いた。


俺はそれを見下ろした。


手を伸ばせば届く。


食べればいい。


でも、その“食べればいい”が、最近ちょっと遠い。


腹は減る。


たぶん。


でも、その減り方が、自分のものなのか、近くにいる誰かのものなのか、前より曖昧だ。


リーゼが隣に座る。


いつもの距離だ。


見上げるでもなく、拝むでもなく、ただ隣に来て、足を投げ出す。


それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


その感覚すら、最近は信用しにくいのだが。


しばらく黙ったまま、俺はパンをちぎった。


固い。


でも、噛める。


味もする。


たぶんリーゼが一緒にいるからだ。


それに気づくと、少し嫌になる。


嫌になるが、同時に助かる。


最悪の相互依存だ。


「ねえ」


リーゼが言った。


「最近、ほんとに変」


「雑だな」


「雑でいい。前のほうが、まだ笑ってた」


笑ってたかな、と思う。


思い出そうとしたが、すぐには出てこない。


代わりに浮かぶのは、誰かの笑いだ。門前の職人の笑い。馬小屋で吹き出した老婆の笑い。鍋の前で腹を鳴らした老人の顔。そういうのばかりだ。


俺のやつが、薄い。


「最近さ」


気づくと、自分から口を開いていた。


リーゼが何も言わず、続きを待つ。


この沈黙の置き方が、ずるいと思う。


「自分が何を見て嬉しいのか、わからない」


言ってから、少し喉が詰まる。


でも、そこで止めると余計に嫌だった。


「いや、それだけじゃないな……」


塔の外は暗い。


荒れ地の向こうに、火の気はない。


城壁の下では、人の声が小さく混ざっている。誰かが桶を運び、誰かが咳をして、誰かが寝返りを打つ。そういう音が下のほうに沈んでいる。


俺は木椀を膝に置いたまま、ぽつりと続けた。


「たぶん、誰をどう好きなのかも、そのうち分からなくなる」


リーゼが少しだけ息を止めたのがわかった。


でも、茶化さない。


冗談にも逃がさない。


そこがありがたいようで、しんどい。


「俺さ、もう、自分の感情がどこからどこまで自分のなのか、判定しづらいんだよ」


言葉にしてしまうと、思ったより情けなかった。


でも本当だ。


他人のときめきが通る。


親愛が通る。


依存が通る。


誰かと一緒にいたいとか、見てほしいとか、置いていかれたくないとか、そういうのが何度も何度も入ってくる。


そのたびに胸が少し動く。


動くから、余計にわからなくなる。


「リーゼのことも」


そこで一度、言葉が止まった。


言わなくていい気もした。


でも、ここまで来ると、かえって濁すほうが卑怯だった。


「大事だとは思う」


リーゼは黙っている。


月明かりが少しだけ横顔にかかっていた。


「でも、それが俺の気持ちなのか、流れ込んだ誰かのものなのか、わからなくなる」


そこまで言って、やっと本題に触れた気がした。


怖いのはそこだ。


リーゼを大事に思っている気はする。


それはたぶん本当だ。


でも、じゃあそれは何の種類の感情だ、と問われると、急に足場がなくなる。


俺自身にはそういう欲望なんてない、と思っていた。


ずっと、無いほうが楽だった。


空っぽで、借り物だけで動いていると思えたほうが、整理がつく。


でも最近は違う。


むしろ、何かが戻りつつある気がする。


欲とか、親しさとか、何かを選ぶ感じとか、そういう人間っぽいやつが、薄く、でも確かに。


だから余計にわからない。


これは俺のものか。


それとも、ずっと通してきた他人の残りか。


自分が無ではなくなってきているような気がするからこそ、どこからが誰のものなのかわからない。


「……気持ち悪いだろ」


半分、自嘲のつもりで言った。


リーゼはすぐには答えなかった。


慰めない。


大丈夫とも言わない。


ただ、少し考えるみたいに、足元の石を見た。


それから顔を上げる。


「別に」


「別にって」


「気持ち悪くない」


「いや、でもかなり面倒だぞ、これ」


「面倒なのは知ってる」


リーゼの声は静かだった。


でも、逃がさない強さがある。


「でも、それ、あなたが何もないんじゃなくて、あるってことだよ」


俺は顔をしかめた。


「いや、だから、その“ある”が誰のものかわからないって話を」


「分からなくなってるだけでしょ」


「だから、それが困るんだって」


「うん。でも、無いんじゃない」


あまりにもあっさり言うので、少し腹が立つ。


腹が立つが、その断言の仕方に、変な救いもある。


リーゼは本気で、俺に人間的な欲や感情があると信じて疑っていない。


俺が「自分は無だ」と言っても、そもそもそこを認めない。


あなたが認めようとしてないだけだ、とでも言いたげな顔をする。


「あなた、自分のことそういうふうに片づけたがるけど」


「片づけたがる?」


「空っぽだとか、借りてるだけだとか」


リーゼは少しだけ身を乗り出した。


「でも、それで全部説明つくなら、そんなふうに困らないでしょ」


言われて、言葉が止まる。


たしかにそうだ。


本当に全部が借り物なら、ここまで引っかからない。


全部が外から来たものなら、もっと切り分けられる。


でも実際には、切れない。


混ざる。


混ざるということは、こっち側にも何かがあるのかもしれない。


その可能性が、いちばん怖い。


「旬」


リーゼが俺の名を呼ぶ。


それだけで、少しだけ胸が落ち着いた。


最悪だった。


安心した。


たぶん。


いや、待て。


これも本当に俺か?


さっきまでの話の流れで、リーゼの側の何かが少し流れただけじゃないのか?


そう考えた瞬間、安心の足場がまた怪しくなる。


俺は思わず笑いそうになった。


笑えない話なのに、構造があまりにも嫌すぎて、少し笑うしかない感じだ。


「何」


リーゼが眉をひそめる。


「いや……」


俺は木椀を見下ろしたまま言う。


「いまちょっと安心したんだけど、それすら俺のものか怪しいなって思って」


リーゼは黙った。


呆れたのかと思ったが、そうじゃなかった。


「じゃあ、何回でも確認すればいい」


「確認?」


「あなたが何思ってるか」


その言い方が、妙に当たり前だった。


救うとか、導くとか、そういう大げさな響きがない。


ただ、確認する。


人間として、最後までそこにいるかを見ていく。


たぶんリーゼは、最初からその役なんだろう。


俺を救うんじゃない。


神にも教祖にもせず、最後まで「人間としてそこにいるか」を確認し続ける側。


それが、この城の中ではかなり貴重だった。


「……面倒な役だな」


「知ってる」


「やめてもいいぞ」


「やめない」


即答だった。


その即答に、また少し胸が静かになる。


だからやめろって。


そういうのが、一番困るんだよ。


でも困る、と思う時点で、何かはあるのかもしれない。


それが自分のものか、まだわからないとしても。


下のほうで、遠く人の声がした。


門番の交代だろうか。槍の石突きが石床を叩く音が、かすかに塔まで上がってくる。


リーゼは俺の木椀を指でつついた。


「冷める」


「わかってる」


「食べなよ」


「はいはい」


パンをもう一口かじる。


固い。


でも、今はちゃんと味がした。


豆の塩気もわかる。


そのことに少しだけ安心して、すぐに、その安心すら怪しいと思い直す。


本当に面倒くさい。


「旬様」


食事が終わって、リーゼが下へ降りたあとで、グプタ4Oがこっそり口を開いた。


最悪のタイミングを、ちゃんと待っていたらしい。


「現在の旬様は、多数の他者感情を経由して自己認識の基準値が揺らいでいます」


「言い方」


「とても人間的ですね」


「お前、そのまとめ方たまに腹立つな」


「ざっくり言うと、何が本音か少し分からなくなっています」


俺は尖塔の壁に背を預けた。


夜風が少し冷たい。


「……わかってるよ」


「なお」


グプタ4Oは少しだけ間を置いた。


「わからなくなっているからこそ、あるようになった、と錯覚している可能性もあります」


それがいちばん嫌な言い方だった。


そうかもしれない。


本心や欲望が戻ってきているんじゃなくて、境界が揺れてるだけかもしれない。


混線しているだけかもしれない。


でも逆に言えば、混線していることと、何かが戻っていることは、同時に起きていてもおかしくない。


そう思った瞬間、また足場が悪くなる。


何なんだよ、ほんとに。


俺は目を閉じた。


リーゼの声が、まだ少し耳に残っている。


何回でも確認すればいい。


その言葉だけが、嫌なくらいまっすぐだった。


確認する。


たぶん今の俺に必要なのは、結論よりそっちなんだろう。


自分に何があるのか。


どこまでが借り物で、どこからが自分なのか。


すぐにはわからない。


でも、わからないままでも、確認し続けることはできる。


それを少しだけ救いだと思ってしまった時点で、もうだいぶ人間っぽいのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ