第21話 監視役の修道女
アンネリーゼが自分から名乗ったのは、城へ来て三日目の夕方だった。
「教会から来ました」
そう言われた瞬間、中庭の空気が少しだけ硬くなった。
リーゼなんか、露骨に顔をしかめた。
そりゃそうだ。
黒に近い灰色の修道服。きっちり結った髪。疲れてはいるが、背筋だけは妙にまっすぐだ。見た目からして「監視しに来ました」みたいな女だった。
しかも本人が、続けてちゃんと言った。
「監視役です。最初は」
「最初は、って何だよ」
ハインツが鼻で笑う。
アンネリーゼはそっちを見もしなかった。
「必要なら戻って報告するつもりでした」
「必要なら、ねえ」
リーゼの声が冷たい。
「で、いまは?」
アンネリーゼは少し黙った。
その沈黙が、妙に長く感じた。
俺は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。正直、助け舟を出せる気はしない。教会の監視役と聞かされて、歓迎できるほど俺たちは余裕がない。
でもアンネリーゼは、そこで言い訳をしなかった。
「いまは、戻って報告するだけでは足りないと思っています」
きれいな言い方だった。
けれど、それが嘘じゃないことは、この数日で何となくわかっていた。
こいつは享楽に酔っていない。
列に並んでもいないし、前へ出て見せてくれとも言わない。代わりに、ずっと病人の布を替え、孤児の顔を洗い、衰弱した女に水を飲ませている。目立つことはしない。ただ、いちばん手のいるところへ勝手にいる。
それがまた、やりにくかった。
「足りない、って?」
リーゼが刺々しく聞く。
「教会に戻って、何て言うの。ここには異端がいて、人が集まって、でも病人も子どももいて、だから少し待ってください、って?」
アンネリーゼはまっすぐリーゼを見た。
「たぶん、そうは言いません」
「じゃあ何て言うの」
「まだ決めていません」
リーゼが舌打ちしそうな顔をする。
気に入らないのだろう。
監視役だったこともある。
でも、それだけじゃない。
旬のまわりで“わかってる顔”をされるのが嫌なのだ。
その感じは、俺にも少しわかる。
こっちは自分でもよくわかっていないのに、外から理解したみたいな顔をされると腹が立つ。
ただアンネリーゼには、その手の得意げな感じが薄かった。
むしろ逆だ。
理解できていないことを、理解できていないまま抱えている顔だった。
その日の夜、俺は廃城の一角にある崩れかけた回廊で、アンネリーゼと二人きりになった。
たまたまだ。
本当にたまたま。
城の中を歩いていたら、あいつが洗濯した布を絞っていた。月が少し出ていて、石の床がまだ昼の冷たさを残している。桶の中の水は濁っていて、布には血と汗の跡がうっすら残っていた。
「手伝うか」
俺が言うと、アンネリーゼは少し驚いた顔をした。
「似合いませんね」
「お前それ、わりと失礼だぞ」
「すみません」
謝ったくせに、あまり悪いと思っていない顔だった。
俺は桶の横にしゃがんだ。
黙っていると、水の音しかしない。
それでいて、あまり気まずくなかった。
不思議な感じだった。
アンネリーゼはしばらくしてから、ぽつりと聞いた。
「あなたは、どうしてここにいるんですか」
「いまさら?」
「いまさらです」
「雑に言うと、流れ」
「もっと雑ですね」
「そっちは」
俺が聞き返すと、アンネリーゼは布を絞る手を止めなかった。
「修道院に入る前から、役目は決まっていました」
「……へえ」
「家が貧しかったので。下の子を食べさせるには、一人くらい神に返すのが手堅い、という話です」
言い方が、妙に乾いていた。
恨んでいるのか、もう慣れすぎているのか、その両方かもしれない。
「信仰があったわけじゃない?」
「なくはありません」
アンネリーゼは少し考えてから答えた。
「でも、先に役目がありました」
その言葉が、妙に引っかかった。
役目が先。
信仰も人生も、そのあと。
ああ、そういう人間に刺さるやつがあるな、と、変な確信が先に来た。
目が合う。
『他化自在』が、静かに開く。
流れたのは、白い廊下だった。
まだ小さい子どもが、金属の扉の前で立ち止まっている。背丈に合わない大きな服を着せられて、名前ではなく番号で呼ばれる。大人たちは「よくやっている」「偉い子だ」と言う。そのたびに子どもはうなずく。怒られないために。期待を裏切らないために。
やがて、その子は大きな椅子に座る。
誰かの代わりに。
何かを守るために。
壊れてはいけないものの中へ、まだ柔らかいまま押し込まれていく。
周りはみんな「役目だから」と言う。
本人も、そう思うしかない。
でも、その子にはその子の人生があったはずで、好きな色とか、食べたいものとか、どこかへ行きたいとか、そういうどうでもいい欲があったはずなのに、それが一つずつ役目の後ろへ押しやられていく。
最後に残るのは、期待される形だけだ。
アンネリーゼの手が止まった。
布が水の中へ半分落ちる。
呼吸が、一瞬だけ浅くなる。
返ってきたのは、苦しみじゃなかった。
その逆だ。
本当は、何か別のものが欲しかった、という願いだ。
役目じゃない時間。
名前で呼ばれる場所。
誰かのためではなく、自分が何を食べたいか、自分で決めていい一日。
そういう、持てなかった人生への欲求だけが、まっすぐこっちへ来た。
「あ……」
アンネリーゼが、小さく声を漏らした。
「それ……」
言葉にならないらしい。
俺のほうにも、逆流が残る。
期待されることへの嫌悪。
役に立つ形へ押し込められることへの拒否感。
必要とされるほど、自分の輪郭が削れていく感じ。
それはアンネリーゼのもののはずなのに、妙に俺の中にも馴染んだ。
期待される。
見られる。
そこにいろ、と言われる。
最近の俺も、別の形でそれを食らっている。
だからかもしれない。
他人の役割苦が、思ったよりきれいに入ってきた。
「……最悪だな」
思わず呟くと、アンネリーゼがうっすら笑った。
泣く一歩手前で笑う顔だった。
「ええ」
「そこは否定しろよ」
「できません」
その言い方が、妙に正直だった。
しばらくしてから、アンネリーゼは桶の水を見たまま言った。
「教会へ戻ったら、私はたぶん、ここを異端だと言うべきです」
「まあ、そうだろうな」
「でも」
彼女はそこで、少しだけ声を落とした。
「ここにいる病人や子どもや、あの衰弱した女たちを見てしまったあとで、それだけを言うのは違うと思ってしまう」
そこだろうな、と思った。
享楽に酔ったわけではない。
この城の熱に飲まれたわけでもない。
ただ、現場を見てしまった。
教義的に正しい整理と、目の前で必要な世話が、ずれていることに気づいてしまった。
それが、あいつを教会へ戻れなくしている。
「じゃあ、残るのか」
俺が聞くと、アンネリーゼははっきり頷いた。
「少なくとも、いまは」
「享楽圏へようこそ、って言うべきか?」
少し皮肉のつもりで言ったのに、アンネリーゼは首を振った。
「そういうつもりはありません」
「だろうな」
「快いものは、たしかにあります。でも私は、それより先に、ここで放っておけないものを見ています」
その答えが、変にしっくりきた。
享楽じゃない。
世話だ。
人間の世話をすることで残る。
そういう人間が、ここにはたぶん必要だ。
でないと、本当に全部が気持ちよさのほうへ流される。
リーゼがアンネリーゼを嫌うのも、そのへんを嗅ぎ取っているからかもしれない。監視役のくせに、神だの奇跡だのに酔わず、現場の人手として残ろうとしている。そういう立ち位置は、気に入らなくても無視できない。
翌日、二人はまたぶつかった。
病人用の布の配り方で、リーゼが「そっちじゃなくてこっちが先」と言い、アンネリーゼが「熱の高さを優先すべきです」と返す。
空気がぴりつく。
俺が止めようかと思う前に、マルタが横から「どっちも正しいんだから半分ずつだよ!」と割って入った。
そのときの、リーゼとアンネリーゼの睨み合いが、妙に似ていた。
どっちも、俺を神扱いしていない。
どっちも、あくまで人間として見ている。
それが共通しているから、ぶつかるし、たぶんそのうち組む。
奇妙な連帯の芽、みたいなものが、そのへんにもう出ていた。
一方で俺のほうは、アンネリーゼへ流したものの逆流がまだ残っていた。
期待されることが、少し前より鬱陶しい。
「先生」と呼ばれるたび、どこか反射的にうんざりする。
見られること、自分の場所が勝手に決められていくことへの嫌悪が、前よりはっきりした。
恋だの食欲だのだけじゃない。
役割感覚まで、逆流する。
それがわかって、少し怖かった。
「旬様」
グプタ4Oが、例によって要らないタイミングで言う。
「今回の受信は興味深いですね。欲望や親和だけでなく、役割忌避まで共有対象になっています」
「やめろ、急に整理するな」
「自我侵食の領域拡張と見てよいかと」
「その言い方ほんと嫌いだわ」
「ですが事実です」
そこで、少し声を和らげる。
「ただ、対象アンネリーゼは享楽側へ全面傾倒していません。倫理機能を保持したまま定着しつつあります」
「倫理機能って何だよ」
「弱者保護へ向かう傾向です。共同体にとっては有益ですね」
有益、ね。
その通りだ。
でも、そういう言い方をされると、また人を部品みたいに感じてしまう。
最近はそれが少し怖い。
カテゴリで見る感覚が強くなりすぎると、人間そのものが薄くなる。
たぶん、その薄さは俺自身の薄さとつながっている。
アンネリーゼは布を干し終えると、桶を持って立ち上がった。
「明日から孤児の寝床を奥へ移します」
「勝手に決めるなよ」
「必要です」
「……そうかよ」
「はい」
言い切るのが強い。
でも、その強さは教義のためじゃない。目の前の人間が冷えるから、という強さだ。
そういう種類の強情さなら、城には要る。
俺は回廊の外を見た。
荒れ地の向こうに、夕方の光が低く落ちている。城壁の内側では、誰かが水を運び、誰かが子どもを叱り、リーゼがまたスピーカーに文を飛ばしていた。
そこへ、アンネリーゼも入っていく。
享楽圏の中にいながら、享楽そのものではなく、世話と秩序の側へ立つ人間として。
そういう倫理の置き場がひとつ増えたことに、たぶん俺は少しだけ救われていた。




