表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/41

第17話 尖塔の人

廃城に入って最初に起きたのは、感動でも何でもなく、寝床の奪い合いだった。


いや、正確には奪い合いになる前に、グレーテとコンラートが潰した。


「火は中庭! 部屋の中で焚くな、煙がこもる!」


「水場は井戸だけだ、汲む順番を決めろ! 飲み水と洗い水を混ぜるな!」


「寝る場所は歩けない人から! 元気な連中は壁際で十分!」


怒鳴り声が飛ぶ。


荷が運ばれる。


桶が並ぶ。


藁が集められる。


崩れていない部屋、風の通りにくい角、雨漏りしない場所。そういう現実的な価値に沿って、人がざわざわ動いていく。


城ってのは、入った瞬間に魔王が座ってるものじゃないらしい。


まずは寝床と水場と焚き火だ。


そのことに、妙な安心を覚えた。


世界が終わっても、人間はそこからなんだな、と思う。


俺はその騒ぎの端で、できるだけ人の少ないほうへ逃げようとしていた。


門の近くは駄目だ。新しく来る人間と、見に来る人間が混ざる。


中庭も駄目だ。焚き火のそばは自然と人が集まる。


だったら上だ。


単純な話だった。


階段を見つけて、塔へ向かう。


石の階段は途中で欠けていて、何度か足を滑らせかけた。風が上から吹き込んでくる。埃っぽい。寒い。でも静かだ。少なくとも下よりはずっとましだった。


ようやく尖塔の上まで出たとき、俺は心底ほっとした。


壁はひび割れているし、窓も半分ない。でも城壁の外まで見える。荒れた土地が広がっていて、その向こうには道が細く伸びている。人の声も、ここまで来るとだいぶ薄い。


「……ここでいい」


思わず口に出た。


ただの避難だ。


人混みから半歩でも離れたい。それだけだった。


ところが、下から見た連中には、そうは映らなかったらしい。


「先生、そこにいるの?」


下からリーゼの声がした。


身を乗り出して見ると、ずいぶん小さく見える。こっちが高いんだから当然だ。


「いる」


「降りてこないの?」


「静かだからこっちがいい」


リーゼは少し考える顔をして、それから城壁の影へ移動した。


しばらくして、足音が階段を上がってきた。


息を切らしたリーゼが、塔の入口から顔を出す。


「ほんとにここにいた」


「探したのかよ」


「みんなが、どこ行ったって騒ぐから」


それを聞いて、ちょっとうんざりする。


たかだか一人見えなくなったくらいで騒ぐなよ。


そう思いながら、リーゼが持ってきた木椀を受け取った。薄い豆の煮込みと、固いパン。いつものやつだ。


「そういやさ」


リーゼが壁にもたれて言う。


「さっき、『昔話の魔王の城』って言ってたよね。魔王は五年前に討伐されたのに」


「お前が先に言ったんだろ、それ」


「うん。でも、本物の魔王は城になんて住んでなかったもん」


俺はパンをちぎる手を止めた。


「え?」


「突然村に現れて、ものすごい力で世界をめちゃくちゃにして回ったんだから」


言い方が妙に具体的だった。


でも、そこでリーゼは口をつぐんだ。


どういう力だったのか、俺が聞く前に、視線を少し逸らす。


言いたくないのか、うまく言えないのか、たぶんその両方だ。


俺もそれ以上は聞かなかった。


聞いたところで、今の俺に気分のいい話が返ってくる気もしなかったし。


「だから、こういうのはむしろ昔話の魔王の城」


リーゼは周囲を見回した。


尖塔、黒い石壁、荒れ地の向こうに細く続く道。


「絵に描いたみたいだから」


「やめろって。俺はそんなものにはなりたくない」


即答だった。


リーゼは「知ってる」とだけ言って、少し笑った。


その笑い方が、いつも通りで助かる。


下の人間は俺を見上げる。


でもリーゼだけは、普通に塔まで上がってきて、飯を持ってきて、どうでもいい話をする。


その距離だけが、まだまともだった。


ところが、夕方になるころには、そのまともさの外側で、もう別のことが始まっていた。


門前に、人が並んでいた。


「早くない?」


尖塔の窓から見下ろして、思わず呟く。


ほんとに早い。


病を診てほしい者。


眠れない者。


ただ一目見たいだけの者。


どこから聞きつけたのか知らないが、もう列になっている。


グレーテが門のところで仕分けし、コンラートが不審な奴を睨み、マルタが文字の読めない連中に「順番があるから押すな」と言い聞かせている。


城に入ったその日から、門前に列。


何だこれ。


テーマパークか。


「旬様」


頭の中で、グプタ4Oが妙に嬉しそうに言った。


「拠点化の進行が速いですね」


「嬉しそうに言うな」


「人は壁と門を見ると、そこへ意味を置きたがるものです」


「嫌な習性だな」


「共同体形成には有効です」


有効でも嫌だよ。


ただ、降りないわけにはいかなかった。


俺が塔に籠もっていても、結局呼ばれる。いや、呼ばれなくても、向こうの欲求がこっちまで上がってくる感じがもうある。眠りたい、見てほしい、少しでもましになりたい。そういう薄い熱が、城の下のほうからじわじわ来る。


逃げ切れない。


階段を降りながら、もうその時点で少し疲れていた。


門の近くに椅子が用意されていた。


誰が置いたんだよ、こんなもの。


「座って」


リーゼが言う。


「何でそういう準備だけ早いんだ」


「立ったままだと、あなたのほうが先に倒れるから」


正論だった。


俺は渋々座った。


すると、列が少しだけ整う。


前のやつが進み、後ろのやつが一歩下がる。誰も指示していないのに、場がそうなる。


共同体ってやつは、中心が空いていると勝手に誰かを置く。


そして置いたあと、その場所に合う作法まで自分たちで生やす。


怖い。


一人目は眠れない女だった。


目の下に深い影がある。


目が合う。


白いシーツ、遠くで鳴る風鈴、暗い部屋の中で小さな灯りだけがついている。眠る前の、何も起きない時間。そういう断片が流れる。


女の肩が落ちる。


返ってくるのは、苦しみじゃない。ただ「眠りたい」という願いが、少し形を得たときのゆるみだ。


二人目は、乾いた咳をしている老人。


湯気、厚い椀、匙が底に当たる音。喉を焼かない温度の汁物を、ちゃんと座って飲みたい、という欲が返ってくる。


三人目は、ただ見に来ただけの若者だった。


何を望んでいるのかと思ったら、群衆の中で自分の名前を呼ばれる場面が流れた。見てほしい、選ばれたい、こっちを向いてほしい。そういう欲だ。


毎回違う。


でも毎回、苦しみは来ない。


欲望だけが来る。


その欲望に合わせて、俺の側が勝手に動く。


何を見せるか考える前に、もうそういう場面が浮かぶ。


手が伸びる。


声が出る。


「次」


「座れ」


「飯は食ったか」


「水飲め」


自分で喋っておきながら、どこか遠い。


ああ、いま俺、また誰かの欲に押されて喋ってるな、と思う。


それを、もう一人の少し冷めた自分が眺めている。


面白いとか、楽しいとかじゃない。


観察だ。


動かされる体を、後ろから見ている感じ。


俺は人を救っている、というより、人を通している。


その感覚が、日が落ちるころにはかなりはっきりしてきた。


門前の列は切れない。


一人見て、また一人。


安堵、食欲、眠気、承認欲求、誰かのそばへ寄りたい感じ、外へ出たい衝動。


いろんな他人の欲望が、入って、抜けて、少し残る。


自我が削れるというほど劇的じゃない。


でも、日常化し始めている。


そのへんが余計に怖かった。


壊れるなら壊れるでわかる。


でもこれは、少しずつ慣れていくタイプの侵食だ。


「先生」


ふいに、木椀が目の前に出された。


リーゼだった。


またいつのまにか塔へ上がるみたいな気軽さで、門の脇まで来ている。


「食べて」


「……今?」


「今」


周りの何人かが、少し驚いた顔でこっちを見る。


そりゃそうだ。


下の人間から見れば、俺は“高いところから見ている人”で、門前で座っている今も、たぶんそれの延長だ。


簡単には話しかけにくい。


でもリーゼだけは違う。


「口開けろ」くらいの勢いで椀を突きつけてくる。


「自分で食える」


「食べないで後でふらつくでしょ」


「お前、最近容赦なくなってきたな」


「最初からだよ」


その会話が、少しだけ救いだった。


見上げられる位置に置かれていても、リーゼだけはいつも通りの距離で来る。


この差が、たぶんかなり大きい。


いまはまだ、そこまで言葉にできないけど。


飯を食いながらも、列は続く。


俺は一人ずつ見る。


人は俺を見上げる。


俺は人を通す。


そうやって夜が更けていく。


門の外の荒れ地には風が鳴っていて、尖塔の先だけが暗い空へ突き出していた。


「旬様」


グプタ4Oが、やや弾んだ声で言う。


「興味深いですね」


「何が」


「旬様は現在、個別救済と同時に大規模な欲求傾向の収集中です。かなり人間理解が進んでいます」


「言い方が研究者なんだよ」


「なお、カテゴリ化も進んでいます」


その最後の一言が、少し嫌だった。


カテゴリ化。


言われてみれば、たしかに頭のどこかでやっている。


この手の欲望にはこう。


眠れない人間にはこう。


見てほしいだけの人間にはこう。


外へ出たい人間にはこう。


人を、人としてじゃなく、傾向で捉え始めている自分が少しだけいる。


それは便利だ。


便利だけど、かなり危ない。


「……やめろよ」


小さく言うと、グプタ4Oは珍しく少しだけ黙った。


でも、黙ったからって現実は消えない。


尖塔があり、門があり、列があり、下から見上げられる位置に俺がいる。


俺はまだ中心になりたいわけじゃない。


それでも、共同体は勝手に誰かをそこへ置く。


そして一度置かれたら、その位置は簡単には空かない。


夜の終わりに、もう一度だけ尖塔を見上げた。


黒い塔の窓に、火の光が小さく揺れている。


あそこに人がいる、と下から見れば思うだろう。


高いところにいる人。


見ている人。


呼べば降りてくる人。


救う人なのか、通す人なのか、自分でもまだわからない。


ただ、その輪郭だけは、少しずつ城に馴染み始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ