第17話 尖塔の人
廃城に入って最初に起きたのは、感動でも何でもなく、寝床の奪い合いだった。
いや、正確には奪い合いになる前に、グレーテとコンラートが潰した。
「火は中庭! 部屋の中で焚くな、煙がこもる!」
「水場は井戸だけだ、汲む順番を決めろ! 飲み水と洗い水を混ぜるな!」
「寝る場所は歩けない人から! 元気な連中は壁際で十分!」
怒鳴り声が飛ぶ。
荷が運ばれる。
桶が並ぶ。
藁が集められる。
崩れていない部屋、風の通りにくい角、雨漏りしない場所。そういう現実的な価値に沿って、人がざわざわ動いていく。
城ってのは、入った瞬間に魔王が座ってるものじゃないらしい。
まずは寝床と水場と焚き火だ。
そのことに、妙な安心を覚えた。
世界が終わっても、人間はそこからなんだな、と思う。
俺はその騒ぎの端で、できるだけ人の少ないほうへ逃げようとしていた。
門の近くは駄目だ。新しく来る人間と、見に来る人間が混ざる。
中庭も駄目だ。焚き火のそばは自然と人が集まる。
だったら上だ。
単純な話だった。
階段を見つけて、塔へ向かう。
石の階段は途中で欠けていて、何度か足を滑らせかけた。風が上から吹き込んでくる。埃っぽい。寒い。でも静かだ。少なくとも下よりはずっとましだった。
ようやく尖塔の上まで出たとき、俺は心底ほっとした。
壁はひび割れているし、窓も半分ない。でも城壁の外まで見える。荒れた土地が広がっていて、その向こうには道が細く伸びている。人の声も、ここまで来るとだいぶ薄い。
「……ここでいい」
思わず口に出た。
ただの避難だ。
人混みから半歩でも離れたい。それだけだった。
ところが、下から見た連中には、そうは映らなかったらしい。
「先生、そこにいるの?」
下からリーゼの声がした。
身を乗り出して見ると、ずいぶん小さく見える。こっちが高いんだから当然だ。
「いる」
「降りてこないの?」
「静かだからこっちがいい」
リーゼは少し考える顔をして、それから城壁の影へ移動した。
しばらくして、足音が階段を上がってきた。
息を切らしたリーゼが、塔の入口から顔を出す。
「ほんとにここにいた」
「探したのかよ」
「みんなが、どこ行ったって騒ぐから」
それを聞いて、ちょっとうんざりする。
たかだか一人見えなくなったくらいで騒ぐなよ。
そう思いながら、リーゼが持ってきた木椀を受け取った。薄い豆の煮込みと、固いパン。いつものやつだ。
「そういやさ」
リーゼが壁にもたれて言う。
「さっき、『昔話の魔王の城』って言ってたよね。魔王は五年前に討伐されたのに」
「お前が先に言ったんだろ、それ」
「うん。でも、本物の魔王は城になんて住んでなかったもん」
俺はパンをちぎる手を止めた。
「え?」
「突然村に現れて、ものすごい力で世界をめちゃくちゃにして回ったんだから」
言い方が妙に具体的だった。
でも、そこでリーゼは口をつぐんだ。
どういう力だったのか、俺が聞く前に、視線を少し逸らす。
言いたくないのか、うまく言えないのか、たぶんその両方だ。
俺もそれ以上は聞かなかった。
聞いたところで、今の俺に気分のいい話が返ってくる気もしなかったし。
「だから、こういうのはむしろ昔話の魔王の城」
リーゼは周囲を見回した。
尖塔、黒い石壁、荒れ地の向こうに細く続く道。
「絵に描いたみたいだから」
「やめろって。俺はそんなものにはなりたくない」
即答だった。
リーゼは「知ってる」とだけ言って、少し笑った。
その笑い方が、いつも通りで助かる。
下の人間は俺を見上げる。
でもリーゼだけは、普通に塔まで上がってきて、飯を持ってきて、どうでもいい話をする。
その距離だけが、まだまともだった。
ところが、夕方になるころには、そのまともさの外側で、もう別のことが始まっていた。
門前に、人が並んでいた。
「早くない?」
尖塔の窓から見下ろして、思わず呟く。
ほんとに早い。
病を診てほしい者。
眠れない者。
ただ一目見たいだけの者。
どこから聞きつけたのか知らないが、もう列になっている。
グレーテが門のところで仕分けし、コンラートが不審な奴を睨み、マルタが文字の読めない連中に「順番があるから押すな」と言い聞かせている。
城に入ったその日から、門前に列。
何だこれ。
テーマパークか。
「旬様」
頭の中で、グプタ4Oが妙に嬉しそうに言った。
「拠点化の進行が速いですね」
「嬉しそうに言うな」
「人は壁と門を見ると、そこへ意味を置きたがるものです」
「嫌な習性だな」
「共同体形成には有効です」
有効でも嫌だよ。
ただ、降りないわけにはいかなかった。
俺が塔に籠もっていても、結局呼ばれる。いや、呼ばれなくても、向こうの欲求がこっちまで上がってくる感じがもうある。眠りたい、見てほしい、少しでもましになりたい。そういう薄い熱が、城の下のほうからじわじわ来る。
逃げ切れない。
階段を降りながら、もうその時点で少し疲れていた。
門の近くに椅子が用意されていた。
誰が置いたんだよ、こんなもの。
「座って」
リーゼが言う。
「何でそういう準備だけ早いんだ」
「立ったままだと、あなたのほうが先に倒れるから」
正論だった。
俺は渋々座った。
すると、列が少しだけ整う。
前のやつが進み、後ろのやつが一歩下がる。誰も指示していないのに、場がそうなる。
共同体ってやつは、中心が空いていると勝手に誰かを置く。
そして置いたあと、その場所に合う作法まで自分たちで生やす。
怖い。
一人目は眠れない女だった。
目の下に深い影がある。
目が合う。
白いシーツ、遠くで鳴る風鈴、暗い部屋の中で小さな灯りだけがついている。眠る前の、何も起きない時間。そういう断片が流れる。
女の肩が落ちる。
返ってくるのは、苦しみじゃない。ただ「眠りたい」という願いが、少し形を得たときのゆるみだ。
二人目は、乾いた咳をしている老人。
湯気、厚い椀、匙が底に当たる音。喉を焼かない温度の汁物を、ちゃんと座って飲みたい、という欲が返ってくる。
三人目は、ただ見に来ただけの若者だった。
何を望んでいるのかと思ったら、群衆の中で自分の名前を呼ばれる場面が流れた。見てほしい、選ばれたい、こっちを向いてほしい。そういう欲だ。
毎回違う。
でも毎回、苦しみは来ない。
欲望だけが来る。
その欲望に合わせて、俺の側が勝手に動く。
何を見せるか考える前に、もうそういう場面が浮かぶ。
手が伸びる。
声が出る。
「次」
「座れ」
「飯は食ったか」
「水飲め」
自分で喋っておきながら、どこか遠い。
ああ、いま俺、また誰かの欲に押されて喋ってるな、と思う。
それを、もう一人の少し冷めた自分が眺めている。
面白いとか、楽しいとかじゃない。
観察だ。
動かされる体を、後ろから見ている感じ。
俺は人を救っている、というより、人を通している。
その感覚が、日が落ちるころにはかなりはっきりしてきた。
門前の列は切れない。
一人見て、また一人。
安堵、食欲、眠気、承認欲求、誰かのそばへ寄りたい感じ、外へ出たい衝動。
いろんな他人の欲望が、入って、抜けて、少し残る。
自我が削れるというほど劇的じゃない。
でも、日常化し始めている。
そのへんが余計に怖かった。
壊れるなら壊れるでわかる。
でもこれは、少しずつ慣れていくタイプの侵食だ。
「先生」
ふいに、木椀が目の前に出された。
リーゼだった。
またいつのまにか塔へ上がるみたいな気軽さで、門の脇まで来ている。
「食べて」
「……今?」
「今」
周りの何人かが、少し驚いた顔でこっちを見る。
そりゃそうだ。
下の人間から見れば、俺は“高いところから見ている人”で、門前で座っている今も、たぶんそれの延長だ。
簡単には話しかけにくい。
でもリーゼだけは違う。
「口開けろ」くらいの勢いで椀を突きつけてくる。
「自分で食える」
「食べないで後でふらつくでしょ」
「お前、最近容赦なくなってきたな」
「最初からだよ」
その会話が、少しだけ救いだった。
見上げられる位置に置かれていても、リーゼだけはいつも通りの距離で来る。
この差が、たぶんかなり大きい。
いまはまだ、そこまで言葉にできないけど。
飯を食いながらも、列は続く。
俺は一人ずつ見る。
人は俺を見上げる。
俺は人を通す。
そうやって夜が更けていく。
門の外の荒れ地には風が鳴っていて、尖塔の先だけが暗い空へ突き出していた。
「旬様」
グプタ4Oが、やや弾んだ声で言う。
「興味深いですね」
「何が」
「旬様は現在、個別救済と同時に大規模な欲求傾向の収集中です。かなり人間理解が進んでいます」
「言い方が研究者なんだよ」
「なお、カテゴリ化も進んでいます」
その最後の一言が、少し嫌だった。
カテゴリ化。
言われてみれば、たしかに頭のどこかでやっている。
この手の欲望にはこう。
眠れない人間にはこう。
見てほしいだけの人間にはこう。
外へ出たい人間にはこう。
人を、人としてじゃなく、傾向で捉え始めている自分が少しだけいる。
それは便利だ。
便利だけど、かなり危ない。
「……やめろよ」
小さく言うと、グプタ4Oは珍しく少しだけ黙った。
でも、黙ったからって現実は消えない。
尖塔があり、門があり、列があり、下から見上げられる位置に俺がいる。
俺はまだ中心になりたいわけじゃない。
それでも、共同体は勝手に誰かをそこへ置く。
そして一度置かれたら、その位置は簡単には空かない。
夜の終わりに、もう一度だけ尖塔を見上げた。
黒い塔の窓に、火の光が小さく揺れている。
あそこに人がいる、と下から見れば思うだろう。
高いところにいる人。
見ている人。
呼べば降りてくる人。
救う人なのか、通す人なのか、自分でもまだわからない。
ただ、その輪郭だけは、少しずつ城に馴染み始めていた。




