第18話 最初の規則
城に人が住み始めると、最初に足りなくなるのは奇跡じゃなかった。
寝床だ。
水だ。
便所だ。
あと、当たり前だけど、我慢だ。
廃城に流れ込んだ連中は、最初の二日くらいは「壁がある」「屋根がある」だけで満足していた。門が閉まる。風が少し弱い。夜に野犬が顔を出さない。それだけで十分ありがたかったんだろう。
でも三日目になると、駄目だった。
誰がどこで寝るのか。
井戸の水を誰が先に汲むのか。
汚れた布をどこで洗うのか。
飯をどこで配るのか。
そして、誰がどこで排泄するのか。
そういう話が一気に表に出る。
そりゃそうだ。
人間は、感動だけじゃ暮らせない。
「そこは寝床じゃない!」
朝からグレーテの怒鳴り声が飛ぶ。
「通路を塞ぐな! 病人を運べないでしょ!」
別のほうではコンラートが叫んでいる。
「門の前に荷を積むな! いざという時に閉められん!」
井戸のそばでは女たちが揉めていた。
飲み水を先に汲むのか、汚れ物を洗うのが先かで、互いに桶を引き合っている。そこへマルタが割り込み、「飲む水が先に決まってるだろ!」と一喝して、どうにか片づける。
俺は中庭の端に座って、その騒ぎを見ていた。
いや、見ていたというか、ちょっと呆然としていた。
ここ数日、俺がやっていたのは人を見ることだった。眠れないやつ、食えないやつ、泣けないやつ。そういうのに『他化自在』を使って、少しだけ楽にする。
でも、町を作るのはそれじゃない。
順番だ。
寝床だ。
排泄だ。
食料だ。
水だ。
刃物の管理だ。
その現実感に、ちょっと引いた。
いや、引いたら駄目なんだけど。
「旬様」
頭の中でグプタ4Oが言う。
「共同体の維持フェーズへ移行していますね」
「言い方がゲームのチュートリアルなんだよ」
「ですが本質です。快楽と安堵で人は集まりますが、定着には規則が必要です」
その通りすぎて腹が立つ。
しかも規則ってやつは、誰かが立派な理想を語ったから生まれるんじゃない。揉めたから生まれる。臭くなったから生まれる。水が足りなくなったから生まれる。
だいぶ生々しい。
その日、最初の本格的な喧嘩が起きた。
配給の列に割り込んだ男を、後ろに並んでいた別の男が突き飛ばしたのだ。転んだほうも黙っていなくて、すぐ殴り返す。木椀がひっくり返り、薄い粥が石畳に散った。
「やめろ!」
誰かが言ったところで止まらない。
当然だ。
腹が減ってる人間に、やめろは効かない。
俺も立ち上がりかけたが、その前に大きな影が間に入った。
見慣れない男だった。
三十代半ばくらい。肩幅が広く、腕が太い。農具か槍かわからない長い棒を持っていて、それを喧嘩の間に横から差し込む。
「散れ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
でもその一声で、殴り合っていた二人が半歩だけ引く。引いた瞬間、男は棒の石突きで片方の膝裏を払った。もつれたところを、もう片方の胸もとに肩でぶつかって壁へ押し戻す。
うまい。
派手じゃないけど、慣れている動きだ。
「飯が惜しいなら、こぼす前に並べ」
男は吐き捨てるように言った。
「奇跡があっても、殴り合いは物理だ」
その台詞が、妙に城の空気に合った。
周りが少し黙る。
みんな何となく思っていたことを、誰かが言葉にしたからだろう。
俺はその男を見た。
「誰だよ、お前」
男はこっちを見た。
目つきがよくない。
信者の顔じゃない。助けを求める顔でもない。値踏みしている顔だ。
「ハインツ」
ぶっきらぼうに名乗る。
「もとは傭兵崩れだ。門が開いてると聞いたから来た」
「開いてるっていうか、まだ壊れてるだけだが」
「同じことだ」
言い方が可愛くない。
でも嫌いじゃなかった。
少なくとも、この男は酔っていない。
「俺はあんたに心酔してるわけじゃない」
ほら来た。
「奇跡だ聖者だって話も半分は胡散臭いと思ってる」
「半分かよ」
「半分は事実かもしれん。だが、壁と門と槍が必要なのは、事実のほうだ」
そう言って、ハインツは棒を肩に担いだ。
残るのか、と聞く前に、勝手に門のほうへ歩いていく。
ああいう手合いは強い。
納得したから残るんじゃない。必要だから残る。そういう実務家は、たぶん今の城に一番要る。
その日のうちに、役割がはっきりし始めた。
グレーテは物資と人手を握った。
誰がどこで寝るか。
誰が水を運ぶか。
病人に毛布を回す順番。
焚き火のそばへ近づけるべき人間と、そうでない人間。
全部、あの人が仕切るようになった。
向いているからだ。
誰も文句は言うが、最終的に従う。
グレーテは聞くふりをして、最後は必要なほうを通す。そういう顔をしている。
コンラートは門と見張りを固めた。
ハインツが加わってからはさらに早かった。
どこに立てば門を塞げるか。
夜番を何刻ごとに交代するか。
外から来る者をどこで止めるか。
門の前に積んではいけない物。
塔へ上がる人数。
そういうのを、元兵士と元傭兵が勝手に決めていく。
「刃物は門で預かる」
最初にそう言ったのはコンラートだった。
当然、揉めた。
「何でだよ」
「自分の包丁だぞ」
「飯も作れねえじゃねえか」
文句は山ほど出る。
でもコンラートは首を振った。
「調理場で使う分は貸し出す。終わったら返せ。私物で持ち歩くな」
「信用してねえのか」
そこへハインツが割り込む。
「してない」
即答だった。
「喧嘩した時に刺されるからだ」
あまりにも身も蓋もなくて、逆に誰も反論しづらい。
結局、刃物持ち込み禁止を徹底させたのは、感動でも幻でもなかった。門番の腕と、槍と、睨みだった。
スキルでは秩序は守れない。
そこが、やけに鮮明だった。
リーゼはスピーカー持ちをまとめ始めた。
これも自然発生だ。
もともと一緒に逃げてきた中に、リーゼ以外のスピーカー持ちが何人もいた。噂を飛ばすやつ、必要物資だけ伝えるやつ、道の状況を中継するやつ。ばらばらに動いていたのを、リーゼがつないでいく。
「水が足りない時はこの文で」
「病人の情報は誇張しないで」
「見物人を呼ぶ言い方しないで」
「門が閉まる時間はちゃんと揃えて」
最初の視聴者だったはずのリーゼが、いつのまにか城の連絡係みたいになっていた。
向いてるんだろうな、と思う。
人の顔が見える言い方をする。
でも必要なことはぼかさない。
ああいうのは、けっこう才能だ。
そしてオットーは、最悪だった。
いい意味で。
あいつは名前を記録し始めた。
いつ来たか。
どこから来たか。
誰と来たか。
熱があるか。
寝床はどこか。
門に預けた刃物は何本か。
そういう実務的な帳面をつける一方で、“あの人の言葉”を勝手に簡単な規則へ変換し始めたのだ。
「『飯はちゃんと食え』は、配給を受けたらその場で捨てるな、に置き換えられます」
「『眠れたなら、それでいい』は、夜番以外は消灯後の騒ぎを控える、で運用できます」
「『無理に立たなくていい』は、病人の列への割り込み禁止と親和性があります」
「やめろ」
俺は本気で言った。
「何で俺の雑な台詞が、規則にされてるんだよ」
オットーは真顔だった。
「規則にしないと、みんな忘れます」
「忘れていいんだよ、そのへんは」
「よくありません。秩序は繰り返せる言葉でないと保てない」
言い返しづらい理屈を出すな。
しかもマルタが横で「たしかに」と頷いている。
終わってる。
共同体が、勝手に俺のどうでもいい発言へ骨を通し始めている。
「非常に良い兆候です」
グプタ4Oが、楽しそうに言った。
「現在、共同体は感情依存型からルール依存型へ部分移行しています」
「何語だよ」
「かなり文明です」
「急に雑だな」
「列形成は文明の第一歩と言えます」
ちょっと意味不明だった。
でも妙に納得してしまったのが腹立たしい。
列は文明。
たしかにそうかもしれない。
殴り合わずに順番を待つ。
自分の欲求が今すぐ満たされなくても、列にいればそのうち番が来ると信じる。
それって、わりと大きな飛躍だ。
しかもその列を支えているのは、奇跡じゃない。
帳面。
槍。
門番。
水桶。
寝床の割り振り。
つまり、ものすごく地味なものばかりだ。
夕方、門のところでまた一悶着あった。
包丁を隠し持って入ろうとした男がいたのだ。料理人だと言い張っていたが、ハインツは一歩も引かなかった。
「預けろ」
「仕事道具だ」
「預けろ」
「盗られたらどうする」
「帳面につける」
オットーが横から紙を出す。
「名前と印を」
「めんどくせえな!」
「めんどくさいんだよ」
ハインツが先に言った。
「だから規則にしてる」
その一言で、男は渋々包丁を差し出した。
俺は少し離れたところから、そのやり取りを見ていた。
誰も泣いていない。
感動もしていない。
『他化自在』も使っていない。
でも、こういう場面のほうが、城を保たせるんだろう。
その現実が、ちょっと可笑しくて、ちょっと怖い。
俺ができることは、人を少し楽にすることだ。
でも、その人間が集まって住めるようにするのは、また別の種類の力だ。
グレーテの声。
コンラートの警戒。
リーゼの連絡。
オットーの記録。
ハインツの槍。
そういうものの上にしか、町は立たない。
そして厄介なことに、そういう骨組みができ始めると、真ん中にいる俺の位置まで少しずつ固定される。
規則の外にいるくせに、規則の中心に置かれる感じだ。
たちが悪い。
夜、尖塔へ戻る途中で、門の前を見た。
槍を持ったハインツとコンラートが立っている。
その横でオットーが帳面をつけ、リーゼが短い文をスピーカーで飛ばしていた。
「本日、門は日没で閉じる。水汲みは明朝。刃物は預かり」
短い。
実用的だ。
でも、その簡素さの中に、町の形が出始めている。
奇跡が町を作るんじゃない。
最初の規則が、町を作る。
それが妙に納得できて、少し嫌だった。




