失ったもの ~アンナ視点〜
夕食の支度をしている時だった。
突然、大きな魔法の発動の気配を感じて振り返ると、テーブルのそばに、分厚い本と、リーアを抱いたシュバルツがいた。
結界をすり抜ける気配は感じなかった。
ドアを開ける音も。
いくらシュバルツが優れた暗殺者でも、リーアを抱いたまま、音も立てずにドアを開けて部屋に来るなんて難しいはずだ。
何より衝撃を受けたのは、意識を失っているリーアと、涙を流して自分に助けを求める弟弟子の姿だった。
アンナとシュバルツは施設で一緒だった期間は短い。
それでも、二人とも卒業したあとで、何度か会うことはあったし、リーアを預かっている間は、頻繁に顔を合わせていた。
アンナは、シュバルツが泣いているところも見たことがなければ、泣いたという話も聞いたことはなく、何より、この男が誰かに助けを求めるなんて、思いもしなかった。
確かに、アンナに薬師としての技術を叩き込んでほしいと依頼はされたが、あれは、アンナとシュバルツにとっては仕事の依頼であり、ちゃんと報酬も受け取り済みだ。
色々と衝撃的ではあったけれど、何か大変なことが起こったのは間違いない。
「落ち着きなさい。なにがあったの?」
シュバルツは、リーアを強く抱きしめたまま、首を振った。
「わからない。わからないんだ。仕事に行って帰ってきたら、リーは俺を拒絶していて、喋れなくなっていて、それで……」
グッ、と一瞬唇を噛み締めたシュバルツは、衝撃的な事実を口にした。
「リーは、即効性のある致死毒を飲んだ」
「なんですって?!」
「すぐに、リー特製の解毒薬を飲ませたから、命はとりとめた。でも……」
また、シュバルツの瞳から涙がこぼれ落ちる。
リーアには、命の尊さを教えてきた。シュバルツといる以上、殺人に手を染める可能性はもちろんある。
それでも、必要最低限に済ませるように言い聞かせたし、何より、自分の命を絶つことだけはしないようにと、厳しく言い聞かせてきた。
シュバルツとリーアが、お互いの死に瀕したときには、もう片方も後を追うと、約束しているのは知っていた。そこまでは、止めるつもりはなかった。
この二人が、どれほど互いに依存し、執着しているか知っていたから。
(それなのに……)
シュバルツをおいて、死を選ぶなんて考えられなかった。
もしも、自分を盾にシュバルツの命が狙われていたとしても、リーアなら、それをシュバルツに伝えることは如何ようにでも出来たはずだし、反撃だって出来ただろう。
仮に、人質にされていたなら、シュバルツがそのことに気が付かないはずはないし、リーアが彼を拒絶したのも、腑に落ちない。
アンナは、とりあえず、リーアの使っていた部屋のベッドに彼女を横たえるとを、リビングでシュバルツと向き合った。
何もわからないから、思考実験をしてみる。
リーアは、シュバルツをおいて死を選ぶほど絶望していた。
なにに?
現実に、だ。
リーアは仕事から帰ってきたシュバルツを拒絶した。
なぜか。
近寄られるのも嫌だったから。
だとしたら、それはなぜ?
シュバルツの裏の仕事が怖くなった?
いや、それはない。
この子は初めから、死の気配を纏うシュバルツを受け入れていた。
二人の絆は固かった。
けれど、そこに亀裂が入る出来事が起こった。
だからこそ、リーアはシュバルツを拒絶した。
リーアが他の人間に思いを寄せた?
あり得ない。
それなら、死を選ぶはずがない。
逆はどうだろう。
シュバルツが他の女に気持ちを移した?
それもあり得ないのは、目の前の憔悴した姿からもわかる。
(でも、待って)
リーアにとっての一番の現実は、シュバルツに深く愛されているということ。
そのことに絶望したなら、シュバルツに愛されているという現実がひっくり返ったということだ。
二人の間に亀裂が入ったということも、リーアがシュバルツを拒絶したということの理由にもなる。
シュバルツは、仕事のために外に出ていた。
その間に、シュバルツの気持ちを信じられなくなるような出来事があったということだ。
誰かに吹き込まれた?
仮にそうだとしても、リーアは簡単に信じたりしない。本人に確認するか、自分の目で確かめるまでは。
自分の目で確かめる?
「ねぇ、アンタ、仕事のときはいつもリーアを置いていってたの?」
「最初は。だけど、旅の途中でリーを一人にした隙に誘拐されて、それ以来一緒に連れて行ってた」
「今日も?」
「いや、今日は宿で待ってるように言ってあったし、誰が来ても部屋のドアを開けないように言ってあった」
リーアがシュバルツの指示を無視して、誰かを部屋に上げたとは考えにくい。
「リーアがおかしくなったのは、今日、仕事から帰ってからなのよね?」
「そう。朝は普通だった。確かに、帰った時間はリーに伝えてたよりも遅くなったけど」
たぶん、帰ってきた時間は関係ない。
宿の周りに怪しいやつがいれば、シュバルツが気が付かないはずがない。
だとしたら、「誰かがきた」のではなく、「リーアから行った」可能性が高い。
誰かに呼び出された?
リーアは、そんな罠にハマるほど愚かではない。
それなら、自分の意思で、外に出たということだ。
なんの為に?
シュバルツの仕事を見る為。
「ねぇ、なんで今日は置いていったの?」
「アンナは聞いてない?レッド・アイの偽物が出たって話」
「ああ。どっかの国で粗悪品を売りつけるレッド・アイがいるとは聞いたけど」
「ソイツの始末に行った。リーは知らないほうがいいと思って」
「犯人は女、よね?」
「ああ。リーより少し年上の。それがどうかした?」
わかった気がする。
まだ、コイツに確かめないといけないけど。
「リーアは仕事の内容を知らなくて、そんで、アンタはターゲットにハニートラップを使って始末した。あってる?」
「……まさか」
「そのまさか、ね。たぶん、リーアはアンタを尾行したのよ。それで、他の女に親しく触れるアンタを見てしまった」
「でも!最後まで見てたら、俺が遺体を隠すところも……いや……」
「アンタは、遺体の始末を見られるようなヘマはしないでしょ?まあ、リーアに尾行されて気が付かなかったってことも驚きだけど」
「俺が、やり方を間違ったせいだ」
目の前で、ただでさえ憔悴していた男が、更に落ち込む。
「仕事の内容くらいは伝えるべきだったでしょうね」
アンナは、はぁっ、と息をついた。
「弁明の機会は与えてあげるけど、少しの間、アンタはリーアに接触禁止。逆の立場なら、どれほどショックかわかるでしょ?」
シュバルツは重々しく頷いた。
まあ、この男なら、そんな場面を見たら、リーアを監禁するか、リーアを殺して自分も死んでいるだろう。
「とりあえず、意識が戻るまでは私が責任を持って見守るから、アンタは帰んなさい……って、そういえば、どこから来たの?帰ってきてた?ていうか、どうやってここに来たの?」
「今はクラインベリーにいた。リーアが生き物の転移魔法をこれで覚えたから、俺もそれを使った」
(生き物の転移魔法ですって?!)
アンナはシュバルツが持っていた本を見せてもらう。
膨大な魔力と、繊細な魔法陣の構築が必要になる、かなり難易度の高い魔法。
失敗したら、転移者の身体はねじ切れるか、亜空間に閉じ込められるだろう。
(ほんとに、規格外の二人ね)
アンナはため息をついて、シュバルツに明日また顔を出すように伝えて追い返すと、リーアの部屋へ行った。
リーアは、わずかに眉間にシワを寄せている。
解毒薬を飲んでも、体に回った毒を打ち消すには、それなりに辛い思いをする。
それに、あまりいい夢も見ていないのだろう。
「大丈夫よ。何も心配いらない」
リーアが喋れなくなっているという事実を思い出しながら、アンナはリーアの頭をそっと撫でた。




