11、呼び声(怖さレベル:高)
古い友人、Y田S子(仮名)の話である。
十年程前、彼女はマンションやオフィスの清掃のアルバイトをしていた。
当時の彼女は数ヶ所の現場を受け持っており、それぞれの場所を決められた時間内で清掃して回っていたらしい。
その内の一つが問題のある建物だった。
S子曰く、始めにその現場を紹介された時から違和感を感じていたという。
「Y田さん。もし良ければ追加で一つ、一時間半の現場をお願いしても良いですか? 週一なんですけど、午前中から夕方の間ならいつ開始でも良いんで」
「はぁ……まぁ水曜の朝なら空いてるんで良いですよ」
曜日といい時間といい、随分と決まりが緩い。
オーナー(お客様)がおおらかなのかもしれない。
一時間半という短い作業時間は気に入らないが、「小さなマンションかアパートなら仕方ない」と、彼女は怪訝に思いながらも引き受けたのだという。
その現場は三階建ての小さなデザイナーズマンションで、私も一度前を通りかかったのだが中々に目をひく扉の建物であった。
掃き掃除、モップ掛け、拭き掃除。
早さを売りにしていた彼女は、脇目も降らずに掃除に全集中していたらしい。
二度目の清掃に入る際、何故か上司が様子を見に来た。
初日や新人相手ならともかく、二度目で様子見とは珍しい──というか初めてである。
「やぁ、調子はどう? 上手くやれそう?」
「小さい建物なんで余裕です。でもこのマンション、なんていうか……住人の方は微妙ですね」
言い方は悪いが、現場によって民度の善し悪しがあるらしい。
ファミリー層の多いマンションやしっかりしたオフィスなんかは、挨拶やゴミ出しマナーがキチンとしている。
逆に繁華街やよく分からない古いテナントビルなんかは挨拶しても無視されたり舌打ちされたりするらしい。
このデザイナーズマンションは閑静な住宅地にあり、そこそこ新しく綺麗な建物であるにも関わらず、住人のマナーや雰囲気はいまいちだったそうだ。
「あぁ、このマンションはねぇ……なんていうか、いわゆる社長の愛人さんとか、金持ちの客に住まわせて貰ってる女の人とかが多く住んでるらしいからねぇ」
「はぁ!? そんな事って本当にあるんですか!?」
「あ、これオフレコね。とにかく引き受けてくれて助かったよ。このマンション、何故か人が続かないんだ」
タトゥーの目立つ怖そうな住人もいるし、避けられても仕方のない現場だろうと納得する。
結局彼女は、なぜ上司がわざわざ様子を見に来たのか聞きそびれてしまった。
(新しい現場、時間は短いけど他の現場より作業が楽で良いな)
「小遣い稼ぎには丁度良い」とS子は気楽に構えていた。
ところがひと月半が経つ頃、異変が起きてしまう。
彼女がエントランスを掃除していた所、突然後ろから声を掛けられたそうだ。
「ねぇ」
「……あっ、はい!」
仕事中に声を掛けられる事は殆んどない。
目の前の作業に集中していた彼女は慌てて返事をして振り返る。
──しかし、そこには誰も居なかった。
決して広いとは言えないエントランスホールに、半笑いを浮かべたS子だけがポツンと立ち尽くすだけだ。
(あれ? 空耳?)
釈然としないながらも、S子は再び手を動かして作業に戻る。
そのままエントランスの掃除を終えると、エレベーターで三階まで登り、手すりを拭きながら一階まで戻る作業に取り掛かった。
先程の空耳の事などすっかり忘れ、彼女は雑巾片手に手すりを拭き降りていく。
三階、踊り場、二階──
「ねぇ」
踊り場に到着した時だった。
二度目の明確な呼び掛けに、S子はドキリとしながらも「はい?」と声のした方を振り返る。
しかし──
「え」
やはり後ろには狭い階段が続いているだけで誰の姿もなかったのだ。
流石に二回目となると空耳とは思い難く、気味が悪い。
それに加え、彼女はある事に気付いてしまい心底ゾッとしたという。
(あれ? っていうか今の呼び声、男だった? 女だった? 子供か年寄りかも分からない!)
そんな事があり得るのかと自問自答しながら、彼女はパニックを起こして階段を駆け降りる。
その途中にも「ねぇ」と一度だけ声が掛かったらしいが、今度は返事も振り返りもしなかった。
最低限の掃除だけ済ませた彼女はすぐにバイト先の上司に「件の現場を他の人に代えて欲しい」と電話口で伝える。
急には無理だと言われるだろうが、少しでも早く代わって欲しい──
そう切に願っていると、意外にも上司の反応は優しかった。
「あぁ~、そっかぁ。残念だけど仕方ないね。来週か再来週までに代わりの人見つけるから、あと一、二回だけ出てくれる?」
「え、良いんですか? ありがとうございます!」
嫌味の一つでも言われてもおかしくないのに、有り難い話である。
あと一、二回位なら頑張ろうと覚悟を決める彼女に、上司がソワソワと聞いてきた。
「……で、何かあった?」
「え」
「いや、ほら。前に言ったけどあの現場、人が続かないからさ。何か聞いたとか見たのかなって思って」
何か聞いたって何だ。
見たって何だ。
そう突っ込みながら、S子は「空耳だとは思いますが、何も見てはないですよ」とだけ答えたそうだ。
ちなみに上司の反応は「ひぇ~」の一言だったという。
さて、あと一、二回と決まった以上、やるしかない。
S子は受験の時に使っていたお守りを鞄に入れ、次の週も件のマンションを訪れた。
普段以上の早さで作業をこなし、普段以上に無心で動く。
多少雑でも良いから早く仕事を終えて、余った時間は人目につかない駐車場で過ごすつもりであった。
三階エレベーターの扉を拭き、手すりを拭き降り、二階エレベーターの扉を拭く。
そんな時だった。
「ねぇ」
──きた。
覚悟を決めていたからか、彼女は自分でも驚く程冷静だったという。
「ねぇ」
「ねぇ」
今回は少ししつこいようだ。
やはり声の感じから性別や年代を絞る事は出来ない。
完全に無視を決め込んだS子は、黙々と辺りを拭きながら一階へ向かう。
「ねぇ
S 子 、な ん で 無 視 す る の ? 」
彼女は階段を駆け降りると、掃除道具をかき集めてロッカーに投げ込み逃げ帰った。
掃除道具を集める間にも何度か「S子、ねぇS子」と名前を呼ばれたらしいのだが、マンションを出ると声はパタリと止んだらしい。
もうあと一回の出勤も無理だ──
呼び声だけならまだしも、名前まで呼ばれるなんて──
一気に距離を詰められた感がとにかく恐ろしい。
ガクブルと震えながら、彼女は上司に電話をかける。
すぐに電話に出た上司はS子が要件を伝えるより早く、願ってもない事を口にした。
「あ、丁度良かった。今電話しようと思ってたんだよ。あのマンション、もう出なくて良いよ~」
「は……え!? もしかして次の人が見付かったんですか?」
「いや、見付かってないけどね、俺が出るから大丈夫だよ」
「あ、ありがとうございます。でも良いんですか? あそこ……」
何と言って良いのやら。
口ごもるS子に、上司はあっけらかんと笑ったらしい。
「いーのいーの。俺鈍いし、そういうのよく分かんないし。他にも似たような現場を何件か引き受けてるしねぇ」
サラッととんでも発言をする上司の言葉に甘え、彼女は無事、そのマンションの清掃から外れる事が出来たのだった。
「……って事があったよ」
「ほぁ~、名前呼ばれるのは怖いねぇ」
「ほんとそれ。他でもない、『私』を呼ばれてるんだって実感したっていうか。心臓止まるかと思ったよ」
「ホラー好きの私としては、その上司さんの他の現場も気になるけどね」
「それな」
上司曰く、「俺はド零感」だったらしい。
S子はその三年後に清掃バイトを辞めてしまったのだが、怖い体験をしたのはそのマンションだけだったそうだ。
「もしずっと続けてたら、また別のヤバい現場に当たってたかもね」
そう呟いて、S子はぎこちなく笑った。
余談ですが、このお話は拙作ホラー連載の「二章、トモダチ」の元ネタとなったエピソードだったりします。
元ネタの方が怖いじゃないか! と鼻で笑われそうですね。
ちなみにS子は今も元気です。




