3
隣で動く気配に目を覚ました。目を開く前に身体を転がしてベッドから降りた。手をついて着地。ベッドを見ると、ニナが僅かに手を伸ばしたまま目を丸くしていた。手にはなにも持っていない。二本のナイフは昨夜のままテーブルの上に置いてあった。
「ほっぺたに、糸屑がついてたから」
手を引っ込めながら彼女が言う。安心すると寒さを思い出した。ベッドに戻る。
「朝御飯、食べないの」
外はもう明るかった。季節を考えると七時は過ぎているだろう。でもまだ空腹は感じなかった。
「お腹空いてる?」
「少し」彼女がこう言うのはそれなりに空腹な時だった。出会った頃のように、俺に調子を合わせることはあまりなくなったが、やはりどこか遠慮がちだった。
「先に食べてていいよ」
口を開くより前に、おずおずと身体を寄せてきた。
「寒いから、まだいい」
「今日からしばらく雪が降る。いくら待ってもきっと寒いよ」
彼女は首を横に振るだけで何も言わなかった。
目を閉じる。おちるような感覚。噛まれるか引っ掻かれるのは覚悟して眠ってしまおうか。そう思った時だった。
ノックの音。目を開いて、ベッドから降りる。ニナは自分で毛布を被っていた。
ドアの向こうから声が聞こえた。俺の名前を呼んだその声はナタシャのものだった。ドアを開く。ナタシャ一人のようだった。会うのは二ヶ月ぶり。ダヴィドさんと最後に話をして以来、女達とは誰とも会っていなかった。
「久し振り」ナタシャが言う。笑顔だが、どこかぎこちなさを感じた。
「何の用? まさかと思うけど店長から何か伝言?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど、店長が話してるの聞いちゃって」
「何を」
どこか嫌な予感がした。いや、予感なんてものじゃない。この時点で確信といってもよかっただろう。
「どこの誰かは分からないんだけど、最近、ここら辺でニナちゃんっぽい子を探してる人がいるんだって」
「もしかして親?」
「そんな感じじゃないみたい。ダヴィドさんのところに来たのも三人組の怖い感じの男の人だったらしいし」
「そっか」
しかし、っぽい人、ということは、ニナの写真を持っているわけではないようだ。外出するときは極力特徴を隠すような格好をしているし、すぐにどうこうはないはず。ただ、当たりをつけてダヴィドさんの店に行ったのだとしたら、ここへ来るのは時間の問題だろう。俺がいるうちならいい。いないうちにドア穴を覗き込まれでもしたら、高確率でアウトだ。引っ越すか。いや、ここで大きな動きなんてしたら余計な注目を集めてしまう可能性がある。
そもそもニナを探しているのは誰なのだろう。自由に動かせる手下がいるような立場の奴とニナが関係者ならば、ダヴィドさんの調査でなにもでないはずがない。考えられるとすれば、どこからか噂を聞き付けてやってきた連中か。あるいは、ニナが頬を突き刺した貴族か。
「それでねーー、えっと、入ってもいい?」
頷いて招き入れる。そのまま奥に入ろうとすると、玄関でいいと言った。
ひきつった表情のまま、鞄から布に包まれた何かを出した。差し出されるがままに受け取る。掌に乗せた瞬間、それが何か分かった。
「これはどこで?」
「今朝店長がいきなり、どっかに捨ててこいって」
布を取る。二丁の拳銃。
「弾が入ってない方は壊れてて使い物にならないみたい。入ってる方は、使えるけどもう必要ないって」
ナタシャはたどたどしく言った後、伺うように僕を見た。
「いらないなら、持って帰るけど」
「いや、使わせてもらうよ。ありがとう」
「壊れてるやつも?」
「うん」
ニナが持つには最適の武器だった。それで殴られたりしたらかなり痛いだろうが、緊急事態だ。それくらいのリスクは背負おう。
「それじゃあ、用事はそれだけだから」
「うん。ありがとう」
ナタシャが帰ってから、壊れた方の拳銃をテーブルの上に置いてニナを呼んだ。
「銃」ニナは隣に座って呟く。
「うん。使い方は分かる?」
「ここを引く」
引き金を指差す。本かなにかで知っているらしい。しかし見るのは初めてなのだろう。興味津々といった具合に左右に顔を振り視点を変えながら観察している。
「持ってみな」
「いいの?」
頷くと、全く躊躇うことなく手を伸ばした。さっきに会話を聞いていたのかはわからないが、少なくとも、この銃が壊れているほう方だという確証はないはずだ。暴発などの危険性を知らない、無知な子供故の行動。そう取れるが、彼女の場合は、たとえこれが導火線に火の点いた爆弾だとしても迷いなく手に取っただろう。
「重たい」
「そうだろうね。構え方は分かる?」
首を横に振った。彼女の後ろに回って両手を取って教える。
「こんな感じかな。これであとは引き金を引けば」
カチャ、と、なんの前触れもなく音がなった。
「あれ」彼女は首を傾げて銃口を覗き込む。
「弾が込められてないんだ。それは威嚇用」
「威嚇用?」
「そう。ナイフと同じ。知らない人が部屋に入ってきたら、そんな風に構えるんだ」
ニナは大人しく頷いた。カチャカチャと、自分に向けて何度も引き金を引きながら。
朝食後も、ニナは珍しく読書をすることなく銃を構っていた。ベッドに仰向けに転がって、天井に向けて構える。
「あ」と小さな呟き。
「どうかした?」最近新調した仕事着に着替えながら訊く。
「ラナンは知ってる? 私の誕生日」
「誕生日。そういえば知らないな。いつなの?」
「私も分からない。お妃様は知ってるのかな」
「どうだろうね」
「ラナンの誕生日はいつ?」
「さあ。僕も分からないんだ」
「そうなんだ」彼女は嬉しそうに笑った。「一緒だね」
笑みを返しながら、ふと思い付いた。
「それなら明日にしようか」
「私の誕生日?」
「うん。明日なら仕事も休みだから、一緒にお祝いできるし」
「おいわい」上体を起こして僕を見る。
「ケーキ食べたり、プレゼントあげたり」
「プレゼント」両手をついて前のめりになる。いちいち餌に反応する動物のようだった。
「なにか買っておくよ」
ニナは首が取れるんじゃないかと心配になるくらい何度も大きく頷いた。
歩く度に走る痛みにはすっかり慣れてしまった。古い傷もあれば新しい傷もある。怪我の頻度は変わらない。でも、傷の深さは大したことないものが多くなっていた。僕が自己防衛の術を覚えたというのもあるだろう。だけど、おそらくニナが僅かに躊躇うようになったのだと思っている。ニナに自覚があるかは分からない。そんなことは、どちらでもいい。一年という期限。あと十ヶ月。間に合うだろうか。多分、大変なのはこれからだ。今の彼女の中は、きっとぐちゃぐちゃだ。自分の中にある確かな矛盾。常識が引っくり返る恐怖。記憶。罪悪。
僕は、否定も肯定もしない。今まで通り過ごすだけ。彼女が狂い壊れないように、少しずつ示すだけ。求めた分だけ受け入れる。それだけ。
その日の仕事が終ったのはすっかり日が暮れた頃だった。アパートに戻ってきた頃には夜中といってもいい時間。
「ただいま」
ニナは眠っていたらしく、電気をつけるとベッドの上でうにうにと動いた。
夕飯もシャワーも職場で済ませていたため、さっさと着替えると電気を消してベッドに入った。
「おやすみ」
「ん」
寝言みたいな返事。暗闇のなかで、小さく笑った。
翌日は午後からケーキを買いに行った。切ってあるものを適当に何種類か買うつもりだったけど、小さめのホールケーキがあったからそれにした。
プレゼントは本を買ったけど、流石にこれだけじゃあ味気ないと思ってぬいぐるみを買った。三十センチくらいの熊のぬいぐるみ。意外といい値段だった。
アパートに戻ったのは夕暮れ時だった。こういうことは夜にするものだという知識はあったが、ニナがチラチラとケーキの箱を見ていたのでさっさと食べることにした。
俺は一切れ、ニナはホールの半分を食べたところでフォークが止まった。それを見て、プレゼントを渡す。まずは本。汚れ一つない表紙に驚いていた。それから熊のぬいぐるみが入った袋を渡した。袋の口を開けて中からぬいぐるみを取り出した瞬間、ニナの表情が固まった。でもすぐに笑みを浮かべて、ぬいぐるみを胸に抱いた。下手くそな、でも優しい笑みだった。
ベッドに入った。ニナの枕元には熊のぬいぐるみが座っている。たまに手を伸ばして触れているのが分かった。眠れないのだろうか。そんなことを考えている僕も、まるで眠気を感じなかった。
「まだ起きてる?」ニナの声。
「うん。どうかした?」
「眠くなるまでお話してもいい?」
「いいよ。ただし、もう真夜中だ。小さな声でね」
「あの、昼間に噂話を聞いたの」
隣の住人が話していたらしい。このアパートの壁は薄いから、それなりの声量であれば隣部屋の会話くらいは聞き取れる。
「噂話?」
「うん。お姫様が、死んじゃったんだって」
ノエリア姫か。俺が知ったのは最近だが、難病だっていう噂は前々からあったらしい。ニナが噂と言うということは、確定的な口調ではなかったのだろう。どっちにしろ、正直どうでもいい噂だ。確か兄がいるから跡継ぎに困ることもないだろう。
「そうなんだ」
「うん」
それだけのやりとりでニナは黙った。眠ったのかもしれない。どんな反応が正解だったろう。わざわざこうして話すということは、ニナにとっては何か感じるところがあったのかもしれない。単純に、外の情報が珍しかっただけかもしれないけど。
目を閉じて、動きを止める。しばらくして、ようやく眠気を感じた。寝息が遠くなる。匂いが薄くなる。熱だけは感じた。そんな狭間の世界を、複数の足音が破った。
起き上がる。ほとんど同時にニナも起きた。靴を履かせて、銃とナイフを手渡したところで足音が止み、ドアがノックされた。
窓から外を伺う。左右の逃げ道には複数の人影。
銃を下に構えたまま息を潜める。再びノックの音。
「王国軍の者だ。君が保護している少女について話をしたい」
王国軍? 下手な嘘を、と思わなかったわけではない。ただ、ここに俺やニナがいることがばれているのなら、このまま黙っていることが最善とは思えなかった。それに、もしもそれが本当なら――
「王国軍の兵士が何で彼女を?」
ドアから距離をとったまま問いかける。それでも、向こう側から緊張が伝わってきた。
「その少女は、いや、その方は、王家の血を引いている。国王の御息女、この国の姫君だ」
「証拠は? それなら、どうして彼女は貧民街で死にかけていた」
「後者については、詳細は分からない。姫様の母――パウラ妃ではないのだが、その方が自宅で亡くなっているのが発見された。犯人は見つかっていないが、おそらく、その際に姫様は犯人から逃げるため家を出た。しかしそれまで幽閉されて育ったため、行く宛もなくさ迷いここへやってきたのだと私は考えている」
「証拠は」
「確実な証拠はない。ただ、姫様の母君の写真がある。姫様に見て頂きたい」
ドアの隙間から一枚の写真が差し込まれた。手に取り、小さな灯りを点けてからニナに見せる。高級そうなドレスを着た女性。ニナの母親にしては少し更けているように見えたが、顔立ちはどことなく似ていた。
「この人が、ニナの言ってたお妃様?」
ニナは頷いた。その間も、じっと写真を見下ろしている。
「証拠を示せというのなら、今、こうして君と話をしていることを考えてほしい。脅すわけではないが、我々は全員が武器を携帯している。ドアや鍵を破壊することも容易い。それをしないのは、万が一にも姫様にお怪我を負わせるわけにはいかないからだ。君にも危害を加えるつもりはない」
「城の兵士だという証拠は?」
「すまないが、これは極秘の任務だ。個人を特定するようなもものの携帯は許されていない。だが、剣と銃は普段から使用しているものだ。国章が彫られている」
淀みない答え。少なくとも、ニナに傷をつけたくないという言葉は信じてもいいと思えた。
「分かった。今から鍵を開ける。だけど、こちらが言うまで下手な動きはしないでほしい。僕も、彼女に怪我をさせたいわけじゃない」
「了解した」
ドアの前に立ち、手を伸ばして鍵を開ける。向こう側で動きがないことを耳で確認してから戻った。ニナの後ろに腰を下ろして片手を身体に回す。もう片手でニナが持っていた銃を取って、こめかみに突き付けた。
「ごめん。しばらく動かないでほしい。相手になにか言われても、喋らなくていい」
「入ってきてもなにもしなくていい?」
「うん」
ドアに顔を向けて口を開く。
「一人だけなら入ってもいい」
小さな話し声が聞こえた。意見が衝突しているのか、声を荒げている者もいた。
ドアが開く。入ってきたのは一人だった。白髪混じりの髪。中年の偉丈夫だった。腰に剣と銃を差している。状況を見て、一瞬だけ目を大きく見開いた。
「剣と銃をこっちに投げてくれ」
男は頷いて、剣は鞘ごと、銃はガンベルトにいれたまま、俺達の少し前に投げた。手に取らなくても、鞘に彫られた国章が確認できた。
「ノエリア姫の代わりってことか」
男の力強い瞳が揺れた。ゆっくりと頷く。
「城に行ったら、ニナはどうなる?」
「推測でしかないが、おそらく一国の姫として教育を受けることになる。親衛部隊も付く。危険が及ぶことはない。そして」
僅かな、躊躇うような間が空いた。
「将来的には、隣国の王子と婚約することになるだろう」
最後の言葉で合点がいった。彼が嘘を吐いていないということも確信できた。
全身から力が抜けた。鈍い音を立てて銃が床に落ちる。それなのに、ニナの身体に回した腕はそのままだった。
城での暮らし。ここでの暮らし。
その方がいいに決まってる。同じ窮屈なら、こんなごみ溜めより、何の不自由もない城の方が。寝ていたら幸運が向こうからやってきたようなものだ。
それなのに、口を開けなかった。沈黙が続く。
「ラナン」気付けばニナが見上げていた。
「寒いの?」
答えなかった。答えたくなかったから。
手を離した。ニナは変わらず僕を見上げている。目を逸らして、男を見た。
「分かった」
男は頷いた。もしかした頭を下げたのかもしれない。
「感謝する」
踵を返してドアを開いた。部下に誰かを呼ぶように命じているようだった。
ニナを見る。碧い目。笑う。彼女は笑わなかった。
「あの人についていくんだ」
「ラナンは?」
「僕は行かない」
「どうして?」
「どうしても」
「いや」
首を振るニナの肩を押そうとすると、反対に飛び付いてきた。それでも離そうとすると、爪が背中に食い込んで、首筋に噛みつかれた。
匂い。熱。痛みすら。
無理矢理に引き剥がした。勢い余ってニナは尻餅を付く。涙にまみれた顔。
銃声。ガラスの割れる音。枕元のぬいぐるみが吹き飛んだ。
更に銃声。腹部。
銃声。肩。
痛みはなかった。衝撃でベッドにもたれる。
音は聞こえていた。叫び声。ニナ。獣みたいだった。銃声。銃声。悲鳴。銃声。悲鳴。
目を開く。銃を持って叫び続けているニナに、複数人が銃を向けていた。
足に力が入らなかった。左手も。右手を伸ばした。倒れる。ニナが振り向いた。滂沱の涙。駆け寄ってくる。後ろに偉丈夫が見えた。ニナの手から銃を取って、男に向ける。足を止めた。
「近寄るな。来たら、殺す」
「分かった。全員、銃を下げろ。もういい。全員で、負傷した者を運べ」
後ろの男達に指示を出す。それに従ったところで、また複数の足音が聞こえた。
「ノイエス隊長。これは一体――」
女の声だった。多分、俺を見て言葉を止めた。ぼやけた視界。銃を構えるようなシルエット。その前に男が立った。
「やめろ、エルマ隊長」
「何故ですか」
「彼は――」
引き金を引く。銃弾は床に吸い込まれていった。笑う。久し振りにちゃんと笑った気がした。
「お前らも、ぶっ殺してやる」
笑い続けた。
視界も、匂いも、声も、熱も、何もかもなくなるまで。
真っ白になるまで。




