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翌朝はノックの音で目が覚めた。子供もほとんど同じタイミングで起きたらしい。目を開くと、目の前で大きな目が数回開閉した。
子供を毛布で隠してからベッドを降りる。右足に痛み。夜中のことを思い出しながらドアの前に立つ。除き穴を見ると、ナタシャが立っていた。ドアを開く。
「おはよ、ラナン」
頷く。
「仕事?」
「うん。まぁ今は言伝てだけ。他の店の女の子が殺されたからまた護衛を頼むって。前みたいに私達の同業者を狙ってるのか、それとも無差別なのかは分からないけど、家にいたところを物もお金も取らずに殺されたみたいだから前者じゃないかって店長は言ってる」
「そっか」
ナタシャは俺の肩越しに視線を向ける。なにを見ているのか。ベッドか、テーブルか、本か。いずれにせよ、それは子供に関係するものだった。
「ラナン達も気を付けなよ。ラナンが仕事の時なんて、あの子、一人になるんでしょ?」
「自衛策はとるよ。仕事は今日からってこと?」
「うん」
「じゃあ夕方に迎えに行くから、準備を終わらせておくように言っといて」
「了解です」
城の兵士のように敬礼をしたナタシャは、笑いながら手を振って去っていった。
ドアと鍵を閉めると、毛布から子供が顔を出した。
「おはよう」
今更だけど挨拶をする。子供は少し迷ったような表情を見せてから頷いた。
「おはよう、ラナン」
思わず動きが止まった。呼吸も瞬きも忘れて彼女を見る。おそるおそる口にしたことは、僅かな声の震えで伝わっていた。今もなお、不安げな顔をしている。
「あなたの名前じゃないの?」
息を吸う。吐き出しながら答えた。
「そうだよ。それが、僕の名前だ」
気付けば笑みを浮かべていた。なんの笑みだろう。分からなかった。
「ラナン」
「なに?」
「私の名前はなに?」
答えられなかった。分からないっていうことは分かっていたのに。
「一緒に考えようか」
自然とそう口にしていた。彼女は毛布から飛び出してベッドの上に膝で立った。驚いた表情。
「私の名前を?」
「君の名前を」
彼女は頷いた。何度も。壊れた玩具みたいに。
「そんなに焦らずゆっくり考えよう。とりあえず、朝御飯でも食べながら」
彼女は頷いた。いつもよりも長い朝食になるだろうことを予想しながら、準備を始めた。
いつもの倍くらいの時間をかけて朝食を終えたあと、一緒に城下へいった。一通りの買い物は昨日にうちに済ませてあるから、買うものは一点だけ。古本屋に子供を置いてから、目的の店へ向かった。
買ったものはナイフ二本。大型のものと、小型のもの。本当なら銃でも携帯したいところだが、銃の所持はそれだけで重い罰則が課せられる。絶対に手に入れられないわけでもないが、それほど金に余裕があるわけでもなかった。
予め腰に着けておいたお古のナイフベルトに差す。コートの前を止めて隠した。
古本屋に戻ると、子供はカウンター内の椅子に店主と並んで座っていた。
「ずっと立たせているのは可哀想だからね」という店主にお礼を言ってから店を出た。
「なにを買ったの?」という質問の答えを誤魔化しながらアパートまで戻ってきた。部屋に入って、買ったものを見せる。ただし、小型のナイフだけ。
ベルトから抜いて目の前にやると、引き寄せられるように両手を伸ばしてきた。手の届かない高さまで上げる。
「これを使って良いのは、知らない人がこの部屋に入ってきたときだけ」
子供は頷く。でも視線はずっと上を向いている。
「僕がいないときに誰かが訪ねてきた時どうするか覚えてる?」
「出ない。返事もしない」
「うん。それでも無理矢理入ってきた人にだけ、これを使っていい」
「どうして?」
「どうしても」
不安げな顔。
「ラナンに使ったら駄目なの?」
答えず、笑って見せた。彼女は不安げなままだった。
無理かもしれないとは思っていた。彼女を信じたかったわけじゃない。きっと、ただ試してみたかっただけ。ダヴィドさんがいうところの、僕の躾の成果を。
だから、彼女に刺された時も、切られた時も、ただ彼女を見ていた。彼女はいつも笑っていた。躾がなってない証拠。でも嬉しかった。それは、僕が知るなかで、最も彼女らしい笑顔だったから。安心感もあったのかもしれない。間違いを自覚した彼女を受け止める覚悟が、きっと、僕にはなかったから。傷つく方が楽だった。ダヴィドさんにはくだらない自己犠牲精神だと言われたけど、とんでもない。僕はいつも、楽な方を選択しているだけだった。
猛暑日が続いた日の夜に負った傷は、今まででもっとも重症だった。何度も世話になっている医者に毎日怒られながら過ごし、退院する頃にはすっかり涼しい季節となっていた。
病衣から薄手の長袖に着替えて荷物の整頓をしているとソニヤが入ってきた。軽く手を上げて挨拶する。
「大丈夫?」
「完治とはいかないけどな。週一で通って様子見だ」
「その間にまた傷が増えるんじゃないの?」
「そうなったらここの医者に殴られてまた傷が増えるな」
笑いあってから、鞄を持ち上げる。衣類くらいしか入っていないのに妙に重たく感じた。
「持とうか」
「いや、大丈夫だ」
医者に挨拶をしてから病院を出た。二度と来るなと言われたけど、きっと無理だろう。
「わざわざ昼間に悪いな」
「いいよ。明日休みだから」
そう言うソニヤは、化粧も服装も仕事の時とはまるで違う。こうして人通りの多い道を歩いていても注目されることがないくらい普通の女だった。
「ニナの様子は?」
「相変わらず本読んでる。涼しくなってきたからかな。ご飯もちゃんと食べるようになった」
「ならよかった」
入院中、ニナの世話はソニヤに任せていた。世話といっても出勤途中に三食分の食料を届けるだけだ。何度か忘れて職場にいってしまったことがあったらしいけど、まあ予想できたことだった。翌朝には届けてくれたから問題はない。こういうことをしっかりとこなしてくれるのはナタシャだけど、如何せん面倒見が良すぎる。要らない世話まで焼いてニナに傷つけられでもしたら、ダヴィドさんが病室に殴り込んでくることになっただろう。
数日分の食料を買って、ソニヤとともにアパートの前まで戻ってきた。懐かしい気持ちよりも、焦るような気持ちが勝っていた。
「ここまででいい」
既に袋をぶら下げている右手をソニヤに向ける。
「部屋まで運んでもいいけど。これじゃドア開けれないでしょ」
「大丈夫だ。わざわざありがとな」
「それならいいけど。どういたしまして」
手に持っていた袋を俺の右手にぶら下げて、ソニヤは踵を返した。その背中が見えなくなるのを待たず、アパートに向かって歩き出した。
翌日に早速店へ呼び出された。入院していた間の仕事が溜まっているのだとしたらしばらくは働きっぱなしになるな、と覚悟して言ったが、ダヴィドさんが開口一番口にしたのは、仕事の話でも、当然労いの言葉でもなかった。
「あのガキは捨てろ」
俺が口を開く前に、カウンターに札束を投げた。取引の場でしか見たことがない、少なくとも手にしたことがないくらいの大金だ。
「報酬だ」
「これは仕事なのか?」
「好きに解釈しろ。俺はただ、使える奴を手元に置いておきたいだけだ。あんなガキのためにガラクタになっていくのをこれ以上黙って見てられねえ」
静かな怒りが感じられる声。確信するまでもない。本気だ。ダヴィドさんが本気になれば、俺達を殺すことなんて容易いだろう。こんな話を始めたということは、今の時点でニナが狙われている状況も考えられる。
「残念だったな、ダヴィドさん。俺はもう、とっくにガラクタだ。四肢はどこもどっかが動かしづらいし、特に左手の握力なんか酷いもんで、日常生活でも気になるくらいだ。あんたが期待しているような働きはもう出来ない」
俺の仕事は女達の護衛や血の気の多い客の相手など、身体を張ったものが多い。スラムの若い男は、大体がどこかの団体に入っているから、俺ほど使い勝手がいいとはいえない。だからこそ手元に置いておきたいのだろう。
「俺の目も耳も節穴じゃねえ。そのくらいのことは分かってる。そのうえで言ってんだ。年寄り相手なら若い用心棒がいるってだけで牽制になる。喧嘩早い奴が相手なら、これで脅せ」
ダヴィドさんが取り出したそれは、カウンターに置かれる際、見た目以上の重たい音を立てた。
「それでも向かってくるようなら手か足を撃て。取っ組み合いは無理でも引き金を引くくらい出来るだろ」
「銃の経験はない」
「覚えろ」
「分かった。ただ、子供は捨てない」
「なら俺が処分してやる」
銃を手にとる。勢いままにダヴィドさんの眼前へ突き付けた。
「その時は俺があんたを殺す」
「お前に出来るのか、坊主」
「あんたこそ出来るのか。俺を殺さなかったあんたが、あいつは殺せるのか」
「お前とあのガキは違う。別の生き物といっていいぐらいにな」
ダヴィドさんはポケットから煙草を取り出すと、口に加えて火を着けた。
「お前が俺を刺したのは恐怖からだ。だが、あのガキはなんだ? 愛してるから刺す? お前は本当に理解出来ているのか? 俺は出来ねえ。分かるのは、あのガキはどうしようもないくらいに狂ってるってことだけだ。お前もだ。少しずつ、狂わされていってる」
その言葉に、指に力がこもった。
「撃てよ。あのガキを殺されたくなけりゃあ俺を殺せ」
鋭い眼光が記憶と重なった。同じ年頃の子供と徒党を組んでスリや強盗をしていた頃。ある時、相手を間違えた。あっという間に仲間は殺されて、一番年下のしたっぱで見張りをやらされていた俺だけ生き延びた。でも金を得る術はどれも一人で出来るものではなく、貧民街の端で身動き一つ出来なくなるまで時間はかからなかった。そんなときに現れたのがダヴィドさんだった。一目で分かった。仲間を殺した奴と、同種の人間だと。隠し持っていたナイフを握って、そのまま突き刺した。ダヴィドさんが言ったみたいに怖かったからなのか、仲間の仇を討ちたかったのかは分からない。近くにいた取り巻きたちに囲まれて散々蹴られた。意識を失ってしまえたらよかったのに、恐怖と痛みのせいでむしろはっきりしていて、こんな力が残っていたのかと変なところで感心するほどに泣き叫んだ。ダヴィドさんが止めなければあそこで死んでいたと思う。
銃を突きつけたまま問う。
「なんで俺を殺さなかった」
「お前の今までがそのまま答えだ」
「なんでニナを殺さなかった」
「それは俺のミスだ。まさかお前が名前を付けるまで面倒を見るとは思わなかった。せいぜい、散々に殴って捨てるかと思ったんだがな」
「散々には殴った。一週間腫れが引かない程度にはな」
短くなった煙草を揉み消しながらダヴィドさんは笑った。
「そうか。そこまでは読み通りだったわけだ。なんで捨てなかった」
「殴られて笑ってた」
「ああ。俺が一発殴ったときもそうだったな。だがそれは理由にならねえ」
「俺だって知るかよ。でも、間違いなくそれが理由だ」
あの時に感じたことで、覚えているのは苛立ちだけ。それなのに拳は止まった。嗚咽混じりの笑い声だけが狭い部屋に響いていた。
銃を置く。
「あんたがニナを殺したら、俺はもう二度とあんたの下では働かない」
「そんな勝手が通ると思ってんのか」
「いつまでもあいつと一緒に暮らすつもりは俺にだってない。躾が終わったらさっさと捨てるつもりだ」
「それにどんだけかかる」
「一年、待ってくれ」
ダヴィドさんはまた煙草を取り出して火を着けた。ゆっくり吸って、ゆっくりと煙を吐く。その動作を三回繰り返した。
「いいだろう」
承諾とともにダヴィドさんが提示した条件は三つだった。
期限後はどんな状態であれニナを捨てること。
期限中、ダヴィドさんと俺達は完全に赤の他人となること。
以前の仕事が原因のトラブルも、ダヴィドさんは一切関知しないこと。
「まあせいぜい二人揃って野垂れ死にしないようにな」
嘲笑を含んだ声に笑みを返してから店を出る。久し振りに外に出た気がして長く息を吸い込んだ。
煙草の匂い。
身体にまとわりついたそれを払うように歩き出した。




