1
仕事着に着替えて、財布をポケットに入れた。それだけの動作で、何度、痛みで動きが止まっただろうか。子供は買ったばかりのミニテーブルに両腕を置いて本を読んでいる。視線に気付いたのか、顔をあげてこちらを向いた。
「お仕事ですか?」
丁寧な口調。十歳そこらならおかしくはないのかもしれないが、こいつのそれはあまりに流暢だった。
笑みを作る。
「うん。夜には帰れると思う」
子供は頷いた。そして笑みを浮かべる。
「いってらっしゃいませ」
丁寧すぎる言葉と笑顔は、不思議と合っていた。
「いってきます」
長靴に履き替えてから部屋を出た。右を向く。水場には誰もいなかった。蛇口を捻って顔を洗う。顔をあげると、鏡の中の自分と目が合った。笑みを作ったままの表情だった。子供が浮かべていたものとそっくりで、さっきの疑問の答えが分かった気がした。
踵を返してアパートを出た。店へ向かう。一週間ほど降り続いていた雪は二日前にようやく止み、脇に寄せられてできた山も少しずつ低くなっている。雪が積もる前はそこらじゅうにいた浮浪者はどこかへ移動したのか、それとも山のなかにいるのか。
店が見えてきた。周りには例のごとく雪が山になっている。雪かきの仕事は割りの良いものとは言えなかった。
店の入口横には大小の雪だるまが並んでいた。あの雪じゃあ客もあまり来なかっただろうし、女達が暇潰しに作ったのかもしれない。丸い小石の眼。枯れ枝の口。無愛想だったり怒っていたり笑っていたり。作られた顔。
ドアを開ける。ダヴィドさんが顔を上げた。椅子にもたれて眠っていたようだった。
「来たか」
「眠たいなら仕事内容もナタシャに伝えさせればよかったじゃねえか。それともあまり口外できない仕事なのか?」
「普通とは言えねえが、まあ簡単に言えば買い物。お使いみたいなもんだ」
新しい従業員でも買ったのだろうか。どちらにせよ、ナタシャに伝えられない仕事ではない。つまり他の用事、俺に直接言うべきことがあるのだろう。その内容は予想が付いた。
「あの子供のことか」
「分かってるじゃねえか。まだ飼ってんのか、あのガキを」
「言えばなんでもやるし、奴隷みたいなもんだ」
「主人を傷付ける奴隷がどこにいる」
「これから躾けていく」
ダヴィドさんは鼻で笑う。
「躾が終わったらここに連れてこい。前に言ってた額で買ってやるよ」
俺も同じように笑った。
ダヴィドさんがした買い物は、思った通り、新しい従業員だった。指定された場所に行って金と子供を交換した。子供は不安げな顔をしていたが、取引が終わった後に笑みを作ると、途端に警戒を解いたようだった。今は、俺の隣を歩きながら、自分の生い立ちを話している。さっきまでの表情が嘘のように饒舌だった。あの子供より少し年上に見えるが、口調はずっと幼い。年相応とも言えるだろうけど。
店の前につくと、子供はまた不安げな表情になった。でも、ドアの横にある雪だるまを見て少し和らいだようだった。雪だるま達は相変わらずの表情を浮かべていた。
それからダヴィドさんがやったことは、写真を一枚とって、歳などを訊き、この店で働いてもらうということを言っただけだった。仕事内容などは同僚が来てから聞くこと、それまで待機部屋にいるよう言った。部屋に入る前、子供がまた不安げな顔で俺を見上げてきた。笑いかけると、笑みを返してきた。
待機部屋のドアが閉まると同時に封筒を投げつけられた。胸に当たったそれを取って、中身を確認する。問題なし。
「また何かあればよろしく」
封筒を軽く振って笑みを作る。ダヴィドさんは露骨に嫌な顔をして手を払ってから、雑誌を読み始めた。従業員の名前を考えるのだろう。雑誌で目に止まった名前を適当にもらうのがダヴィドさんの名付け方だった。
ふと思う。
「そういえば、あの子供の名前はなんだったんだ?」
「お前が飼ってるやつか」
「ああ」
「さあな。もう忘れた。思い出したくもねえ」
「それもそうか」
店を出る。見上げると、日の光を遮る建物の向こうに橙色の空が見えた。歩き出す。道中、店に向かう女達と会った。新入りがいることを伝えると、嬉しいのか嬉しくないのかよく分からない顔で「そっか」と言った。
アパートについた頃には辺りが大分暗くなっていた。見上げる。眩しいくらいの橙色から暗い赤色に変わった空。少しだけ汚く感じた。
部屋に入ると、子供はまだ本を読んでいた。最低限の読み書きしか出来ない俺にとって本なんてものは馴染みのないものだった。買い物に城下へ出掛けた時、子供が本屋をじっと見ていたことが買うきっかけとなった。いつも何事もないようにぼうっとしていた子供だったが、やはり退屈だったのか、今朝、本を与えると、早速読み始めた。子供が読んでいるのは古本屋で買ったものだ。だから表紙は色褪せているし、紙もところどころ偏食している。本の内容は知らない。十歳くらいの子供が読める本を店の人間に選んでもらったものだから。あれは一冊読むのにどれほど時間がかかるものなのだろう。
子供が顔を上げた。
「おかえりなさいませ」無表情。
「ただいま」
笑いかける。子供も笑った。俺が言ったとおりに。
手元を見ると、残っているページはもう少ないようだった。
「本は面白い?」
子供は困ったように小首を傾げた。別の問いを浮かべる。
「どんな内容なの?」
今度は俯いた。でも、困っているというよりは考えている風だったからしばらく待ってみる。子供が顔を上げた。
「魔女が太陽を覆い隠してしまって、その魔法を解くために主人公の女の子と仲間が旅をする話です」
「そっか」
笑いかけると子供も笑った。
「面白かった?」
また首を傾げてしまった。笑いかけると、首を傾げたまま笑った。
話を変える。
「僕には丁寧な言葉を使わなくていいよ」
子供はさらに首をかしげた。頭がすっかり横を向いてしまっている。
「とりあえず僕みたいな口調で話してごらん」
困惑しながらも頷いた。じっと俺を見上げて口を開く。
「良い天気だね」
「それは夜に出す話題じゃないと思うよ」
困ったように眉尻が下がったのを見て、つい笑った。彼女も同じように笑った。でもすぐ困った顔に戻る。
「僕の喋り方、駄目?」
「駄目じゃないよ。むしろ、礼儀正しくて良いと思う。でも僕は、この喋り方の方が好きなんだ」
どうして、と言いたげな顔。
「その方が仲の良さそうな感じがするから」
彼女は僅かにうつむく。よく理解出来ないようだった。何が分からないのだろう。砕けた口調で話すと仲が良さそうだと思う感覚か。もしくは仲が良いという感覚そのものが分からないのかもしれない。
無色か単色しかありえない。彼女はそれほどに極端だから。
「ああ、あともうひとつ」
人差し指をたてる。彼女が顔をあげて指先をじっと見た。
「自分のことは、今まで通り私でいいよ」
「どうして」
「僕が、その方が好きだから」
それから夕食を食べた。水場で濡らしたタオルで身体を拭く。彼女も同じようにした。タオルを濡らすついでに流した髪が光沢を放っていた。
ベッドに入る。彼女が壁側。就寝の挨拶をして目を閉じる。あっという間に眠気が襲ってきた。あの程度の仕事で疲れるわけがない、といいたいところだけど、確かな疲労感が全身にのしかかっていた。動く度にいちいち走る痛み。そしてその治癒に、知らず知らず体力を消耗しているのだろう。儲けはいまいちだったが、この体力では最適ともいえるものだったかもしれない。
目を覚ます。そう自覚する前に痛みを感知し、反射的に手を払った。何かに当たる。ベッドが揺れた。
強い痛みは右の二の腕の二点。左手で触れると、指先が濡れた。唾液と血の匂い。呼吸を整えた頃、ようやく暗闇に目が慣れてきた。影が見える。座ったまま手を頬を当てていた。起きた瞬間の記憶がよぎる。手の甲に当たった柔らかい感触。今、彼女がどんな表情をしているのか、想像は容易かった。
「ごめん」
だから僕は謝った。
影が僅かに揺れる。
「どうして謝るの」
不安げな声。僕は答えない代わりに抱き締めた。腕の中で大きく跳ねて、それからは小さな震えが伝わってきた。
両手が上がって、僕の身体を押し返そうとした。その手が僅かに脇腹の傷口に触れて、力が加わる度に吐きそうなほどの痛みが走った。彼女のことを全然知らなかった頃にナイフで刺された傷。あれ以来、この部屋から、僕の持ち物から、鋏も、フルーツナイフも、護身用のナイフも全て捨てた。
力は少しずつ強くなって、押し返すというよりは殴るといったほうが正しいくらいになった。傷口が開くかもしれない。ただでさえ、しばらくは安静にしておくように言われた傷だった。
でも構わない。彼女を責める気もなかった。
だってこれは、正当な反撃だから。
起きてから眠るまで、僕は何度彼女を殴ったのだろう。切ったのだろう。刺したのだろうか。
「ごめん」
再度呟くと、動きが止まった。
「どうして謝るの。あなたは悪いことをしたの」
答えなかった。代わりに謝った。
暗闇の中で、彼女が笑っていたことは分かっているけど、それでも。
ゆっくりと昼食を食べる。仕事がなにもない日はいつもこうだった。どうせ他にすることもないし、この方が腹の減りも遅くなる。
子供が来てからは、食事の時間はさらに伸びた。喋ることに口を動かすようになったからだった。
暖かくなってきた最近の話題はお妃様に関することが多かった。俺としてもその人物に少なからず興味があったし、それに、子供が自発的に笑うのはこの話題の時だけだから。
綺麗で厳しい人。野菜より肉が好き。ピアノが上手。今までに俺が聞いたのはそれくらいだった。おそらく子供自身、多くのことを知っているわけではないのだろう。
「お妃様はピアノが趣味だったんだ」
ためしに聞く。
「趣味、じゃないと思う。私に教えてくれる時だけ弾いてたから」
「じゃあお妃様が好きだったことってなにかある?」
子供は食べ掛けのパンに視線を落とした。考えているみたいだから、今のうちにパンを一口かじる。咀嚼していると子供が顔を上げた。
「旅行」
「へぇ。一緒に行ってたの?」
「ううん」首を横に振る。
「じゃあお妃様一人で?」
また首を横に振る。
「行きたいなって言ってただけ」
「そっか」
子供の目がじっと俺を見た。「なに?」と訊くと、そわそわと挙動不審に身体と目を動かした。
「あなたは行きたい?」
「温泉に?」
首肯。少し考えた。風呂は嫌いじゃないけど、他人と一緒にというのが嫌いだ。でも子供が求めている答えは分かっていたから、その温泉宿を貸しきれるとしたら、と頭のなかで付け足した。
「そうだね。僕も行ってみたい」
子供が嬉しそうに笑った。だから僕も笑った。
午後からは城下へ出掛けた。食料の買い出しついでに、すっかり常連になった古本屋で本を数冊譲ってもらった。表紙が千切れかけているものなど、ただ読むには問題ないが、状態がひどく、売り物にならない本だ。
持って帰ると、子供は早速読み始めた。たった数ヵ月で部屋の一角には本の塔ができている。もともと狭い部屋が、テーブルと本のせいで、歩くところもないような状況。
「読み終った本は捨てても良い?」
夕食を袋から出しながら訊く。子供は顔をあげて首を横に振った。
「全部は嫌」
「なんで?」
「もう一回読みたいのがあるから」
「お気に入りの本ってこと?」
「それもあるけど、なんとなく、もう一回読みたいの。ずっと前に読んだ本とか」
「そっか」
僕は笑って頷く。
「じゃあ、捨ててもいいものだけ選んでおいて。全部溜め込んでたら、この部屋が本で埋まっちゃうからね」
彼女も笑って頷いた。




