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黎明と踊る  作者: 野良丸
夜の章
16/23

1



 カーテンは閉め切っていたけど、日光を完全に遮断するほどの効果はなかった。

 足首すら見たことがなかったんだ。

 ベッドの上に座る彼女を見て、まず、そう思った。考えのままに手が伸びて細い足首に触れる。小さな声。身を縮めるような動き。上体へ手を這わせる。心臓に近付くにつれ大きくなっていく鼓動。通過して、頬を撫でる。

 目が合う。綺麗な目。いや、目だけじゃない。僕にとって、彼女の全てが綺麗に見えた。身体だけじゃない。不安げな吐息でさえも。

 だから彼女は、綺麗な言葉を吐ける。正否関係なく、綺麗な言葉を。

 この行為を終えた後、彼女はどんな言葉を吐くのだろう。まだ綺麗なままなのか、それとも、望み通り、僕達のような言葉を吐くのか。

 笑みを浮かべる。彼女は笑わなかった。表情はずっと変わらない。

 こうするしかなかったんだと思う。彼女にとって、姫様はノエリア姫の代わりだから。自分が出来ることならなんでもするだろう。罪悪感を薄めるため。綺麗でいるため。

 少し可笑しくなった。姫様をノエリア姫の代わりとして見ている彼女を、僕は、姫様の代わりにしようとしている。何のために。それも彼女と同じ。自分のために。

 なんて、くだらない。

 唐突に、身体と心が冷めた。不思議だった。風俗街で会ったどんな相手でも、どんな気分でも、こんな風に心が空っぽになるようなことはなかったから。

「フラットさん?」

 震えた、綺麗な声、顔。僅かに姫様を感じた。姫様が彼女に似てきたのだろう。いいことだ。綺麗すぎるくらいでちょうどいい。

 そんな、言い訳を並べた。

 手を離す。彼女とは目を合わせなかった。

 ベッドから離れて服を着る。自然と動きは早くなった。背後で微かな音。

「何故ですか?」

 答えない。

「至らないところはあるかもしれません。でも私は」

「いいんだ」思わず言葉を遮った。

「君は悪くない」

 彼女はいつだってそうだ。

 コートを着て部屋を出た。冷えた空気に触れると、あっという間に温もりが恋しくなって、白い息を吐き出して笑った。

 間違っていたのは僕だ。僕がどんな人間かなんて、僕が一番分かっているのに。

 彼女に憧れるなど、なんて身の程知らずだろう。

 綺麗になれる気でいたのだろうか。彼女と身体を重ねれば。交われば。一つになれば。なんて馬鹿らしい。まるで食人鬼の発想。ただ単に彼女が美人だからという理由の方が、ずっと健全だ。

 笑い終えると、何もなくなった。僅かに残っていた温もりも。

 虚無感に身を任せて歩いた。城を出て、大通りを抜け、貧民街に入った。一年以上来ていなかったせいか、独特の匂いが鼻に付いた、

 アパートの前を通ってダヴィドさんの店に来た。正しくは、店だった建物だけど。

 看板は付いていたが、そこに書かれている店名は、昔のものとは違っていた。ただ、同じような店であることはなんとなく分かった。

「お客さん?」

 背後で声。振り返ると、女が三人。見た目は若いけれど、多分、全員成人している。不思議だ。化粧の濃さも服装もナタシャやソニヤと変わらないのに、どうして成人していると分かるのだろうか。

「違うよ。懐かしくてね。ここにあった店のオーナーと知り合いだったんだ」

「あぁ、店長の知り合いっていう?」

「店長って、この店の?」

「うん。昔からの知り合いで、ちょっとした事情だとかで譲ってもらったって」

「譲ってもらった?」

「そう言ってたよ」

「その、譲った人は?」

「別の場所でお店開いてるらしいよ。場所までは知らないけど」

「店の名前は分かる?」

 女は首を傾げた後、他の二人を見た。そのうち一人が、曖昧な記憶を探るように、店名を口にした。もしかしたら少し間違っているかもしれないが、彼女達の店長に訊くわけにもいかない。本当にダヴィドさんなら、連絡がいけばすぐに逃げてしまうだろうから。

 店のことを聞きながら、貧民街を少し歩いた。そのうちの一人、最初は知らないフリをしていた男に金を渡して、店名と場所を聞き出した。当然店名は変わっていて、店長もダヴィドという名前ではないようだった。

聞いたとおりに行くと、店はすぐに見つかった。ドアを開ける。内装は元の店そのもの。でも、カウンター内で足を組んで座っている男に見覚えはなかった。一度見たらなかなか忘れられないであろう、焼け爛れた顔をしていた。

 目が合う。盛り上がった瞼の奥で、目が見開かれたような気がした。

「ダヴィドさん?」

「いや、違う」

 ダヴィドさんだ。不思議と確信した。声も変わっていたのに、どうしてだろう。

「その名前は、顔と一緒に捨てた」

「僕と同じだ」

 名乗る。彼は鼻をならした。

「今のお前に名前を教えてやる理由がねえ」

「それもそうだね」

「今ごろ面出しやがって。あと一月早く来たらぶん殴ってやったってのに」

「いいタイミングだったね」

 笑うと、彼は顔をしかめた。これはいつものこと。いつもと言っても、もう一年以上前のいつもだけど。

「助かったんだね」

「俺だけな」

 自然と、彼の背後のドアに目がいった。

「適当に集めた奴らだ。あとは新人が何人かだな」

「そっか」

 分かっていたことだ。今さら感傷を覚えることもない。ただ、ナタシャやソニヤ、女達の顔が浮かんで、消えていくだけ。

「まだ城で兵士なんかやってんのか」

「知ってるんだ」

「その程度の情報は入ってくる。新たな姫ーー妾の子ってのが、あの厄介なガキなんだろう」

「そうらしいね」

「認知せずに放置してたガキを拐うために俺がこんな目にあったかと思うと馬鹿らしくて泣けてくる」

「鬼の目にも、ってやつだね」

「鬼は城の奴等だろうが」

「確かに」

 笑う。ダヴィドさんは鼻から長い息を吐き出した。睨むような目付き。

「すっかり、その口調が身についちまったようだな。素は忘れちまったんじゃねえか?」

「そう思ってたんだけどね」

 昼間のことを簡潔に話すと、彼は可笑しそうに笑った。過ぎた時間のせいか、それとも逃亡生活のせいか。彼も丸くなったのだと、なんとなく察した。

「お前がそこまで腹を立てるなんて、よっぽど善人面したメイドなんだな」

「善人面はしてないよ。ただ、いい人なだけ」

「あぁ、なるほどな」

 彼は煙草に火を点けた。勧められたが、断った。だろうな、と彼は笑って、後ろのドアを一瞬だけ見た。

「どうすんだ? まさか、俺に会いにきただけってわけじゃねえだろ?」

「さあ。なんとなく来ただけなんだ。城にいたくなくて、逃げてきたのかもしれない」

「なら、尚更だ。ここにお前の場所はねえが、客としてなら金が尽きるまで置いてやる」

 女達の写真をカウンターの上に出す。一瞥。当然、知り合いの顔はない。

「ああ。誰でもいいってんなら、こいつの相手でもしてやってくれ」

 彼が手に取ったのは、真新しい写真だった。

「今日から入った新人だ。歳はあのガキと同じだし、お前にはピッタリだろ」

 嘲るような響き。でも、まるで心は揺れなかった。

「ま、それを置いておいても、端から変な客に当たって、いきなり寝込まれても困るからな。つっても、お前は客だし、別の奴がいいってんならーー」

「その子でいいよ」

 自然と答えていた。誰でもよかったのか、それともその子がよかったのかは、自分でも分からなかった。

「そうか。じゃあ待ってろ」

 立ち上がり、背後のドアを開く。顔だけ室内にいれて、彼女の名前を呼んだ。返事はない。彼は部屋のなかに入り、すぐに出てきた。脇に彼女を抱えて。

 薄手のドレス。申し訳程度の化粧。そのどちらも似合わない、小さな身体。幼い顔立ち。

「悪いな、この通り、臆病なやつなんだよ。やっぱ別の奴にするか? 十三の奴ならいるが――」

「いや、いいよ。歩けないようなら、僕が担いでいく」

「悪いな。ほら、立て」

 店長が手を離すと、彼女は膝から落ちた。痛そうな音がした。

 顔を上げた彼女と目があった。

 姫様と同じ眼の色。

 でも、頭に浮かんだのはアルフィンの顔だった。

 何かざらざらしたものが心臓を撫でていった。



 街灯に照らされた道。すれ違うのは、ほとんどが家族連れ。遠出していたのか、大荷物を持っている家族。外食したのか、あの料理が美味しかったと話す家族。城の方へ向かう人はいない。声は後方に消えていく。今日は休日だったのだと気付いた。

 城に戻ると、姫様の部屋へ直行した。ノック。アルフィンの声が返ってきた。ドアを開く。

 着替えを終えたところだったのだろうか。姫様は寝巻き姿で立っていた。その向かいにいるアルフィンは、目が合うと、ゆっくりと頭を下げた。

「いつもより遅い」と姫様が口を尖らせた。謝ると、すぐに笑ってくれた。

 就寝の挨拶をして、アルフィンが部屋を出ていった。ずっと目は合わないままだった。

「なにしてたの?」

「色々と、兵士の仕事だよ」

「前までそんなのなかったのに」

「慣れてきたからね。その分、仕事も増えるんだ」

「ふうん」

 右手を引かれて、ベッドの側へ。先に姫様が潜り込んで、ヘッドボードに腰掛けた。隣に座り、毛布を引き寄せた。姫様の肩まで、僕の胸辺りまで。何を話そうか一瞬だけ考えた。

「夕御飯、何だった?」

 ありふれた問いだったかもしれない。でも、こんなことを聞くのは初めてで、姫様も、少し不思議そうな顔をした。でもすぐに笑みを浮かべて答えてくれた。その料理の味どころか名前すら、僕は知らなかったから大した返事は出来なかったけど。

 代わりに、彼女の名前を呼んだ。目が合う。

「そろそろ、話し方とか呼び方を変えた方がいいかもしれないね」

「変えるって?」彼女は首を傾げた。

「僕は君のことを姫様と呼ぶ。君は、僕のことをフラットって呼ぶんだ」

「どうして?」

「君が姫様で、僕がフラットっていう兵士だから」

 困惑しながらも頷いてくれたが、口調も変えようというと、首を横に振った。出来ないわけじゃないことは知っている。母親に厳しくしつけられてきた彼女は、もともと言葉遣いは丁寧なものだったから。

「どうして、この喋り方じゃ駄目なの」

「駄目なわけじゃない。ただ、変えた方がいいんだ」

 彼女は理解も納得もできないようだった。それは当然のことだった。

「ラナンがそう言うなら、そうする」

 俯きがちな言葉。

「でも、明日からね」

 頷き、頭を撫でて、笑みを浮かべた。いつも通りの笑みを。




 姫様が起きる前に部屋を出た。窓から差し込む冷たい色の光と、暖かい色の電灯。その二色が縄張りを争うように、物音ひとつしない廊下を照らしていた。

 少し遠回りをした。この時間ならもしかしたら、と思ったからだった。数人の給仕とすれ違う。でも、彼女はいなかった。

 城を出る。僅かに湿気を含んだ冷たい空気が頬にはりついた。雨が降った様子はないから、霧でも出ていたのかもしれない。

 足音が聞こえて右を向いた。姿を見て、敬礼する。

「おはようございます」

「おはよう」

 親衛隊長は姿勢を正して敬礼を返した。部下への、特に僕への挨拶なんか雑でいいのに。むしろ無視したっていいのに、彼女は真面目だ。アルフィンと同じくらい。他は全然違うのに。

「こんな時間に何をしている」

 疑うような目付き。いつものことだ。なんなく笑みを浮かべて答える。

「自室へ戻るところです」どこにいたかは、言わなくても分かるだろう。

「隊長はどうされたんですか」

「軽く身体を動かしてきた。ただの日課だ」

「こんなに早くから」給仕よりも早く起きている兵士がいるとは思わなかった。

「日中はろくに身体を動かせない日もあるからな」

 お疲れ様です、なんて言えば、機嫌を損ねる気がした。なんと答えるべきか分からず、曖昧に頷いた。

 ふと思い付いて問う。

「これからアルフィンに会う予定はありますか?」

 彼女の眉間が僅かに動いた。

「何故」

「もし会うなら、出来れば言伝てを、と思いまして」

「なんだ」

「無理にとは言いませんが」

「構わない。なんと伝えればいい」

「これから、朝は出来るだけ早めに姫様の元へ行ってほしい、と」

 眉間に皺がよった。訝しげな表情。

「姫様になにかあったのか」

「いえ」

「では、何故」

 真っ直ぐな目。融通の利かない堅物の目。彼女には言ってもいいかな。そう思った。

「姫様は、少しずつ、快復に向かっています」

「その報告は受けている」

「それに伴って、僕は姫様にとって有害な存在でしかなくなります」

 沈黙。彼女が口を開こうとしたから、先んじて言葉を発した。

「僕は、少しずつ、姫様と距離を置くようにします。そうして空いたところに、彼女に入ってほしいんです」

 このことまでは伝えなくていいですけど、と笑いながら言った。彼女は険しい表情のままだった。僕に不信感を抱いている彼女からすれば、デメリットがまるでない提案なのに。

「離れられるのか?」彼女は言った。

「あんな傷を負ってまで共にいた姫様と、そんな容易く」

 笑みを浮かべて頷いた。

「風俗街に通う金さえあれば、相手は姫様でなくてもいいということか」

 噂を耳にしていたらしい。そんなに広まっているのだろうか。あるいは、彼女がアルフィンに教えたのかもしれない。返事をしないでいると、彼女は更に眉を潜めた。

 冷たい風が吹いて、身体が震えた。

 敬礼をしてから歩き出す。答える必要は感じなかった。

 呼び止められることもなく、宿舎に入る。空気が少しだけ温くなる。誰ともすれ違わないまま自室に入った。

 代わりがいない人なんていないよ。

 そんな言葉が浮かんだ。着替えながら、一体なんだろうと考える。

 あぁ、さっきの答えか。

 ベッドに入って、ようやく分かった。

 王やアルフィン、隣国の王子、多くの人にとって、姫様がそうであるように。僕にとって、アリスがそうであるように。

 姫様にとって、僕は、母親の、お妃様の代わりでしかない。

 彼女を狂わせるものがあるとすれば、それはきっと、僕の存在なのだろう。




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