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エルマさんが言ったように、彼は姫様を愛していた。なんと呼ぶべき愛なのかは分からなかったけれど、確かに。でもそれは、彼女が言ったような、汚らしい感情ではなかった。ずっと綺麗で、透明で、暖かくて、優しい。立場も、思惑も、見栄もない。二人でいられれば、他人の目などどうでもいいというようだった。それは、私の、そして、この城に生きるほとんどの人と正反対の生き方だった。
憧れを抱いた。そんな関係に。互いのことだけを想って、分かりあっている。私とノエリア様は、最期まで、そんな関係にはなれなかった。私のせいで。
夢を見た。昔の記憶だった。
私は姫様を驚かそうと、とあるスープを作った。姫様が苦手なニンジン。それを使ったように見せかけた、全く別のスープだった。
ベッドテーブルの上に料理を置くと、姫様の表情が固まった。ひきつった顔で、こ、これは? なんて聞かれた時は、笑みを堪えるのに必死だった。済ました顔で、栄養満点のニンジンのスープです、と答えた。
姫様はおそるおそるスープをすくい、口に運んだ。
あれ? 美味しいわ。アルフィン、これは本当にニンジンのスープなの?
そんな反応を、頭に浮かべていた。
姫様は笑った。苦笑いだった。
「ニンジンの味はするけど、美味しいわ。流石アルフィンね。あ、それとも、私が大人になったのかしら」
茶化して笑う。私は笑えなかった。きっと、後ろにいたエルマさんも――、いつも通り味見をしてもらっていた彼女も、言葉を失っていたと思う。
予想はできた。本人か先生に訊けば答えを得られることも分かっていた。それでも訊けなかった。
だって、私が、私だけが姫様に出来ることは、スープを作ることくらいしかなくて、それが無意味だと、誰が作っても同じだと認めてしまえば、心が潰れてしまいそうな気がした。
結局、そのことを先生に訊けたのは、姫様が亡くなって、先生が城を出ていく直前になってからだった。
「気付いてたのか」
煙草を吸いながら、先生は肯定した。薬の副作用で、以前から兆候はあった。完全に味覚を失ったのは、私がスープを作るようになった半月後のことだったと。
どうして言わなかったのか訊いた。声を荒げて。自分のことは棚に上げて。
「さあな。俺ぁ姫様じゃないから本当のところは分からん。だが、人間ってやつは、死を受け入れると周りのことばっか気にするようになる奴が多い」
「私のためだったということですか?」
先生は即答しなかった。疲れきったような目で私を見て、煙草の煙をはいた。
「なにも出来ないのに側にいなきゃならねぇ。辛いだろ、それは」
そう言って背を向ける。
そこで目が覚めた。夜明け前だった。いつも通りの時間。上体を起こして、軽く身体を伸ばす。日中は大分暖かくなったとはいえ、この時間はまだ寒い。身を震わせながら着替えて部屋を出る。洗面所に行くと、数人の同僚がいた。挨拶をしてから手早く身支度を整える。先に来ていた同僚が出ていって一人になった時、見計らったようにエルマさんが入ってきた。フラットさんが来た頃、口論のようになってしまったことがあったが、もともとそれほど話をする仲でもないため支障はなかった。ただ、あれ以来、どこかわだかまりを感じているのも確かだった。おそらく、彼女も同様に。
挨拶を交わす。彼女は私の隣に立った。鏡を見ているけれど、なにをするわけでもない。見る限り、身支度は既に済んでいるようだった。
「彼の話ですが」
「はい」
「近頃、どこか様子がおかしいとは思いませんか?」
「いえ、特には。何かあったのですか?」
「そういうわけではないのですが」
「城へ来た時ほどの愛想や饒舌さは若干なくなったように思いますが、元々口数の多い方ではなかったと姫様から聞いていますし、ただ単に、私達や、ここでの暮らしに慣れてきたのではないでしょうか」
「彼が傷を負う頻度が増しています。姫様は、本当に快方へ向かっているのでしょうか」
「彼は、間違いないと」
「そうですか」
エルマさんは頭を下げて洗面所を出ていった。彼女はまだ、彼に対して懐疑的だ。もっともそれは彼女に限ったことではなく、むしろ、信用しているのは私やノイエス隊長くらいなのかもしれない。
身支度を終えて食堂へ向かう。しかし、先程のエルマさんの言葉が頭から離れず、行き先を変えて、姫様の部屋へ向かうことにした。
外廊下、階段、廊下を進み、部屋が見えてきた。と、同時に、小さな泣き声。自然と早足になる。その声は、確かに部屋の中から聞こえていた。
ノック。泣き声が止まった。ドアを開く。
姫様はベッドの上に座っていた。服は着ていなかった。白い肌に鮮血を浴びて、それを洗い流すかのように涙を流していた。
駆け寄る。ベッドは赤く染まり、その中心には彼が仰向けに眠っていた。眠っているように見えた。それほどに、穏やかな顔をしていたから。
腹部に刺傷。今もなお、血が溢れ出ていた。血で汚れたシーツを取り、両手を使って傷口を押さえる。先生を呼ばなければ。茫然自失となっている姫様を見る。
「姫様」
肩が大きく跳ねた。私と、それから彼を見て、両手をついて頭を下げる。その口からは、ひたすらに謝罪が繰り返された。
「毎日一緒に寝るのは止めさせろ」
手術を終えた先生が、問いの答え以外で口にしたのは、その一言だけだった。
夜の医務室は静寂そのものだった。彼の寝息すら聞こえてくるほどに。欠伸を噛み殺して、涙目を拭う。電気を消し、カーテンも閉めきった部屋は暗く、時計の針が何時を示しているのかは分からなかった。体内時計では二時頃だと思うけれど、こんな時間まで起きていることはなかなかないため当てにならない。
椅子に座ったまま振り返り、隣のベッドを見る。彼のことを見ておくと先生に告げた際、眠くなったら寝てもいいとは言われていた。でも、目を覚ました彼が、満足に声も出せないような状態だったら。夕方頃に一度目を覚ました時も、ほとんど何も話せないまま眠ってしまったと聞いた。そのことを考えると、呑気に眠る気にはなれなかった。
不意に、寝息が途切れた。目を凝らして顔を覗き込む。彼の目がゆっくりと開いた。虚ろな目。徐々に、私のことを認識していくのが分かった。
「おはよう、アルフィン」
掠れた声。でも、その一言に、いくらか胸を撫で下ろした。
「おはようございます」
彼は頷いてから口が動かした。しかし、声を出す前に止まる。不思議に思っているうちに、再度口が動く。今度はちゃんと言葉を発した。
「姫様は?」
その問いで、理由が分かった。
きっと、前の名前を呼びそうになったんだ。ここに来る前の、姫様の名前を。
胸の中に何かが生まれた。なんだろう。胸に広がるでもなく、締め付けるでもない。少し、熱を放つだけ。きっと、もともと心のなかにあった感情なんだと思う。それが、小さく暴れている。駄々をこねている。
「姫様なら自室でお休みになっていると思います」
「一人で?」
「はい」
彼が起き上がろうとしたため背中を支える。傷口が痛むのか、短く息を呑んだ。
上体を起こして、一息つく。
「立ち歩くのは無理かな」
「おそらく」
「頼み事をしていい?」
「はい」
「姫様のところに行ってあげてほしい」
即答できなかった。同時に、妙な感情の正体に気付いた。
恋心だ。私は姫様に嫉妬している。でもそれは、純粋な恋心なんかじゃない。きっと、彼のことが好きなわけでもない。羨望が、歪に変化しただけ。彼と姫様の関係を羨ましく思って、自分もそうなりたいと望んでしまっただけ。そんな、自分勝手な感情。
「アルフィン?」
彼の声。いつの間にか俯いていた顔をあげる。自然と笑みを浮かべていた。
「こんな時にこんなことを言うのは失礼でしょうが、私は、貴方と姫様の関係を羨ましく思います。私もそうなりたいと思ってしまうほどに」
「僕たちのように」
驚いた声色ではなかった。ただ、繰り返しただけに聞こえた。
頷くと、沈黙が流れた。彼の頼みは覚えていたけれど、今すぐに動く気にはならなかった。まだ、胸は熱を放っている。口から何か吐き出させようとするみたいに。
「それは、きっと無理だよ」
彼は言った。いつも通りの口調だった。でも、表情が見えないせいだろうか。その声に、優しさはまるで感じなかった。もしかしたら、今までも、ずっとそうだったのかもしれない。
「姫様の部屋の、天蓋付きのベッド。あれを見て、鳥籠みたいだって思ったことはある?」
「あります。初めてお会いした時に」
「姫様がペットの鳥なら、この城の兵達は、彼女を捕まえた人間。王が彼女の飼い主、僕は――よく遊びに来る知り合いの鳥かな。それで君は、鳥の世話をする、飼い主の子供だ。だから君は、僕たちのようにはなれない。なってほしいとも思わない。これからの姫様に必要になっていくのは、きっと、僕よりも、君のような人だから」
貶されたのか、褒められたのか、貶されながらも褒められたのか、褒められながらも貶されたのか。それすら分からなかった。きっと、そこまで頭が回っていなかった。
「姫様のところに。きっと彼女は、今頃泣いてる。今まで認められなかった自分の罪を自覚して」
頷いて立ち上がり、逃げるように医務室を出た。
姫様にとって必要な人。
姫様のお付きとして、これ以上の誉め言葉があるだろうか。では何故、私は、咄嗟に否定したくなったのだろう。胸はまだ熱い。その熱が、きっと、私を狂わせているんだと思う。早く冷めてほしい。冷めないというのなら、いっそ、もっと熱く、狂わせてほしかった。
冷たい空気をいっぱいに吸い込んでから吐き出す。隣の部屋で眠っていた先生に一声掛けてから姫様の部屋に向かった。
日中の姫様は、ぼんやりとしていたものの、涙を流すことはなかった。彼の言うように、本当に泣いているのだろうか。仮にそうだとしても、もう泣き疲れて眠ってしまっているのではないだろうか。
ノックせずにドアを開くと、冷たい風が頬を撫でた。開け放たれたカーテンと窓。姫様は、その前に立っていた。振り向いて微笑む。その顔を見た途端、駆け寄って、後ろから抱き締めた。飛び降りるんじゃないか。そんな想像をしてしまうような笑みだったから。
腕の中で回って向かい合う形になる。胸に顔をうずめると同時に、背中に、掌の感触。一瞬だけ、爪が立てられた。でもすぐに、指の腹が触れた。
嗚咽。
小さな身体を抱き締める両手に、少しだけ、力を込めた。
応えるように、姫様の手にも力がこもった。
でも、痛みは感じない。
血も流れない。
そのまま。
罪悪感を感じてしまうほど、優しい熱のまま。




